Ⅰ襲来
超絶不定期連載です。大学の卒業制作を手直ししたものになります。出来るだけ完結まで駆け抜けられるようにお祈りしておきます。
樹は木して語らない。大地に根を張り、樹冠を広げ、太陽の光を吸収しながら、ただその場所に有り続ける。けれども、それは昔の話。今は誰もが知っている。樹は嗤うのだ。風が吹いていないのに枝葉を揺らして不満げに嗤う。人々はそれに身を竦めて怯える。脳の奥に住み着いた恐怖が首をもたげて、支配者が誰かということを嫌でも認識させる。反抗すれば死ぬ。それは、それは、あっさりと。存在を知らずに靴底で踏み潰す蟻のように。だからこそ、人々は地に額を擦りつけて、苦渋を舐めてでも、服従の姿勢を示す。
生きるために。生きて、未来に希望を託すために。そうやって、人類は長きに渡り、か細い繁栄を続けてきた。しかし、もう長くは続かないだろう。いつかは終わる。人類が天に君臨する時代はとっくに終わったのだから……。
雲ひとつない蒼天がどこまでも広がっていた。
真っ白な陽の塊がぽつんと浮かんでいて、焼けつくような日射しが乾いた大地に降り注ぐ。足に絡みつくようなふかふかの腐葉土は、灼熱の鉄板の如く熱せられて、今にもじゅうじゅうと音を立てそうだった。
そんな大地をローレンは走っていた。まだ十になったばかりの子どもだ。精悍な顔立ちはほんのりと赤く、額には大粒の汗をかいている。両肩には鮮やかな橙のケープを纏っており、眩しそうに細められた鳶の瞳は腕白盛りの子どもらしく、好奇心に満ちあふれていた。彼の髪は燃えるように赤く、家を出る前に鏡の前で念入りに整えてきたのだが、今は小さな手がふたつ。まるで馬の手綱を握りしめるように、むんずと掴んでいた。
「兄ちゃん、走るの!」
「ミルも走れよ。その方が俺も軽くなって、もっと速く走れるぞ」
「やだ。足、熱くなるもん」
ローレンの背中に負ぶさって、ぞんざいな口ぶりで命令するのは三つ年下の妹。ミル。容姿はローレンとよく似ていて、赤毛はすらりと長く、ぱっちりとした紅瞳の周囲にはそばかすが点々と散らばっている。幼子らしいもっちりとした頬は、不満そうにぷうと膨らんでいた。ミルは先ほどからずっとローレンを急かしながら、宙に浮いた短い足をばたつかせていた。
「ったく。わがままなんだから」
「わがままじゃないの。妹の特権だもん!」
「何が……っと。特権だよ」
ローレンは振動でずり落ちそうになったミルを背負い直し、走る速度を上げた。目指すは家から三十分ほどの場所にある廃村だった。ローレンは家の手伝いを終えると、ミルを連れて外へ遊びに出かけるのが日課になっていた。
「着いたの」
しばらく走り続けて、ようやく廃村の境へと辿り着く。ふたりの目の前には視界を横切るように高い石塀が延々と連なって、侵入者を拒んでいた。中に入るには、アーチ状に組まれた石門をくぐる必要があった。幸いにも、石門には扉がついておらず、自由に出入りできるようになっていた。
ローレンは石門の前で足を止めると、背負っていたミルを地面に降ろした。ミルはうーんと大きく伸びをすると、羽織っていた深紅のケープの中に手を突っ込んで、古びた懐中時計を取り出した。真鍮製のもので長い鎖が付いているが、手垢や汚れが目立ち、本来の輝きは失われている。
「二十分の遅刻なの。ラティ姉ちゃん怒ってるかな」
「そのときは、ミルの準備が遅かったって言うからな」
「勝手に、ミルのせいにしちゃだめ」
ミルはむくれて、再び頬を膨らませるが、ローレンは意地悪そうに笑うばかりだった。
「えっと、待ち合わせは……」
ローレンは辺りをきょろきょろと見渡しながら、石門をくぐる。
「待ってよ。おてて、繋ぐの!」
ミルは慌てて懐中時計をケープの中に仕舞い、ローレンの後を追いかける。
「仕方ねえな。ほら手、出せ」
ローレンは自分の方に伸びてきた小さな手を掴むと、ぎゅっと握った。ミルは手を握られて安心したのか、真っ白な歯を綻ばせてにっと笑った。
二人は、村の中央に伸びる村道を歩き始めた。左右にはほんの数年前まで人が住んでいた民家が建ち並んでいた。煉瓦造りの四角い建物で、村の全景は赤茶けて見える。日射しが強いためか窓はほとんどない。建物が石造りでしっかりとしているため、子どもたちが隠れんぼなどをして遊ぶには最適な場所だった。
今日は学校も休みで、早々に家の手伝いを終えた子どもたちが、賑やかな笑い声を上げながら、空き家に出たり入ったり、地面に指で絵を描いたり、追いかけっこをしたりと遊び回っていた。
「おう、ローレン。遅いぞ」
ローレンと顔見知りの少年が声をかけてくる。それにつられて、周囲で遊んでいた子どもたちがわいわいとローレンを取り囲んだ。
「悪いな」
ローレンがそう言うと、「もっと早く来いよ」「今日は何して遊ぶんだ」と口々に言葉が返ってくる。
「今日は先約があるんだ。だから、すまん」
ローレンは集まってきた子どもたちに、すまなそうな顔をして頭を垂れると、最初に話しかけてきた少年がにやりと笑った。
「ははーん。さては、お姫様との約束だな」
「ち、違うよ。そんなんじゃないから」
ローレンは慌てたように両手を振って否定するが、その目は不自然に泳いでいる。
「ちぇ、付き合い悪いなあ。ラティなら、鐘楼の前で待っていたぞ」
少年はそう言うと、前方を指さした。
その先には鐘楼があった。村の敷地に存在する一番高い建物だ。空に向かって伸び上がる白亜の塔は煉瓦を積み重ねて作られている。壁面は塗料で白く塗られていて、先端は鋭角に尖り、大きな鐘が吊り下げられていた。
そこは昔、神様に祈りを捧げる場所だった。村人は毎日のように熱心にこの場所へと通い、神様に祈った。祈って、祈って、祈り続けて、ある日姿を消したのである。
ローレンは、集まってきた子どもたちに別れを告げて、再び歩き出した。鐘楼は近づくにつれてどんどん高くなり、やがて十字の紋章を掲げた建物が見えてくる。
そこには白壁に背を預けて佇む、少女の姿があった。こんがりと焼けた小麦色の肌。腰まで届く柔らかそうな黒髪は夏風に静かに揺れている。眸は空を丸ごと映し込んだかのような蒼。両肩には紫のケープを纏っており、胸元の辺りには羊の飾りが付いたブローチがあった。
少女はローレンとミルの姿を見留めるなり、ほっとしたように胸に手を当てた。心細かったのだろう。目尻の下がった眸は少しばかり潤んでいる。
「もう、来ないかと思った」
「ごめん、こいつが……」
早速ローレンがミルを糾弾しようとしたが、ミルはするりとローレンの手から抜け出すと、少女のそばに駆け寄った。そして、今度は少女の手を握る。
「兄ちゃんが悪いの。ラティ姉ちゃんに会うから、かっこよくして行かなきゃって。ずーっと髪の毛をいじいじしてたの」
「だああ、黙ってろよな」
ローレンは恥ずかしそうに身をよじって、手足をばたつかせた。そんな彼の頭は家を出た直後こそ、整っていたのだが、ミルが手を乗せたせいで盛大に乱れていた。どうやら、本人はそのことに気がついていないらしい。それでも、ラティと呼ばれた少女はローレンの方をじぃっと見やると、両手を胸の前で重ね合わせて、小首を傾げて笑った。
「ローレン。かっこいいよ」
「え、ああ。そうか? だよな。俺、かっこいいもんな。へへ」
ローレンは照れくさそうに頭を掻こうとしたが、髪型が崩れると思ったのか、手を途中まで持っていって止めた。それから、ごほんとひとつ咳払いをすると今日の本題を持ち出す。
「今日はクオーツを探しに行くぞ」
「え、クオーツ?」
途端にミルが目を輝かせて食いつく。
「そうだ。ほら、これ見てみろ」
ローレンはそう言うと、履いていたチュニックのポケットから、胡桃色の革袋を取り出した。口を縛っていた革紐を解いて、中から小指の爪ほどの小さなクオーツをつまみ出す。それは透明のクオーツが割れた欠片で、陽光を浴びてきらりとした輝きを放っていた。
クオーツはエネルギーを内包する種だ。赤、橙、黄、緑、青、透、紫と七色あり、手にしたときに一番輝きを放つ色のクオーツが自分の色となる。クオーツは火を起こしたり、料理の味を良くしたり、家畜や人間の病気を治したり、雨乞いをしたりと、様々な用途で利用される。基本的には、人間が自らの手で行える範囲内でしか効果はないが、短時間で最大限の効果が得られる代物だった。
「へえ、どこで見つけたの?」
「そりゃあ、樹冠影の中だよ」
「え……」
驚きを露わにしていたラティの顔が一瞬にして曇り出す。それから、ぶんぶんと首を横に振ると、白いロングスカートをぎゅっと握りしめて、強い口調で言った。
「ローレン、あそこは危ないよ」
そして、ラティはローレンとミルが来た方向とは真反対を指さす。わざわざ視線を向けるまでもない。この村にいれば、嫌でもその姿は視界に入ってくる。
巨大樹『ウルズ』。
空いっぱいに伸びた枝葉は際限なく広げられ、陽光を強欲に奪い取る樹冠となって、付近に存在したいくつもの集落をまるごと影――樹冠影に呑みこんでいた。樹冠影に呑まれた集落の住人はまるで、元々誰も住んでいなかったかのように、跡形もなく消えてしまうという。この廃村も常時は樹冠影に呑まれてはいないものの、旧信仰を捨てきれなかったものたちが集う集落であったために、ウルズによって早めに粛正――消されたのではないかと専らの噂になっていた。
「大丈夫だって、樹冠影の縁で見つけたやつだし。ほんの一歩か、二歩入っただけだよ」
「樹冠影は空師しか入っちゃだめって、お父さん言っていたの」
ミルもラティを真似てなのか、顔をしかめて、咎めるような口調で言った。
「俺は将来空師になるんだからいいんだよ」
ローレンは一向に気にする様子を見せず、ラティの手を引っ掴んでウルズの方へ歩き出そうとする。しかし、ラティとミルは頑なに動こうとしなかった。
「やっぱり危ないよう。ローレン」
「なんだよ。俺の言うことが聞けないのか?」
珍しく自分の言い分が通らないことに、苛立ちを隠せないローレンは眉間を寄せて凄むと、ラティはびくりと肩を震わせた。
「暴力はだめなの。みんな仲良しなの」
不穏な空気を悟ったミルがその場を収めようとするが、ローレンは聞く耳を持たず、矛先をミルに向けた。
「お前は黙ってろよ」
「キイイイイッ……ミルはお前じゃないもん」
一瞬にして癇癪玉に火が付いたミルは、足を後ろに振り上げて思いっきりローレンのスネを蹴り上げた。
「痛ってぇー。何すんだよ」
「強引な兄ちゃんが悪いんだもん。当然の報いなの」
「くそ、調子に乗りやがって」
あまりの痛みに完全に頭に血が上ったローレンも、やり返そうと拳を振り上げる。
そのときだった――。突如始まった兄妹喧嘩におたおたしていたラティが、あっと叫んで空を見上げた。
「ローレン」
「なんだよ、ラティ」
「お、お空が」
ラティの言葉にローレンも視線を空に向ける。
瞬間――。その瞳は驚愕に彩られて、大きく見開かれた。
「まずい」
ローレンがぽつりと呟くと、辺りは急激に暗くなり始めた。みしみしと何かが軋む音がどこからともなく聞こえだし、家畜の吐息のような生臭さが辺りに漂い出す。空では晴れ晴れとしていた蒼が消え失せ、黒い影のようなものがウルズの方から迫り出していた。雲ではない。あれはウルズが獲物を求めて樹冠影を拡大させているのだ。
樹喰の日だった。
ウルズの恐ろしさを父親からうんざりするほど聞かされていたローレンは、とっさに今までの諍いを忘れ、ミルを背負って、ラティの手を握った。
「逃げるぞッ!」
そして、少女たちの返事を待たずに走り出した。立ち止まっている暇などない。空が暗くなり、嗤い声が聞こえたら、なるべく遠くへ。できるだけウルズから離れること。それが父親の教えだった。ウルズは不定期で、樹冠を膨張させていつもより樹冠影を広げる。幹を中心にして、どこまでも枝葉を伸ばし続ける。
人を喰らうために。
足が遅い人類は早々に餌食になる。ローレンは可能な限り早く来た道を戻り始めた。他の子どもたちも空の異変に気づいたらしく、悲鳴を上げながら逃げ惑う。
「ローレン怖いよう。置いていかないで」
もたもたと、今にも絡んで転びそうな足を必死に動かして走るラティが泣き言をこぼす。瞳にはいっぱいの涙を浮かべて、流れた雫が頬できらりと光る。
「置いていくもんか。絶対手、離さないから安心しろ」
「ミルもおてて離れないように、ちゃんと見張っておくの」
ローレンの背中にいるミルも元気づけるように言った。
「うん」
ラティは押し寄せる恐怖を、無理矢理飲み込もうとするかのように、唇を真一文字に引き結んで小さく頷いた。
樹冠影はどんどん肥大していった。陽光は急速に力を失い、じっくりと煮詰めたような濃い闇が辺りを呑みこもうとしていた。走っても、走っても、ローレンの視界に村境は見えてこなかった。
「はあ……はあ……」
どんよりと淀んだ空気が、ローレンの肺を締め上げる。みしみしと枝が軋む音は、葉を擦り合わせたような音――嗤い声に変わる。やがて、のっぺりとした絶望感がローレンの背中に這い上り始めた。このままでは死んでしまう。そんな恐怖がローレンの頭を支配し始める。
ようやく、村境が見えてきた。しかし、そこでは大勢の子どもたちが立ち往生していた。みな泣き叫び、悲鳴を上げて、前方の障害物を指さして喚いている。
「嘘だろ……」
ローレンはぎりりと歯ぎしりをする。先ほどくぐり抜けたばかりのアーチ状の石門には、頑なに閉ざされた白い扉がはめ込まれていた。先ほどまではこんなものなかったはずだ。
ローレンは目を凝らすと、その正体ははっきりとした。それは地面から伸びた真っ白な細かい根っこが、絡み合って塊を作っていた。ウルズが獲物をしっかりと囲い込み、居場所を把握するための罠だ。
ローレンは背負っていたミルを地面に降ろすと、ラティとミルの手をしっかりと繋がせた。
「いいか、何があっても離すなよ」
「兄ちゃん。どこに行くの?」
「あの根っこをぶっ潰してくる」
ローレンはそう言うと、手近の建物に入った。そこは物置として使われていた場所で、使い古された用具がたくさん置いてあった。その中からローレンは、一振りの斧を手に取った。刃先は錆び付いていて、切れ味は悪そうだったが、強引に振り回せば根っこくらいは切れそうだった。
「どけどけどけええええええぇ」
ローレンは叫びながら、斧を振り上げて、根っこの塊へと走り出す。そして、えいやと気合いの入ったかけ声と共に斧を振り下ろした。
たちまち、繊維の塊が切れる音が響き、白い塊が波打つ。すると、助かるかもしれないと活気づいた子たちが、おおと感嘆の声を漏らし、やんややんやと応援し始める。
「やれぇ、ローレン。ぶちかませ」
「早く!」
ローレンは斧を力任せに連打する。根っこはその身の柔らかさを利用して、斧の衝撃を吸収しようとしていたが、執拗に同じ場所を狙われて、ついには大人が通れるほどの大穴が空いた。
「さあ、この穴から逃げるんだ」
ローレンが叫ぶと、声援を送っていた子どもたちは待っていましたと言わんばかりに、我先にと穴へと走る。押し合いへし合い、自分の体を穴にねじ込もうとする。
「ちょっと、お前ら落ち着けよ」
ローレンはそう呼びかけるが、もう誰も耳を貸すものはいない。自らが助かりたい。そんな保身が場を支配していた。
「ローレン!」
ふと、集団の後ろの方から悲鳴混じりのラティの声がした。
ローレンは斧を持ったまま慌てて近くまで駆けつけると、ラティとミルが互いに体を寄せ合い、震えていた。
彼女たちの視線の先には、ぼんやりと青白い光が浮かび上がっていた。光がなぞる輪郭は身の毛もよだつ怪虫を描き出している。表面は油を塗り込んだようなぬらぬらとした光沢をもつ甲殻に覆われ、顔は口と一際白く光る目だけで構成されており、鋸のような歯をカチカチと何度も噛み合わせていた。左右に伸びた六本の節くれ立った脚は地を這うように蠢き、手と思しき二本は先の方が鎌のようになっていて、まるでその切れ味を確かめるかのように顔の前で擦り合わせている。
キッシャアアアアアア――。
金属を強引に引っ掻いたかのような鳴き声が、ウルズの嗤い声に混じる。先ほどまで、楽しい遊び場だったはずの場所は、もはや不気味な怪虫の巣窟となっていた。あまりの恐怖に、ラティは悲鳴を上げることもできず、ミルは口だけをぱくぱくと動かしている。
「ガ……ガルム」
ローレンが怪虫の名前を口にする。ガルムはウルズにとっての自衛機能であり、養分を吸収する器官だ。ガルムは肉食であり、それも人しか喰わない。ガルムが人を喰らい、養分をウルズに届ける。人にとっての残酷なシステムが、この世界ではまかり通っていた。
ガルムは一匹、二匹と、まるで地面から湧き上がるように増えていった。やがてそれは、子供たちがいっぺんに入ろうとして詰まってしまった穴のすぐそばにも姿を現す。
ガルムは一切の躊躇いもなく、出口に群れる子どもたちに鋭い鎌を振るった。肉は易々と引き裂かれ、血が噴き出し、悲鳴と断末魔が飛び交う。ガルムは子どもの柔らかい肉を喰らい、白い根っこが新鮮な血を啜って、自らを赤く染めていく。
「嫌……嫌ァァァ」
あまりの光景に耐えきれなくなったのか、ラティがどっしりと尻餅をついた。すると、ガルムたちはそれを観念したと捉えたのか、嬉々として脚を動かし、距離を詰めてきた。ローレンは慌ててミルとラティのそばに駆け寄った。そして、縮こまる二人の前で両手を広げて立ち塞がる。
「ローレン、怖い、怖いよう」
「兄ちゃん。お父さん呼ばなきゃ。お父さんなら、あんな怪虫一発なの」
ローレンとミルの父親は、ウルズに唯一対抗する人類機関。『空師同盟』のメンバーだった。樹食の日には一般人をウルズから守り、保護する役割を担っていた。しかしながら、空師の人数は限られている。途方もない範囲を支配するウルズの樹冠影をすべてカバーするなど、不可能近い。
父親が助けにくる確率は限りなく低かった。ならば、自分がどうにかしてこの状況を切り抜けるしかない。ローレンは斧を握った右手に力を込めた。それから、覚悟に満ちた言葉を紡ぐ。
「俺がガルムをどうにかするから、その隙に穴から全力で逃げろ」
壁に空けた穴は、根っこが蠢いて塞がり始めていた。このままでは、数分もしないうちに逃げ道は完全に閉ざされてしまう。
「ローレンはどうするの?」
「俺はどうにか自力で脱出する。大丈夫だ。俺はラティよりも力があるし、運も良い方なんだ」
「だ、だめなの……兄ちゃんも一緒に逃げるの」
ミルは短い手を伸ばして、懸命にローレンを求める。しかし、ローレンは首を振った。
「ミル。このままじゃ、みんな死んじゃうんだ。ラティの言うことをちゃんと聞いて、絶対助かるんだぞ」
ローレンは身体の重心をぐっと下げて、前のめりになり、臆することなく一気に駆け出した。
「ほら、こっちだ」
わざと大きな声でガルムを挑発し、ラティとミルから注意を逸らせる。そしてなるべく、自分に引きつけてから、寸前で躱す。父親譲りの優れた運動神経を発揮してガルムを攪乱していく。
「はッ!」
少しずつ距離を詰めていき、隙を見て斧をガルムの甲殻へと振り下ろす。がつんという強い衝撃がローレンの肩にかかるが、やったという確かな手応えはない。
途端に、ガルムの瞳の色が怒りを示す血のような赤色に変わった。パチンと回線が切り替わったかのように、ガルムは雄叫びを上げると、今までとは桁違いの速度で襲いかかってきた。
「しまった……」
びゅんと風を切り裂く音が聞こえて、鋭い両鎌がローレンを細切れにしようと、振り上げられる。至近距離からの攻撃。避けようのない位置取りだった。
ローレンは目を見開いて、自分に降りかかろうとする鎌を見ていた。男たるもの死ぬときは目を瞑るな。いつもローレンに厳しかった父親の教えだった。
ローレンを取り巻く世界が緩慢に動いていく。鋭い鎌は確実にローレンに迫る。刻々と死がローレンを食らおうと忍び寄る。
しかし、それに待ったをかける小柄な体躯がひとつ――ローレンとガルムの間に割って入った。
「ローレン! だめえええええええ」
ラティだった。ミルが止めるのも聞かずに、我が身を盾にと飛び込んできたのだ。
「ラティイイ!」
ローレンはとっさにラティのケープを掴んで引き寄せようとするが、世界は残酷にも、その速さを取り戻していた。
「いぎゃあああああああああああああああ」
ラティの頭部から顔にかけて、赤い軌跡が走った。幸いにも鎌は浅くラティの顔をえぐっただけだったが、それでも相当な重傷であることは間違いなかった。ラティは頭を抱えて、ローレンの手を振り解き、悲鳴と絶叫をごちゃまぜにしながら、どたどたと周囲を走り回った。
ローレンは一歩も動けずにいた。目を見開き、口をあんぐりと開けて、大切に思っていた女の子が傷ついた様子をただ見ていることしかできなかった。そんなローレンの耳に今度は妹が助けを呼ぶ声が響く。
「兄ちゃん。兄ちゃんッ!」
地面にべちゃりと腰砕けになっていたミルの前で、ガルムが禍々しい口をぱっくりと開けていた。口の中では強酸性の唾液がにちゃにちゃと糸を引き、今にもミルに吐きかけられようとしていた。
「ちくしょう……ちくしょうッ!」
悪態を吐きながら、ローレンは走った。奇襲をかけるためにガルムの背後に回り込み、思いっきり飛びかかる。斧の柄を握った右手は真っ白になるほど強く握りしめ、ガルムの甲殻へあらんばかりの力を込めて振り下ろした。
バシャアアアアアアア――。
今度こそ、確かな手応えを感じた。硬い甲殻が割れる音が辺りに響き渡り、粉々に砕け散ったガルムだったものが、地面に散らばった。ローレンは泣きじゃくるミルを背負い、絶対に手を離すなと厳命すると、ラティの元へ駆け寄る。ラティは仰向けに倒れたまま、泡を吹いて気絶していた。
「ラティ、ラティ。大丈……」
大丈夫か。そう言葉を紡ごうとしたローレンは、絶句した。大丈夫なんて言葉をかけられるほど甘い状態ではなかった。左のこめかみから続いていた傷跡はラティの左眼を完全に潰していた。それは医者に診せても、どうにもならないものだと、幼いローレンにもすぐにわかってしまった。
もう、あの蒼い瞳は永遠に見られない。
そう悟った瞬間――。ローレンは体の奥底で何かがぷちんと弾けた気がした。それは爆発的に体内に広がっていき、自分の皮膚の内側で渦巻いているような気がした。
「殺す。ぶっ殺す」
ローレンは切断されたガルムの鎌を拾い上げ、付け根の部分を左手で強く握りしめた。そして、自分たちを取り囲むガルムを見やった。
「お前ら全員――ぶっ殺す」
吐き捨てるようにそう言うと、ミルを背負ったまま、ローレンは地を蹴った。