〝ひさしぶり〟
風の音がした。
穏やかで、温かな風の音だ。
僕は目を開ける。
手に伝わる柔らかな感触に目を向ければ、風に揺れる草が腕を撫ぜていた。
伸びをしながらあくびをする。
「良くないね。春は気持ちよくてつい眠りこけてしまう。」
僕は一人そう呟いた。
此処は僕の秘密基地というほどではないけどお気に入りの場所。
高い所にあるから街を一眺できる。
それなりに大きな街だが、人が一人もいないから何だか小さく見える。
「何で、こんな所で寝てたんだっけ?」
思い出そうにもぼんやりとして何も思い出せない。
緩やかな春風が僕の思考を吹き飛ばしてゆく。
「まあ、どうでも良いか。」
――大切な何かを忘れている気がするけど。
いつからこうしていたか解らないけど、ずっと前からこうして気楽に毎日を送っていた気がする。
そう、僕はずっと一人で――
僕の頬を滴が伝った?
雨?
違う。
涙だ。
誰が?
当然涙を零すのは僕だ。
何故?
解らない。
冷たい涙が零れては地面を濡らす。
「おかしいな…」
新手の病気にも罹っただろうか。
なんだ、この哀しみは。
何が、僕をこうさせる?
先程までの晴れやかな気分が全て消え去り、どん底の冷たさが足元からせり上げていた。
こんなのは知らない。
知らない。
「なんなんだよ!消えてくれ!」
暗転する。
目覚める。
どうやら眠ってしまったようだ。
ベッドから起き上がると、一つ伸びをする。
時計を見れば止まっていた。
「壊れてしまったかな。結構気に入っていたんだけどな。」
僕は一人そう呟いた。
此処は平凡な僕の家。
街の無個性に埋もれた一つのつまらない家だ。
「ああ、つまんねえな。」
また、呟いた。
いつからだろう。
平凡な日常に価値が見出せなくなったのは。
思い出せない。
ずっと前からそうだったような、つい最近だったような。
記憶に靄がかかっていて細かいところまで取り出すことができない。
ベッドから降りると、下の階へ向かった。
僕を迎えたのはありふれた光景――ではなく静かな孤独だった。
僕以外の人間はいない。
いや、生物がいない。
「取り敢えず学校に行くか…」
僕は身支度を初めて気付く。
何で僕しかいない世界なのに学校に行かなければならないのだろう。
成績とかよく解らないモノの為に多大な時間を費やし、何に役に立つのかさっぱりなモノを全力で学ぶ。
集団行動の名の下で個性を潰し、理不尽を強要する。
僕は学校という場所が嫌いだった。
大学に入ってクラスメイトという存在がいなくなってようやく気楽になってきたところだ。
両親はどちらも優秀な大学の出で僕にも自分たちの取っていた以上の成績を取らせようと強制した。
成績…?
せいせき、セイセキ、せいせk、セイs、sei……■■。
今何のことを考えてえいたっけ?
忘れてしまった。
とにかく僕は学校が嫌いだったんだ。
なのにいざこうなってみると人間は惰性から逃れられない。
そんな自分が嫌になる。
学校に行くために用意した荷物を乱暴に投げ捨てた。
そうだ、僕以外には誰もいない。
つまり何をしても良い。
選択肢は無限大。
無限大だからこそ、何もできない。
「ヒトは自由の罪に課せられているのだ。」
突然、声がした。
〝声〟?
声というにはなんというか齟齬があるというか、とにかくその事象に声という名は似合わなかった。
「何一人遊びしてるんだい?僕も読者の皆さんも退屈になってきたよ。」
モノクロームの少女は僕にそう問うた。
「君は誰だ?人の家に勝手に上り込んで。というかいつの間にか入ってきた?」
僕は驚きを隠すように少女への疑問を畳み掛けた。
「はあ。君、こういう朝が何回目か憶えてる?」
少女は溜息がちに新しい質問。
「僕の事を憶えているかい?憶えていないね。全部忘れたんだね。」
僕は理解できない。
「何の事を言っているか解らない。」
「そうだろうよ。教えてあげよう。君が時計を止めて引きこもってから34857269034728460日目の朝だ。」
桁が大きすぎて何を言っているのか解らない。
「桁が大きすぎる?うるさい。実際君はそれだけの空虚な朝を繰り返しているんだ。」
相変わらずの呆れた表情で少女は続ける。
「嫌なことがある度にその概念を消して記憶を入れ替えてリスタート。大分面白かったけど、流石に34857269034728460回も見ると飽きが来るもんさ。」
少女はつらつらと語る。
「読者の皆様に34857269034728460回も同じようなシーンを見せる訳にはいかないので大部分はカットしたけど。」
「勝手に出てきて意味不明な事を言わないでくれ。」
僕は段々と苛々してきて、少女に乱暴な口調で訴えた。
「ここは管理者権限で失礼するよ。」
少女は息を一つ吸い込む。
『思い出せ。』
世界が砕け散った。
〝ひさしぶり〟だね。
ニンゲン?