08
結局の所、それはさほど難しい事でもなかった。と、今になってヒロは思う。
確かに苦労はあったが、それは踏むべき手順が多かったというだけの話である。目標を達成する難易度とは別の話だ。
「僕は最初販売権を売ろうと思ってたけど、それはすぐに無意味だと分かった。あんたたち商会は、明らかに全てを奪うつもりだったしね。ここの常識に対する不理解が原因だった。自分の見込みの甘さを思い知ったよ……まあ、他に手がなかったんだから、どのみちこうしてただろうけど」
吐息を吐きながら、ヒロは語った。
と言っても、カヴィッツ商会の、リーダー格の男がそれを聞いているかは分からない。尻餅をついたまま、頭をかかえてぶつぶつ言っている。
男の姿を見ながら、ヒロは別種の息を吐いた。
(こいつを蹴っ飛ばしてはい終わりとなるなら、このままでもいいんだけどな)
当然、そんなわけがない。こちらはカヴィッツ商会の刺客が失脚しようがそうでなかろうが、関係のない話なのだ。
「分かるか? 気づいた瞬間、僕は君たちを煽ったんだ」
挑発するように言う。手が――服の下に、何か獲物を隠していても――届かない距離で。
カヴィッツ商会の刺客の瞳に、色が宿った。といっても、混乱から脱しただけだ。未だ困惑してはいる。
「製法を念入りに隠した――のは、ただの偶然だけど。その後、道具も厳重に管理を始めた。あんたたたちが、人の方が手出ししやすいと思うように。ああ、ちなみに僕とアイリスの、あんたたちにどう対処するかの会話は聞いてたかい? あれも、あんたたちに聞かせるつもりで言ってたんだけど。あれを聞いて「早めに仕掛ければ虚を突ける」なんて思ってくれれば御の字だと思ったんだけどね」
不意に名前の出たアイリスは、ぱっと顔を上げてこちらを見てきた。いつの間にかコンテナの上まで飛んでいた彼女は、不思議そうに首をひねっている。
ついでに、わざわざ傭兵ギルドから呼び出したエンテタも見る。危機から出したはずだが、なぜか隅っこの方で縮こまっていた。
まあ、彼はどうでもいい。逃げ出すのでさえなければ。
「唯一の懸念は、いつ仕掛けてくるかだったけど……これも、わざと僕が一人で人気のない場所にいる時間を作って誘った。あんたたちが警戒してたのはあっちだろ?」
言って、アイリスの方を指す。が、これにカヴィッツ商会の刺客は反応しなかった。指先を追ったのは、エンテタだけだ。
「あいつが調理器扱いの魔法使いで、僕が全ての知識を握ってると分かった。まあ、僕がそう理解するよう動いたんだけど。つまり、あいつは矛を構えてはいけない相手であると同時に、僕さえ押さえれば後はなんとでもなると思わせた」
後は簡単だ。嘯く。
「あいつには付けてる奴がいると分かった時点で引き返せと言っておいた。連絡を取られるかも知れないから、そいつらは倒した後に。あとはまあ、あんたも見たとおりだよ。油断しきってるところで、背後から奇襲させた」
そこで時間がかかると思わせるために、わざと遠回りをさせ、余計な寄り道もさせていた。後を追うには、姿を隠しきれない場所を、何カ所か通過させ。これだけ早く戻ってくるのは、予想外だったが。
言葉を切り、カヴィッツ商会の刺客の目をしっかりと見た。
今度はこちらが(おそらく相手もそういうつもりでしたのだろう)わざとらしく、人の悪い笑みを作る。
「全部、僕の計画通りだ」
そのまましばらく、カヴィッツ商会の刺客は呆然としていたが。
何秒かしたところで、瞳に焦点が合いだした。まあ、目と指してくる指の震えを見るに、まだ落ち着いてはない。
「で、で、できるわけがない! 今日襲撃することを分かったわけがない! お前が言ったんだ!」
「なんだ、やっぱり聞いてたのか」
口元までも震わせながら、カヴィッツ商会の刺客。
「今日の襲撃は分かってたよ。というか、今日襲撃してくるならカヴィッツ商会しかないと思っていた」
「へ?」
カヴィッツ商会の刺客が呟く。震えだけはそのままに、こちらを指す指から力が抜けた。
「あんたさ、傭兵ギルドで僕が登録したのを見てた人だろ? 早く仕掛けてくるなら、あんたが所属するか、縁のある商会しかないと思ってた。あのプライドが高そうな傭兵ギルド職員が頭を下げる相手で、名前まで分かってるんだ。特定はそう難しくない」
ある程度素性を分かっていたら、その分行動が早くなる。確実に不意を突くなら二日は余裕が欲しい――予想だけならばとても簡単だ。
「無理だ……不可能だ!」
カヴィッツ商会の刺客は、もうほとんど、子供がだだをこねるような様子だ。
「貴様なんぞに、本当の危機など分からぬくせに……! 対処をするなどと言っても口ばかりで、楽観視ばかりする若造のくせに! 一つ予測が外れれば、全てが崩れる程度の計画しかたてられぬ若造のくせに!」
震えは止まっていた。困惑からも。代わりに、激しい怒りに支配されている。尻餅をついていなければ、そのまま噛みついてきそうな勢いだ。
「あんたがそれを言うのか?」
ヒロは苦笑しながら笑った。嘲る訳ではない。本当に、そういう反応しかできなかった。
「俺たちが、商会からの襲撃を想像の中の出来事としか思ってなくて、対処なんて何も考えてなくて、分断してるのも楽観からくるものであって、抵抗する力も手段も何もなくて、おまけにちょっと脅せば簡単に屈服すると思っていたあんたらが?」
並べてやる。
改めて、本当に酷い有様だ。彼だって、分かっていないわけではないのは、今の表情で分かる。ただ、当時はそれでも十分すぎると思っていただけだ。
ヒロは笑った。今度は明確に嘲笑して。これっまた、そうするより他なかった。
「この世で一番ハメるのが簡単な相手を教えてやろうか? 相手が馬鹿だと思ってる奴だ。愚かだから、全てこちらの思い通りに動く。そんなことを考えてる奴が相手なら、正直、いくらでも騙せるんだよ」
言うと、今度こそカヴィッツ商会の刺客は崩れ落ちた。気力をごっそり奪われ、まるで糸の切れた人形のようにがっくりと項垂れる。
その様子を見ながら、ヒロは少し歩いた。長身で、目つきの悪い男が落としたバッグに向かって。
中を開いて、覗いてみる。ペンチ、ニッパー、針、釘、槌、針金、縄……おおかた予想通りのものが入っていた。大工道具と言い訳ができつつ、拷問を実行するのに便利そうなもの。その中から大きめのペンチを取り出し、手に持つ。
(屋台を作るのに使った木槌を使おうと思ってたけど、これも悪くないかな)
どう使われるか、相手が想像できるのがいい。
「ここまではあんたらの用事だ。ここからは……僕の用事だね」
「……? も、もう終わったんじゃ……」
カヴィッツ商会の刺客が伏した顔を上げながら言った。
ヒロは呆れたように肩をすくめる。
「あんたを小突いて、取り乱したみっともない姿を見るのが目的だとでも思ったのか? そんなの全く意味がない。溜飲だって下がりはしないさ」
続いてコンテナまで戻る。契約している棚の戸を開き、数ある羊毛紙の内一枚を取り出した。
「はいこれ」
手荷物それを、カヴィッツ商会の刺客に見せつける。
「なんだ、これは……」
「見れば分かるだろ? 契約書」
羊毛紙(この世界、紙と言えば一般的なのは植物を原料にした紙だが。契約書等、一部重要書類には羊毛紙を使用していた)を見て――恐らくは最後まで文を呼んで――カヴィッツ商会の刺客がふるふると震えた。今度の震えは何だろうか。また怒りか。
カヴィッツ商会の刺客は契約書を引ったくって、握りしめるように広げる。せわしなく視線を左右させながら、やがて絶叫した。
「アイスクリームの委託販売権だけで……手付け金に月あたりの契約料、その上利益から一定額を支払えだと……? しかも、こんな法外な値を……! ふざけるな! 貴様は契約の基礎も知らんのか! こんなもの、飲めるわけがない!」
絶叫を始めたカヴィッツ商会の刺客。その、よく動くあご向けて、ヒロはつま先をたたき込んだ。
カヴィッツ商会の刺客がもんどり打って転がる。だくだくと口から血を流しているようだが、感触からしてあごは砕けていないだろう。さほど強くも蹴っていない。唇か舌を切っただけだ。
「一つ、言わなきゃいけない事がある。前提の話だ。計画を失敗した時点で、あんたの優位は失われている。喋らせてやってるからって調子に乗るな」
硬い床に転がり、口を押さえながらこちらを見る男の視線。これはよく分かった。恐怖だ。
突き出していた足を下ろす。緩慢な動作で。それは、怒りにとらわれて行ったのではない証左でもある。上下関係を思い出させるのに必要なことであり、一番手軽な事だった。だから行った。それだけ。
「だ、だが……」
口の中に溢れた血のせいもあるだろうが、酷くか細い声で言ってくる。いや、血のせいだけではない。躾けが効き過ぎて、涙目になっていた。
「本当に、こんなものは受け入れられないんだ……。法外すぎる、これだけで商会が倒れかけてしまう……」
「だから?」
くだらない問いだ。まだ自分のメンツを考えている。もうそんなものはないと言うのに。
カヴィッツ商会の者たちには時間制限があった。アイリスが買い出しを終え、部屋に戻り、いつまでも帰ってこないヒロに違和感を覚えて探し出すまで。この間に契約を終えなければいけなかった。ヒロも同様だ。商会の人間が刺客どもの遅さに苛立ち、確認の人員を送るまでに、全てを終わらせなければいけない。
時間的猶予で言えばそこそこだが、無駄に長引かせる気もなかった。イレギュラーなど、どこにあるか分からないのだから。
「あんたたちは僕たちの破滅を度外視した契約をさせようとした。僕たちが同じ事をしたとして、なんで反論できる? やってるのはあんたと同じ事さ」
ことさら冷たく言う。
カヴィッツ商会の刺客は絶句した。
「それに、用意してある契約書はあんたたちの分だけじゃない。主要な商会全ての分がある。どれも生かさず殺さず……ぎりぎり破滅するかしないかというラインに設定してね」
実のところ、一番手間だったのがそれを調べる事だった。商売規模からおおよその資産を出し、またアイスクリームを売った場合の利益等も出す。これをいくつも行うのは、かなりきつい作業だった。
契約内容を軽くするか、このまま何もしなかったところで、商人は恩義など感じない。「こいつはチョロい」と舐めるだけだ。しかし、殺しきってしまえば自暴自棄になられる。ぎりぎりすがれる状態であるのが、一番始末に負えない。それが分かっているから、カヴィッツ商会の刺客も抵抗している。
「だ、だが……! 私にそんな権限は……!」
「あるね」
今更ごまかせると思ったのか? そういう意図を込めて言う。
「相棒の魔法の力が未知数なのと、他の商会に先んじたのとで、契約は現場で決めたかったはずだ。未契約の相手を連れ回す危険は、いろんな意味で犯せない。契約書にサインさせさせてしまえば、後はそれだけを持ち運べばいい。あとは、まあ。傭兵ギルドの職員が頭を下げてる相手が、幹部じゃないっていうもの考えがたい」
それに、と加える。
「契約が成立しないとも思わない方がいい。なんのために、僕が今日に限って傭兵ギルド職員を呼んでいたと思っているんだ?」
「こ…………、の、ため?」
「当たり前だろう」
言ったはずだ。全て計画通りだったと。
傭兵ギルドの、ギルド登録者間の契約支援制度。実際は支援などという生やさしいものではなく、騎士団の武力を背景にした、傭兵を強制的に街の法統治下に置く制度だ。法自体は緩い癖に(まあ、法がキツいと、本来の利用者である無頼漢が登録しなくなる。民間の傭兵ギルドが台頭するだけだ)、拘束力は強い。当然、所属する商会まで契約に含んでおきながら、無関係だなどと言っても通じない。
ちなみにだが。契約支援制度は、民間ギルド登録組織に所属し、かつ傭兵ギルド所属者がいる組織であれば使用できる。そうしないと個人間の取引にしか、使用できないためだが。逆に言えば、たとえばカヴィッツ商会に一人でも傭兵登録者がいれば、傭兵以外に傭兵契約を迫ることができる。
契約支援サービスの力は絶大だ。なにせ、傭兵ギルドの影響力を誇示するためのものなのだから。
「さ、契約をしてもらおうか」
「い……嫌だあぁ! 書いてたまるものか! そんなものに契約すれば、私は破滅する! 殺される……暗殺される!」
走って逃げようとしたカヴィッツ商会の刺客、その膝裏に、足刀を叩き込んだ。威力はないが、正確に靱帯を痛めつける。彼は手だけで這いずり逃げようとするが、動きはあまりにも遅かった。
「何度も言わせるなよ。あんたの破滅もカヴィッツ商会の破滅も、僕には関係がないんだ」
ヒロはカヴィッツ商会の刺客の腹を蹴って、仰向けに転がした。そして、床についた右手の甲を踏みつける。ただし、それほど体重はかけない。あくまで動けなくなるだけにとどめた。
しっかりと握ったのは左手だ。肘のあたりから固定して、手のひらが自分の目の前に来るよう調整して。
「右手が利き手で合ってるよね」
答えは聞かない。
持っていたペンチを握り直し、左手に寄せた。カヴィッツ商会の刺客の顔が、期待通りに蒼白になった。
「これからあんたを痛めつけるけど、早めに降参してね。慣れないことをするから、上手くやれる自信がないんだ。あれだ、プロみたいに殺さない程度にとか」
「やめてやめてやめてやめて……」
かちかちと歯を鳴らしながら、カヴィッツ商会の刺客が呟く。ヒロはそれを無視した。契約すると言わないならば、それは余裕の表れだ。
ひたすら動いて捉えにくかったが、なんとか小指をペンチに挟んだ。男の絶叫はさらに酷くなる。涙まで流していた。
ヒロは視線をカヴィッツ商会の刺客に向けて、目だけでどうするか問うてみた。男には逡巡が生まれる。また無視することにした。悩める内は、余裕がある。それに、この男に一発逆転の手がないわけではない。ひたすら時間を稼いで、商会の援軍を待つという方法が。
「ぎいいぃぃぃいぃいいいぃぃぃいぃぃぃぃぃぃ」
ヒロは手に力を込めた。しかし、ペンチを捻りはしない。ただまっすぐに、力を込めた。
ぐちん。これは肉がつぶれた音だろうか。みしみしという感触と共に、ペンチのアームが少しずつ締まる。これは、骨が僅かに砕け、沈んでいるのか。やがて致命的にアームが沈んだ。
「あああァアアァああぁァァあァあ!!!」
クリップ開口が触れた部分だけ、前後の指と落差が生まれる。皮が破れ血が噴き出し、ぐにりとピンク色と黄色の肉がはみ出ていた。所々飛び出している白いとげ、これは砕けた骨か。爪から収まりきらなかった血と肉がはじけ、剥がれそうな程に盛り上がっている。
「ひぃ……う……っぐ……ず……ひ……」
顔から流せるだけの体液を流して、か細い悲鳴を上げるカヴィッツ商会の刺客。彼に、ヒロは声をかけた。
「さ、契約する? しないなら、まあ仕方ない。でも、あんたはそういう奴がどうなったか、見てきたんだろう? 後は、僕の溜飲が下がるまで、ひたすら痛くて苦しい目に遭ってもらうよ。それこそ死ぬほど……というか死ぬまで」
言いながら、小指をつぶしたペンチを開く。ペンチに押しつぶされた部分だけ、色だけはそのままの肌が残っていた。それも難病もせず、すぐ血に染められた。
二本目――今度は薬指を、ペンチで挟む。最初はゆっくり、次第に力を入れて、全力で握ろうとした時だ。カヴィッツ商会の刺客が、意味のある悲鳴を上げた。
「契約しまず! じま゛ずがら゛ぁ゛! も゛う゛や゛め゛でぇ゛!」
ひっく、ひっく、としゃくり上げながら、カヴィッツ商会の刺客が観念する。瞳は絶望に、黒く染まっている。
嘆くことも、驚くこともない。ヒロは彼を見て、そう思った。彼はそういう人間を量産してきたのだ。今度は自分がそうなるときが来た、それだけだ。あとは、同情する必要もない。
手を踏んでいた足をどけた。そして、転がっていた契約書を、足で寄せる。ついでに万年筆を取り出して、床に転がした。
「さあ、書け。ああ、先に行っておくけど……」
ペンチのアームを握る手に、少しばかり力を入れて。指にまだそれがかかっている事を教え、存在感を主張した。
「僕はあんたの名前を知ってる。ついでに荷物も漁って名前を調べる。それと食い違いがあった場合、今度は両足と左腕を壊して、その後再び契約書にサインをさせるから。痛い思いをした上動けなくなりたくないんなら、最初から素直にやることだ」
忠告する。カヴィッツ商会の刺客は一度だけびくりと震えた。が、ペンを握る。
彼の書いた文字を、ヒロは追っていった。カヴィッツ商会・販売戦略部長・ハンス・リラック。記憶を検索する――傭兵ギルドへ行ったあの頃を引っ張り出し――合っていることを確認。念のため荷物も探るが、まず間違いないだろう。
最後に拇印が押印されたのを確認し、契約書を拾う。すすり泣きに鬱陶しさを感じながらも、カヴィッツ商会の刺客の懐を探った。名刺があるとしたら、バッグではなくてこちらだろう。見つけて、一枚取り出す。
名刺の記載と契約書のそれが合致していることを確認し、やっとヒロは上からどいた。
「あんたはあとは、好きにすればいい」
それは、慈悲のために言ったのではなく、もう興味がなくなったからだが。カヴィッツ商会の刺客はのろのろと動きだし、外へと向かっていった。
彼は必死になって逃げるだろう。こんな契約をしたことが発覚すれば、消されるだけで済むのかどうか。一刻も早くこの町から逃げてどこか――どこかなどあるかは知らないが――に逃げ込まなければならない。もう商会の中は、彼を庇護してくれる場所ではなくなっている。
仮に途中で見つかり、早期発見されたところで問題はない。というか、カヴィッツ商会の刺客がいつ見つかろうと、大勢に影響はない。この場で契約支援サービスの登録を完了するからだ。正式登録はギルド本部でやるにして、仮登録は現場で行え、登録情報は傭兵ギルドへ発信される。両契約者情報と一緒に。契約書を持ち運んでいる時に襲撃などすれば、それこそこんな契約よりも大事になる。冗談抜きに幹部全員が騎士団の粛正対象だ。まあ、現時点でも、商会はほぼ奴隷化しているのだが。
そんな、終わったどうでもいい事より、優先すべき事はある。
ヒロは向き返り、ほほえんだ。その先にいたエンテタは、思い切り顔を引きつらせる。
「待たせて悪かったね」
なるべく優しく言うが、逆効果だったようだ。エンテタはますます体を強ばらせた。
彼は完全にこちらに怯えている。仕方ないかもしれない、と肩をすくめる。いや、実行してしまえば、さらに怯えられるかもしれないから、そんな気分になっただけだが。
(やっぱり指を潰したのはまずかったか? でも、骨折だと普通に起こるものだし、割とダメージ少ないなあ。関節をいくつか増やすのと、どっちがマシだったんだろう)
悩む。が、答えは棚上げした。とりあえず、今すべき事は。彼を味方に引き込む事だ。
持ったままだったペンチを投げ捨てて、エンテタの前に跪く。彼は後ずさろうとるが……とっくにコンテナに寄りかかっている。爪で地面を掻いて、がりがりと音をさせるだけだ。
「僕は君に危害を加えるつもりはない。まずは、それを信じて欲しい」
ゆっくり、言い含めるように言う。声のトーンまで変えるのは難しいが。
しばらく時間を置くと、エンテタの荒れていた呼吸は戻った。とはいえ、まだ落ち着ききってはいない。そのタイミングを狙って、ヒロは話を続けた。
「で、だ。この契約書を受理して欲しいんだけど」
「む……無理だ……」
エンテタは弱々しく(こちらの様子を伺いながら)首を振った。
彼がそう言うかもしれないとは、ヒロも予想していた。かなり危険な話である事は変わらない。
が、
(彼のキモは分かってるつもりだ。劣等感と、その恐怖の理由を)
ヒロは、顔をほんの僅かばかり耳に近づける。彼の視界から、半ば消えるようにして。
そして、そっと囁いた。
「ここで君が僕の話を受ければ、当然、それに見合った恩恵を受けられる。さあ、これを受け取ってくれるかい?」
エンテタは、ゆっくりと頷いた。理解したからでないのは、見るからに分かる。言われたから首肯した、それだけだろう。
だが、ヒロはあえてそれを否定しなかった。視界の隅で、大げさに首を縦に振る。
「そうだろう。もうカヴィッツ商会担当なんかに大きな顔をされる事はない。そいつの担当組織は、力を失った。君はそこから力を奪った奴と知り合いであり、今この瞬間、手を組んだ。今日から彼が君の位置に、君が彼の位置に動いた。僕たちは逆襲した。強者の立場を奪い、そこに立ったんだ」
何度も何度も。同じような意味のことを繰り返し言う。
エンテタは、呆然と遠方を見ていた。視界の端に写っているヒロの事も、もう気にしてはいないだろう。
彼の手に、そっと契約書を渡した。拒否はされず、手に握られる。そして、ゆっくりとこちらに向いて。
エンテタは引きつった笑みを浮かべていた。いや、引きつりながらも笑みを止められない、と言うべきか。その表情は悪くない。欲にまみれていて、ヒロにとって非常に都合がいいという意味で。
「と、とと、当然だろう!」
言って、彼は契約書を広げ、その中心に何かを押しつけた。羊毛紙に光の筋が広がる。その光景は、傭兵登録に見たときのそれと似ていた。光が収まると手が離され、羊毛紙は懐にしまわれた。もう返さないと言いたげだ。
「なあ、これで俺とお前は仲間だよな!? 当然、その、なあ? あるだろ、色々とさ? 俺だって色々あるんだ……」
にやにやと笑いながら、指をくねらせる。あからさまさ過ぎるほどの催促だが。
ヒロは即答した。
「当然だろう? 僕もこの街に来て浅い。君にお世話になることも多いだろう。末永く仲良くしたいものだ」
これは嘘ではない。
今回の件で、ヒロは思い切り敵を作った。大半の敵は、手出ししようとも思わないだろうが。一度手を出すには危険すぎる相手だ。そう思わせるためもあってここまでした。が、その分のリスクもある。一番大きなのが、相手はもう舐めてくれないだろうという事だ。
今は少しでもコネ――というか人脈――が欲しい。傭兵ギルドの中にいる人間とあらばなおさらだ。
強欲そうな男だから、金はずいぶん要求されるだろうが。生活と調べごとの他に、使い道があるわけでもない。他に当てもないならば、使わなければいけない金だ。
「頼んだぞ! 本当に、絶対だぞ!」
幾度も念を押して、エンテタもまた、走って倉庫から出て行った。傭兵ギルドについたら、すぐ手続きを済ませるだろう。そして、まあ今日という事はないだろうが、近々『ほんのお礼』についての話し合いになる。これは心証と誠意をかねて、こちらから出向いた方がいいだろう。最初くらいは安心感も与えておきたい。
彼の姿がなくなったのを確認して、ヒロは息を吐いた。やっと気が抜ける。
「いや、何全部終わったみたいな雰囲気出してるんだ」
むしろ、やっとゼロに戻ったに過ぎない。今回の件など、はっきりと寄り道だった。
「いかんな。考えることが多すぎて、どうも横道に逸れる」
まず、資金面については完全に解決した。これは無視していい。
日本に帰るため、まずは魔法を調べる。これは実用的な意味もある。魔法で何ができて何ができないか、最低限は知っておいた方がいい。
長期戦になることを考えるならば、風土、歴史、法律、常識……さわりだけでも知っておきたい事はたくさんある。そして、知りたいことの全てが、図書館にあるだろう。最初の目的はそこだ。
「アイリス」
声をかける。が、返事はなかった。
ヒロは首をひねった。見える範囲にはいないが、ここにはいるはずだ。であれば、声が聞こえていないはずもない。
「アイリスー」
「……なに」
二度目の呼びかけで、ひょこっと顔を見せる。というか、なぜか本当に、物陰から顔だけ見せた。
「そろそろ行こうか」
「うん……まあ、うん」
なぜか元気がなく答えてくる。
理由は分からないが、放っておくことにした。どうせそのうち元に戻るだろうと。
アイリス・アウイナイトにとって、その男が自分にとっての何かと問われれば。非常に都合のいい存在だと言えた。
性質は、はっきり言って善良だ。それこそ善良すぎるくらいに。頭は働くが常識はなく、突飛なことも言う。そして、話も冗談も通じ、こちらの意図もくみ取ってくれるし、わがままも聞いてくれる。あとは……男女のそういう類いの覚悟もしていたが(後から考えてみると相当馬鹿な事をした)、ならなかった。誠実でもあると言っていいのだろう。たまに扱いがぞんざいになることだけはいただけないが。
まあつまり、ひっついて行くには最適な相手だったのだが。
いくつか訂正しなければいけない部分ができた。
彼が善良だと言うのは変わらない。だが、まるっきり正解でもない。敵対する相手には容赦がなく、そして手段を選ばない。
いや――たぶんそれも違うのだろう。
ヒロが考えたのは、今後までも含めた、最適な結果だけなのだろう。はたから見ればどうであれ、彼にとっては。だから、元から選ぶべき手段がないし、容赦などするもしないもない。当たり前の事を、当たり前にやっただけだ。彼の中では。
彼女も、自分はやり過ぎるタイプの人間だという自覚はあった。力を振るおうとすれば血が騒ぐし、加減を投げ捨てそうにもなる。過去に血を見せた事は多数あり、実際、流させた血の量など、彼の比ではない。
だが。
(うわ……)
そんな彼女が、本気で引いていた。
別に、無抵抗の相手に云々などと気取るつもりはない。そんなプライドは押しつけても押しつけられても空しいだけだし、第一存在しない。
それでも、無抵抗の人間の指を潰しておいて。喜ぶでも嫌悪を抱くでもなく。ただ無感動に、結果だけを認識し、感情を全く動かさないというのは。さすがに、理解の範疇外だった。
(うん、あいつは頭がおかしい)
仮に彼と事を構えたとして、負けるとは欠片も思わない。はっきり言って、脆弱に過ぎる。
が。
絶対に、敵対してはいけない。あり得ないことだとは思っても、それだけは、胸に刻まずにはいられなかった。