無法者ども
夢の国へ行こう、と彼は言った。
窓辺へいざなう少年に頷きを返す。
……この瞬間すら夢のようだ。絵本の中にしかいなかった男の子が、目の前に立っている。
偽りも欺瞞も、煩わしい大人もいない完全な世界へ。
―――そんなものがあれば、私はどんなことでもしただろう。
◆
揺れている。
揺り椅子にでも乗っているのだろうか。不規則な振動はいつもは吐き気がするほどきらいなのに、今はそれほど苦ではない。
ただひたすら眠い。気を緩めればあっという間に睡魔に負けてしまいそうだ。
でもここでは眠れない。ここはいつものベッドではない。
……ここはどこなのか。
「ん―――」
まどろむ意識に些細な疑問を引っかけ、ウェンディ・ダーリングは眼を覚ました。
目の前には天井。視界全体が揺れていて、どこからか潮の香りが漂ってくる。
ここはどうやら船の一室のベッドらしい。
もう昼過ぎなのだろう。白い光が辺りを鮮明に照らしていた。
そこまでは見て取れた。だがそこまでだった。眠気の濃い頭はやはり鈍いままで、それ以上の思考を拒否している。
……まったく、こんなところを弟たちに見られたら、きっと十年は笑い話の種にされるに違いない。
そこまで思いついて、ついウェンディは頬を緩めた。
―――と、
「おはようダーリング君。具合はどうだ?」
「―――!?」
すぐ近くから声をかけられ、彼女は飛び上がった。声のした方を見ると、そこには、
「そこまで驚くことはないだろう。さすがに傷つく」
「そりゃ無理ですよ船長。どっちかっていうとこの人私たちの敵ですよ? 撃墜されて失神して、目が覚めたら悪の首魁と御対面なんだから怯えて当然だって」
「むう……」
珍妙な二人組がなにやら論議していた。
どちらも二十代後半ほどで、ひとりは白衣に眼鏡で、船医と分かりやすい格好をしているのに対し、もうひとりは右目に眼帯、上着、手袋と、いかにも暑苦しい格好で椅子にふんぞり返っていた。
二人はベッドに腰かけたウェンディを意にも介さずに、
「そうは言ってもなあブレッド、俺はそんなにいかついつもりはないし、軍役時代も割と婦人方に人気があったんだ。初対面で怯えられたのはこの子が初めてだぞ」
「あの……」
「ババアばかりにもてて嬉しいか? ありゃ単に若い司令官っつー肩書きに惹かれただけだろ」
「あー、今聞こえた。上官に対する暴言がさらっと。やっぱ舞踏会で裸踊りしたやつはメッキ剥がれるのも早いねこのガチムチ野郎」
まるで聞いていない。
「あの……」
「ふざけんな! ありゃテメエが罰ゲームでやらせたことだろが! 衛兵に追っかけまわされて俺は死ぬ思いしたんだぞ!?」
「よかったなぁ、肉体美を披露できて」
「表出ろッ!」
「上等だ!」
「あの!」
「「ああ!?」」
二人してガン飛ばされた。
ようやくウェンディに気付いた二人は気まずげに居住まいを正し、眼帯男が咳払いと共に、
「―――さて、話は変わるが。おはようダーリング君。気分はどうだね」
完全に猫を被りなおした。
「―――あ、いえ、ちょっとまだ眠気が」
「昨日溺れたばかりだからな。疲れが残っているんだろう」
船医が言った。
「もう少し寝ておくかね?」
「……結構です」
「―――よし、なら改めて名乗ろう」
眼帯の男が背筋を伸ばした。
「俺はクレイド。海賊だ」
「略しすぎだ馬鹿」
冷静に突っ込んだ船医にクレイドは不満げに口を尖らせた。
「だがなあ、ついたあだ名はごまんとあるし、経歴全部を話すと日が暮れる。―――所詮無法者なんだ。名乗りは簡単な方がいいだろう?」
はあ、と溜息をつき、船医はウェンディに身体を向けなおした。
「なら俺も名乗りましょう、ダーリング嬢。ブレッド・クロフォード。船医です」
「昨日君を手当てしたのもこの男だ」
「……どうも」
「いやいや、なかなかに役得だったよ。子供とはいえ女性の唇の味は久し振りだ」
にやりと笑った船医ブレッドの頭を軽く小突き、海賊は大儀そうに立ち上がった。
「君の服は洗濯しておいた。なにぶん海水濡れていたものでね。箪笥に入っているから着替えるといい。……ああ、昨日の君の着替えはうちの女航海士にやらせた。男の目には触れさせていないから安心しなさい」
「あの、何を……?」
何をするのかと疑問を投げかけると、海賊船長は肩をすくめて言った。
「自己紹介も終わったところだ。船の中を見たくないか?」
◆
船内の廊下を歩いている最中、説明を受けた。
クレイドたちの乗る私掠船(海賊船)エルドラコ号は本国屈指の快速を誇る帆船だという。
二千トン級の巨体を誇るが、しかし吟味し尽くされた船体設計や材質、操船技術により、同規模の櫂付き帆船と競走しても余裕で引き離すことができる。帆船である理由は、海賊船である以上漕ぎ手よりも戦闘員を多く配置する必要があったためだ。
海賊団の規模は五百人程度。うち三百人は遠い本拠地に配備してあり、周辺警護と貿易、敵対組織への略奪、傭兵として貿易船警護を任されている。
対し二百人の海賊たちは、この海で襲撃、略奪を繰り返している。この船には七十人ほどが乗船中で、あとの百三十人は船団を構成する五百トン級十五隻を操船している。この十五隻はおまけのようなもので、いざとなればエルドラコ号のみで全構成員を収容可能だ。
そこまで説明して、ブレッドはウェンディににこりと笑いかけた。
「これほどの規模を誇る海賊団は他に類を見ない。おそらく本国一だろうな。……なんなら、正規軍とやり合っても勝つ自信がある」
「不謹慎だぞ、ブレッド。俺は女王陛下に刃向かう気はないし、それに随行船はまた他の用途に使う」
意味深にいって、クレイドは立ち止まった。目の前には扉。恐らくここから先に甲板があるのだろう。
甲板に出ると、上から男が降ってきた。
「お頭! こんな時間に女連れで何やってんですか?」
落下事故かと思ったが、見間違いだった。剽悍な風貌をした男は、猿のような身ごなしで高い帆桁から降りてきたらしい。
他にも船橋で思い思いに休憩を取っていた数人の男たちがこちらに気づき、わらわらと騒ぎ集まってくる。
「おお、確か昨日の」
「もう起きて大丈夫なのか?」
「よく見るとかわいい顔してんじゃん。一緒にお茶しない?」
「馬鹿、彼女まだ子供じゃねえか。―――うちの息子十二になるんだけどお見合いとか興味ある?」
「阿呆! てめえにあんな別嬪な娘作らせてたまるか! ―――あっしの甥っ子がわりと男前ですぜお嬢さん」
「静かにせんか、この餓鬼どもが!」
船長の一喝。途端に男たちは水を打ったように静かになった。見るからに不満げでやる気のない船員たちを見回し、クレイドは咳払いをした。
「客人を案内している。手の空いている連中を集めろ」
「うぃーっす」
「聞こえんぞ!」
「あいあいさー!」
鼓笛が鳴り響いた。傍らを並走していた船が近づいてきて縁同士に梯子をわたす。最終的に十四隻の大船団はひとかたまりに密集していた。そして次々に海賊たちが梯子を伝って現れ、見とれるほど鮮やかな動きで甲板に整然と隊列を組む。その手際はもはや海賊ではなく海軍と呼んでも遜色ないほどだった。
伝令が声をあげる。
「―――点呼完了。百二十一名集合しました。ナーデル隊、ケネス隊は各二十名を伴い周辺海域を偵察中。スミス班、オーガン班各十名は随行船管理。スネア班は本船管理にあたっています」
伝令が言葉を切り、船医が続けた。
「八名を医務室に収容中。疫病の兆しのある者二名は個室に隔離中。いずれもそう大事にならずに済みそうだ。残り六名のうち四名が今週中に復帰予定だ」
「コリン整備長の姿が見えないが?」
「それが―――」
船長が疑問を投げかけると、伝令は困った様子で黙り込んだ。代わりに船員の一人が答える。
「あー。なんつーか、二日酔いで自室に引きこもってます。昨夜ジュースと間違えてワインを引っ掛けたみたいで。『あとしまつよろしくー』だそうです」
「あの馬鹿……」
こめかみを押さえた船長だったが、気を取り直して、
「―――まあいい。あとで船長室に来るように伝えろ。
さて諸君、いよいよ目的の島に近づいた。その証拠がここにいる彼女―――ウェンディ・ダーリング君だ。彼女は昨夜、飛行機材を一切使用せず空を飛び、本船の砲手に撃墜された。幸い弾は外れ彼女は無傷のままだが、問題はそこではない」
そこで、クレイドはちらりと隻眼をウェンディの方に向けた。
ちらり、と。
その眼に、ウェンディは冷たい炎がちらついたように見えた。
「判るか、諸君? ここに、伝承が目の前に現れたのだ。俺たちはもう狂人や詐欺師ではない。俺たちの親父どもは誇りある船乗りであり、勇猛な戦士だった。……本国にて証明することはできないが、少なくとも、彼らの誇りを、俺たちは取り戻した。そうだろう?」
―――おおおおおおおおおおっ!
いったい、何が起きたのか。
気がつけば、男たちの歓声が鳴り響き、甲板を揺るがしていた。
信じられない思いで見回す。男たちは完全に感極まった様子だ。互いに方を抱き合い、涙に咽ぶものもいる。
そんな彼らを前に、船長は遥か海の彼方を指さした。そこには、薄く靄をかけたように判然としない島の姿がある。
「見えるな、諸君。あれが俺たちの目指していた島だ。あれが忌まわしい因縁を断つ地だ。そして―――」
「あんたの死体が鰐に食われる島だよ」
何者かが船長の演説を遮る。それは、ウェンディのよく聞き知っていた声だった。
何者だ、と海賊たちはあたりを見回し、そして見つけた。
帆柱よりもさらに上、船団すべてを視界に収める天空にて。
海賊たちの、積年の怨敵が浮遊している―――