猫の落とし文
なんちゃって時代物です。考証とかほとんどしてませんので、おかしかったらパラレルワールドだと思ってくださると助かります(苦笑)
縁側のひなたでぬくぬくとまどろんでいたミケを思い出す。
冬なのに日差しは柔らかで、ミケの背中を触ると、ほかほかと暖かかった。
家の中は真っ暗で、縁側だけが切り取られた別世界のようだった。
時間にしてみればほんのわずかなことだけど、妙にそれだけを覚えている。
もう、あそこへは戻れないのだと思うと、幸福な記憶なのに泣きそうになる。
「りん、ちょっと手伝っておくれな」
ふいに緋千代姐さんに呼ばれて我に返る。
そう、ここは妓楼・竹野屋。両親を亡くし、頼る者のなくなった私が身を寄せることになった場所。
私が付くことになった緋千代姐さんは、一番の売れっ子ではないものの、中堅どころで、面倒見の良い人だ。
「帯が届いたんだ。あわせてみるから行李を出して」
手に豪奢な刺繍の入った金色の帯を掲げてにっこり笑う姐さんは、子供のようにはしゃいでいる。
愛嬌のある目がくるくると動いている。
見たことのないような、綺麗な着物や帯を見られるのは確かに楽しい。
私はいそいそと行李を出した。あの帯にあうのは浅黄だろうか。それとも青竹。
あっちとあわせて、こっちもいい、あれがあったはず、と次々にあわせているうちに、瞬く間に時間がたった。
慌てて今日の装いを決めて見世に出て行く。新しい帯は、贈ってくれた旦那が来る来週までお預けだ。
姐さんを見送った後、まるで台風でもやってきたかのような部屋で私は溜息をついた。
片付けたいが、先に夕餉をとらなければ食いっぱぐれてしまう。
しかし何かなくなってもいけないし、ざっとまとめて部屋の隅に積み、新しい敷布をかけておいた。
早く食べて戻ってこよう。
呑み込むようにして夕餉を済まし、足早に部屋に戻る。
先ほどまとめて置いた着物を、手早く皺にならないように畳んでいく。
姐さんが戻ってくる前にきれいにしておかねば。
途中で横槍が入ることもなく、半刻|(一時間)ほどで行李に仕舞い終えた。
ほっと一息ついたとき、褪せた朱色の小さなお守りをみつけた。
口から小さく折りたたんだ古い和紙が飛び出ている。
着物の袂にでも入っていたのが落ちたのだろうか。
いけないとは思ったのだけれど、和紙をそっと引き出して覗いてしまった。
しかしそれは、かえって私を混乱させることとなったのだ。
足跡。
たぶん、猫。
大きいのが一つと、小さいのが四つ。
それだけ。
墨が付きにくかったのか、ちょっとかすれたり、押し付けた皺をのばしたような跡。
文字は一つもなし。
灯りに透かして見ても、斜めから見ても、それだけ。
意味がさっぱりわからない。
何だってこんなものが入っているのだろう。
普通は、仏様の絵とか、命名札とかが入っているのだろうに。
そう、もしかして姐さんの本名がわかるのかなと、軽い気持ちで覗いたのだ。
どうにも困ってしまったので、元通りにして行李の隙間に押し込んだ。
もやもやしたまま床についたせいか、変な夢を見た。
縁側でひなたぼっこしていたミケが、くるりと振り向くと緋千代姐さんの声で
「ちょっと手伝っておくれな」と言うのだ。
びっくりして部屋に逃げ込むと、緋千代姐さんが文机で書き物をしている。
「悲鳴なんぞあげてどうしたんだい?」
くるりと振り向いた姐さんの瞳は爛々と輝いている。
瞳孔がタテに細くなった、猫の目。
話をしながらも右手は和紙と硯の間を行ったり来たり。
ぽん、ぽん、と猫の足跡をつけていく。
袖から覗くのは真っ白な猫の前足。
「こっち来てあんたもやりな」
はっとして自分の手元を見ると、小さな猫の手になっていた。
「わぁっ」
実際に声をあげたのかあげなかったのか、目が、覚めた。
ばかばかしい。
ほんとばかばかしい。
恥ずかしくなって、周りをそっと見回した。
誰も見てなかった。よかった。
それからは、いつものようにばたばたと日が過ぎていき、猫の足跡が入ったお守りのことはすっかり忘れていた。
ひょいと思い出したように出てきたのは、例の帯をくれた緋千代姐さんの旦那が来る予定の日のことだ。
今日は旦那が来る日だから、と念入りの準備をしていた姐さんが「あれ懐かしい」と行李からお守りをつまみ出した。
「こんな所に入ってたかぁ」としみじみ微笑む。
「探していなすった?」と恐る恐る聞いてみる。
姐さんは軽く首を振る。
「これはね。あたしが竹野屋に来たときに持ってたお守りさ。あんたくらいの年だったねぇ」
姐さんは、北の方の漁村の生まれだそうだ。
父親が地震で崩れた神社の灯籠の下敷きになって大怪我をして、漁に出られない身体になってしまった。祖母も前々から長患いをしていて家計は一気に苦しくなった。
姐さんの下には五つの弟と、三つの妹。
「あたしが出るしかなかったのさ」
お守りをじっと見つめながらささやいていた姐さんは、振り切るように私に笑いかけた。
「うちには三毛猫がいてね。あんた知ってるかい。三毛猫のオスはめったにいなくて幸運の猫なんだよ。うちのはメスだったけどさ。船乗りにとって猫は守り神なのさ」
お守りの口を開いて、和紙を取り出す。
「あたしがここにくることが決まったとき、ちょうどマルは、あ、マルって名前、妊娠してたんだ。あたしはマルが大好きで、仔が生まれるのを楽しみにしてた」
小さく折りたたんだ和紙をゆっくり広げて伸ばす。
「ここに来て、しばらくしてからこれが届いたのさ。あたしも両親も字なんか書けやしないからこれだけなんだけど。仔猫が四匹生まれたってことはわかるだろ?」
私は勢いよく頷いた。
娘を妓楼に売らなければならなかった母親が、せめて娘が気にしていたことをなんとか伝えようとしていたのだ。
ヘンなことなんて、ましてや夢で見たような怖いことなんて何もない。
お母さん猫と四匹の仔猫の足跡。
可愛いじゃない?
「あんた、猫好きかい? そうかい、じゃぁこれはあんたにあげるよ。もっと可愛らしい小袋に入れようか」
思い出の品をそんな、とびっくりして固辞すると姐さんはアハハと笑った。
「そりゃぁ両親もマルももう生きちゃいないけどさ。今まで忘れてたくらいだもの。あたしにはもう必要ない。あたしはもうお守りがなくても大丈夫。いい旦那もいるしね」
にやりと笑う。
「あんたには、まだお守りがいるよ。いいオンナになって、いいオトコをつかまえるまではね」
「金の帯をもらえるくらい?」
「そうさ!」
姐さんと私はくふふっと笑った。
姐さんは、きっともうすぐ身請けされて、金の帯をくれた旦那と一緒になるだろう。
私にはまだ戻る資格も場所もないけれど、お守り持って生きてみよう。
ここにだって、たまにはいいことあるんだと、信じて生きてみよう。
そう、思った。