Ⅱ安寧
百人を超える方が見て下さったようで、橋本感激です。ちょっとずつ進めていきますので気長に読んでってくださいね。
窓硝子が風で揺れる音で目を覚ました。窓から外を見やると、どんよりとした雲が空に立ちこめて、今にも雨が降り出しそうだった。時計は見ていないが、自然と目が覚めたのでそろそろ良い時間なのだろう。眠い目を擦りつつ、身体を起こそうとして、やめた。
スぅ……スぅ……。
俺は傍らで、気持ちよさそうに寝息を立てる生き物に目をやった。
ミルだ。長かった赤毛はばっさりと切ってしまったが、ここ数年でずいぶんと背が伸び、もこもことした赤いパジャマを着たしなやかな身体は、少女らしく丸みを帯びた線を描き出している。しかしながら、同世代の娘と比べて胸の成長速度を遅めだった。栄養のあるものを腹一杯食わせてやりたいのだが、近年はどこも食料不足。毎日仕事があり、糧にありつけるだけ俺たちは運が良いほうだった。
まあ、栄養があるものを食ったところで胸が膨らむかどうかはわからないが……。
そういえば、ミルが時折俺のベッドに潜り込んでくるようになったのは、いつからだろうか。たぶん八年前のあの日からだ。史上最悪の樹食の日。まるで、狙ったかのように子どもの遊び場に枝葉を伸ばされて、数百人の子どもたちが犠牲になった。
俺は錆びた斧を振るい、獅子奮迅の如く戦った。人類としては大いなる負け。けれども、俺たちはどうにか生き延びることができた。
支払った代償は取り戻せないほど、高いものであったが……。
俺はミルを起こさないように、そっとベッドから這い出た。まあ、一時間もしないうちに目を覚まして、俺を探しにくるだろうが、今は少しでも多く寝かせてやりたい。今日の仕事はミルにやってもらいたいことが山ほどあるのだ。
ベッド脇の机に置かれた水差しから水を飲み、足を忍ばせて扉へと向かい、階下へと降りる。一階の壁面はつるつるに磨かれた大理石。だだっ広いリビングには大きな石造りの机がどんと置かれている。
机の上には旨そうな朝飯が並んでいた。羊を潰して作ったベーコンに、野鳥の卵を使ったスクランブルエッグ、まるまると膨らんだ小麦のパンに、野いちごを潰して作ったジャム。山羊の乳が入ったカップが置かれている。
樹冠影は八年前よりも更なる広がりを見せていた。畑や牧草地の多くは樹冠影に消えて、食料を確保するのが難しくなっている。人々は新たな土地を開墾し続け、農業や畜産に勤しみ、足りない場合は野生の動植物から食料を得ていた。
「ふんふんふん♪」
キッチンからご機嫌な鼻歌が聞こえた。そして、鼻歌に合いの手を入れるように、トントンと包丁がまな板を叩く音が途切れることなく続いている。
俺はキッチンへと向かった。纏うケープと同じ紫のエプロンを着けたラティが、サラダに使うレタスを食べやすい大きさに切っているところだった。腰まで伸びる『真っ白な』髪の毛は左右に分かれて、丁寧な三つ編みが施されている。
「おはよう。ラティ」
俺が呼びかけると、ラティは包丁を動かす手を止めて、こちらへ振り返った。その顔は本当に嬉しそうな満面の笑みを湛えている。
「おはよう。ローレン」
顔の表面に走る傷跡は数年経っても消えることはない。それでも、村一番の腕利きの医者が丁寧な治療をしてくれたおかげで、ずいぶんと目立たなくなっている。そして、肝心の左眼はやはり戻らなかった。今は失われた左眼を覆い隠すように茶革の眼帯を当てている。
俺はそんなラティの顔に唇を寄せると、優しく額に口づけをした。柑橘系を思わせるフルーティな香りが、彼女の体温に乗ってふわりと匂い立つ。ラティはぽっと顔を赤らめて、恥ずかしそうに身をくねらせた。エプロンを押し上げる豊満な両胸は彼女の動きに合わせて揺れた。
「いやん、ローレン恥ずかしい」
「ちょ、危ないから。包丁置けよ」
ラティはぺろりと舌を出すと、包丁をまな板のそばに置いて、再びこちらに振り向いた。それから大事なものでも触るかのように、額に手を当てて、身体をもじもじと左右に揺らしながら、私は幸せだと言わんばかりに頬をだらしなく崩した。
「えへへ。ローレンのちゅー。ローレンのちゅー」
「バカ、あんまり大きな声で言うなよ。こっちが恥ずかしいだろ」
「じゃあ、塞いで?」
「何をだ?」
「そりゃあ、もちろん。唇と、唇で……」
額に当てていた手を自らの唇に当てる。それから、蒼から群青に変わってしまった右目を軽く瞑る。全く、あざといんだか、からかっているのか、わからない。戯れに俺はラティの額を右手で軽くはじいてやった。すると、彼女は額を押さえながら「本気なのにい」とつぶやきながら唸る。
死んでも口に出して言う気はないが、唇を重ね合わせるキスというのはもっと大事なときに行うもんだ。少なくとも今じゃない。
俺とラティとミルは同じ家に住んでいる。この家の主であった親父は三年前にガルムに喰われて死んだ。ラティの両親は八年前のあの日に、娘を探して、樹冠影へと消えていったという。
養ってくれる大人を失った俺たちは一緒に住むことにした。幸いにも、親父が残した家は広くて三人で生活を送るには十分過ぎるほどであった。家はある。残してくれた若干の蓄えもある。しかし、職もなくずっと同じ暮らしができるほど甘いご時世ではない。仕方がないので、死んだ親父の伝手を使って、空師の見習いとして雇ってもらうことにした。
幸いにも、親の七光りと八年前の孤軍奮闘の経験が買われたらしく、たいした働きもしていないのに、なかなかの給金をもらえることになった。毎日の仕事はなかなか大変だが、おかげで十分に食べていくことができた。
「兄ちゃんどこ? 兄ちゃん? 兄ちゃん」
ふと、二階から母馬を探す子馬のような悲痛な叫びが聞こえた。それから、ばんと扉が開け放たれる音。階段を粗々しく駆け下りる音がして、それは真っ先にキッチンへと飛び込んでくる。
「兄ちゃんっ――いったのぉ!」
短い赤毛は掻き毟ったのか、ぐしゃぐしゃになっており、瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。しかし、当の本人はそんなこと全く気にする様子もなく、俺の方へ猛烈な勢いで突っ込んでくる。
「うう、兄ちゃん。兄ちゃん。ひどいの。勝手にベッドからでちゃだめなの。起きるときはミルも一緒なの。一緒に下に降りるの」
ミルは一気にまくし立てながら、俺の体に両手を回してがっちり抱きしめると、ぐりぐりと額を俺の胸元に押しつけてくる。ミル曰く、これは自らの体からわき上がってくる不安を、額をこすりつけることによって解消しているらしい。ミルの身体から、むんとミルクのような甘い香りが匂い立ち、俺は少しだけたじろいだ。
「起こしちゃ悪いと思ったんだよ。今日はたっぷり働いてもらうんだから、辛いだろ。だから、少しでもゆっくり寝かせてやろうと……」
「それでも、一人にしちゃだめ!」
何年経っても、このわがままな性格は昔のままだ。それどころか、年々ひどくなっていっているような気さえする。
「ちょっと、ミルちゃん。聞き捨てならない言葉があったわ。勝手にベッドって、もしかしてまたローレンと一緒に寝ていたの?」
突然のミルの登場に面を食らっていたラティであったが、気になった言葉があったらしく、口を挟んでくる。すると、ミルは俺の胸元から額を離すと、ジトーっと目を細めてラティの方を見やった。
「そうなの。ミルは兄ちゃんのベッドで一緒に寝てたの」
「は、破廉恥よ。兄妹が同じベッドに寝るなんて」
「破廉恥じゃないの。家族だから、普通のことだもん」
「私だって家族よ。ローレンがそう言ってくれたわ」
ラティはそう言いながら、くるりと踵を返して、何を思ったのか先ほど置いたばかりの包丁を再び取り上げた。右目が冷気を帯びてすっと細くなる。
「それに、私はさっき額にちゅーしてもらったんだから……そうよねぇローレン」
包丁を持ちながら、にっこり笑われたら頷くしかない。すると、ミルは頬を丸々と膨らませて、再び額を胸に擦りつけてくる。
「ずるいの。ずるいの。ミルもちゅーして欲しいの」
「あら、妹とちゅーをするのは流石に変よ。でも、彼女だったら、なんの問題もないわ」
「むう……ミルは認めてないの。ラティ姉ちゃんはまだ兄ちゃんの彼女じゃないの」
「まだってことは、今から彼女ね。はい、決まり」
ラティが勝ち誇ったような顔で両手をぱちんと叩く。
「ああ、ずるいの。間違えただけなの」
ミルは顔を上げて、ラティをキッと睨む。ラティも、負けじと睨み返す。このままでは取っ組み合いの喧嘩でも始めかねない勢いなので、俺は仲裁案を提示した。
「じゃあ、俺がミルの額にもキスをして、ラティも俺のベッドで一緒に寝れば問題ないんじゃないか」
うん。我ながら、名案だと思う。しかし、ラティとミルはちっとも名案だとは思わなかったらしい。睨み合っていた視線を一瞬にしてこちらに向けてきた二人は、まるで図ったかのようにぴたりと声を合わせる。
「そういう問題じゃないの」
「そういう問題じゃないわ」
ミルにがっちりと抱きしめられて、包丁を持ったままのラティが犬のように唸りながら近づいてくる。逃げ場はない。俺は曖昧に笑いながら、どうにか刺されないように祈るだけだった。