彼の因縁、老兵の忠言
―――ずん、と一際大きな音がして、それ以来戦闘の音が聞こえなくなった。代わりに甲板にいる海賊たちのどよめきが聞こえる。
それまでの間。ブレッドはウェンディの腕を掴んだまま医務室に篭もっていた。
「終わったか……」
甲板を見上げ、船医はようやく腰を上げた。ウェンディの手を握ったまま。
ぽつりと、硬い声が洩れる。
「……放して下さい」
「ああ……?」
「放して下さい。……彼に、会わないと」
ブレッドは怪訝な顔で首を振った。
「残念だがそりゃ無理だ。上の様子がわからない以上危険だし。君に好き勝手歩き回られる訳にもいかない。
それにきっと君はあの子供―――ピーター・パンに連れられてこの海に来た。そうだろう?」
頷く。……そう。確かに彼は、ネバーランドへの案内役だった。
「―――なら君は、あの子供の被害者であり、俺たちの救出目標であり、同時に俺たちの宿敵ということになる」
どうしてだろう。ウェンディは彼ら海賊たちと昨日初めて遭った。それなのに彼らは全てを見通したように接してくる。それはまるで―――
「あいつに聞いてくれ。事の起こりは奴が握っている」
―――なにか、先の見えた物語を書き換えようとしているようだ。
◆
甲板の上では、かの悪名高き大海賊、フック船長が仰向けに倒れていた。服の所々から血が滲み、そして右腕は手首から先が、ない。
「調子はどうだ」
ブレッドが声をかける。船長は首だけをこちらに向けると、にやりと笑って応じた。
「船酔いで吐きそうだよ。―――コリンを叩き起こしてくれ。中指と小指の回線が切られた」
おぞましさに息を呑む。眼帯が外れ露出した紅い右目は、明らかに人間のものではなかった。
ブレッドが手下に声をかけ、船内に走らせた。足元に落ちていた右手を広い、持ち主に投げ渡す。
「……随分派手にやられたな。やはり百年以上も生きてきた化け物は手強いか」
「この程度は予想していたよ。目と腕の事は知られてしまったが、こちらも左肩を砕いてやった。―――とりあえず、痛み分けといったところか」
「なんだ、仕留めきれなかったのか」
「仕方がない。簡単に済ませられるとは思ってないさ。―――明日の朝、総攻撃をかける」
ぼやきながらクレイドは手首に右手をあてがう。かちりと音がして、何でもないように右手が動き出した。
「その右手……」
「ん? ……ああ、これか」
眼帯を付け直し、どうでもいい事のように海賊が頷く。
「いろいろとワケありでね。―――君も関係者だ。聞いておいた方がいいだろう」
「フック家は、初代ジェームスがその姓を名乗り始めた頃から―――つまりその利き腕をピーター・パンに切り落とされた時から―――ある呪いに囚われている」
「元からフックが姓じゃなかったの?」
「当たり前だ。誰が好き好んでこんなへんてこな名前を名乗るか。……元の姓はちゃんとした貴族の分家のものだよ。俺の名前もそれをもじってつけている」
本船の船長室の中、クレイドは女を侍らせながらウェンディの目の前で腰掛けていた。
「……クレイ。もうちょっとかたむけて。よくみえない」
「む。……こんな感じか?」
「そんなかんじー」
……訂正。一人の整備士がフック船長の義手を修理しているところだった。
「むー。クレイ。青の三番とって」
「あいよ」
「ん。ごくろー」
整備士―――コリンと名乗った―――は、ウェンディと同じかそれ以下の年頃の少女だった。
こんな子供を労働させているのかと思ったが、腕は確からしく、クレイドは腕をまかせっきりで見向きもしない。コリンがドライバーを腕の中に突っ込むたびに指がびくびくと動くのは、傍から見ていて気持ち悪いものがあった。
「……それで、呪いって何のこと?」
「呪いとしか言いようがない。―――フック家の跡取りは時が来ると利き腕を失い、ネバーランドへの航行権を得るというものだ。……俺の場合は右目も込みだったが」
とん、と海賊は眼帯を人差し指でたたいて見せた。
「ネバーランドへの、航行権」
「そう。この海へ来る事ができるのはフックの海賊団のみで、他の連中はこの海域に気付きもしない。……大航海時代なんて嘘っぱちだよ。奴ら、世界の果てを見たと言っても狂人扱いするだけだからな。とにかく、俺たち以外がこの島に来るためには、ピーター・パンに攫われるしかないわけだ」
そういって、海賊は唇をひん曲げた。それが、どうしようもなく癇に障る。
「別に、攫われてきたわけじゃない……! 私は自分の意志で―――」
「自分の意思でここまで来た? 本当に? たまたま思春期だった子供の部屋に、偶然永遠の子供がやってきて、思いがけず意気投合して、その日出会ったばかりの不審者の棲家にほいほいついて行った? ……残念だが、危機管理のできないお子様に自己意思を認めるほど俺は紳士じゃない。奴のやってることはね、悲観主義の子供の好奇心を刺激した、ただの誘拐なんだよ。そして俺たちは、それを止めるためにここまで来た」
それが一族の悲願なのだと彼は語った。
「違う。ピーターは、そんな事しない」
「どう思うかは君の勝手だ。奴のせいで子を失って悲しむ親を俺は何人も見てきたし―――そうなる事くらい、君にだって予想はつくだろう?」
なぜか、今まで意識すらしなかったというのに。親という言葉に衝撃を受けた。
「知らない。私がいなくなっても、悲しむ大人なんて……」
忘れられない記憶がある。
弟たちが寝静まった誕生日の夜。
自分で作った小さなケーキ。
立てた蝋燭越しの机向かいには、空っぽの椅子がある。
結局、その椅子は最後まで埋まることがなかった。
「大人なんて、みんな自分勝手で卑怯なのに、どうしてそんな時だけ―――」
あとは、言葉にならなかった。
このまま家に帰れば、次の日に自分は誕生日を迎える。そうやって年をとっていけば、やがて両親のような大人に染められてしまう。身を飾ることにお金を費やし、世間体ばかりを気にして、中身にある大切なものを永遠に見失ってしまうのだ。そう少年は言って、自分もそれを信じた。
……怖気が走る。本音と建前を食い違わせ、都合のいいままに生きていく―――そんな大人になるくらいならこの島で暮らす方が、よほど……
船長は、俯いたウェンディの顔を覗き込み、
「……他人本位な幸福なんて、それこそ価値がないと思うがね」
つまらなげに、そんなことを言った。
「人が悲しむのは、幸せだった日々を惜しむからだよ。他人ではなく、自分のね。
幸福は人から人へ伝播する。誰かを幸せにしたいのは、その実自分がそれを得たいからだ。『他人のことを考えろ』なんて、自己満足を正当化するための方便に過ぎない。だが、その自己満足は卑下するものじゃない。だから―――」
海賊は言葉を切り、困ったように続けた。
「―――だから、大人だろうが子供だろうが、人間は誰しもが自分勝手に生きているようなものだ。そう責めるようなことでもない。
君に何があったかは知らないが。もし君に、残した両親を想う心があるなら、その幸福はこれほど簡単に捨てていいほど安くないんじゃないか?」
想う心なんてない。そう答えようとして、しかし口からは何も言葉が出なかった。
沈黙が流れる。それは、行き場を見失いかけた怒りとともに、ウェンディの肩にのしかかった。
◆
「フック家は何代にも渡って有能な船乗りを輩出してきた名門じゃよ。分家というのが少々情けないがの」
船内の廊下でバケツを持った老人と会った。これから船内の窓を全て拭いていくと言うから、手伝いを買って出た。
「分家なら、本家が他にあるんじゃないですか?」
「いかにも。本家初代のフランシスは海軍中将まで出世した大海賊じゃ」
「海軍で海賊?」
「左様。略奪品を国に謙譲し、叙勲されたのじゃよ。売位売官だのなんだのと騒がれたが、戦争で手柄を立ててな。敵艦隊を丸ごと火達磨にして上役に実力を認めさせたのじゃ」
じゃぶじゃぶと雑巾を濡らし、力いっぱいに絞る。いまは、何も考えたくなかった。
「あー。そんな握り方じゃあいかん。もっとこう、両手で剣を握る感じで絞るんじゃ。―――さて、何の話じゃったか。……そう、フックの因縁だったの」
昔話好きの老人は、話し相手を得て随分と嬉しげにみえる。
「フックの惣領が片腕を失う宿命を背負っている話は聞いておるな? これがまた魔法じみていてな。ある者は事故で吹き飛ばされたり、ある者は病で手首から先を腐り落としたりと、実に多彩なやり口で隻腕になりおる」
「今の船長は、どうやって?」
窓をこする。なかなか取れない黄ばみ汚れがあった。
「軍役時代、敵の砲弾が命中しての。肩の間接ごと吹き飛ばされた。右目もその時のものじゃ。本来なら失血死かショック死なのじゃが、たまたま腕のいい軍医が乗船していて、さっさと傷を縫合して一命を取り留めたわけじゃ」
悪運も折り紙付きじゃろ、と老人は愉しげに語った。
「じゃが片腕では軍にはいられん。退役してからはぽっくりと姿をくらましてなあ。
二年も経った後になってひょっこり姿を現した。あの眼と腕を張り付けて、奇妙な嬢ちゃんを連れとった。あの整備長じゃよ。
二年も音沙汰無しで何してたのか尋ねたら、『海の果てを見てきた』だと。帰ったら帰ったで父親を継いで海賊稼業に転身、軍隊の若い連中もこぞってついていきよった。
儂の一人息子も曹長まで出世したのに、いい歳こいて奴に誑されおってここにおるわ」
そこで見せた、苦々しげな顔が意外だった。
「息子さんがいらっしゃるんですか? っていうか、海賊が嫌なら何でお爺さんはここに?」
「いかにも。スミスという不肖の馬鹿息子じゃが、あの小僧には重宝されとるみたいじゃの。
―――海賊になるべきでない理由はの。海賊は体が資本じゃが、老後に保障がないからじゃ。
儂みたいに長生きするもんは稀でな。大抵は五十前におっ死ぬ。……そうならないよう軍隊に入れたというに、あの馬鹿息子、始末に終えぬわ」
それから、老人の愚痴に付き合いながら、ウェンディは結局最後まで窓拭きを手伝う羽目になった。