02
右手で左肘を撫でながら、ヒロは考える。
何かを考えるとき、そういう癖があるという訳ではない。ただ、そこはひときわ強くぶつけた場所の一つだった。触ってみれば、血の感触も肌が擦れた様子もなく、痛みもない。普段の左肘の感触など知らないが、まあ大差ないようには思えた。
(本当に完璧に治ってるんだな)
今の感情をどう表現すればいいか分からない。
とりあえず、分かったことをあげていく。目の前の少女は人のような人ではない生物である。手を光らせて怪我を治すような何かが実在する。そして、恐らくは普通に知れ渡っている程度には広まっている。穴の正体はこの少女でも分からない。そして――たぶんこれが一番重要だが、ここは地球ではない。
「ええと、とりあえず……」
何から聞こうか、と悩んで話しかけると。アイリスはいきなり挙動不審になった。
ぱっと顔を上げたかと思えば、いきなり目をそらし。かと思ったら、ちらちらこちらを確認し、胸元で手などを組んでいる……たぶん、胸元だ。服がかなりだぶついているのもあるのだろうが、真っ平らに見える。そして、人と同じく乳房の存在する生き物であるかも分からない。
「アイリスは何? あれだ、種族的なの? は」
「ど、ドラゴニュートだけど……。見て分からなかった?」
若干へこんだ様子で、翼を広げながら。
(つまり、普通は見れば分かるのか。これは竜人間? だけが有名なのか、それとも亜人そのものが珍しくないのか)
かなり気にしているようなので、一言フォローしておく。
「ドラゴニュートは初めて見るんだ」
「あ、そーなんだー。じゃ、しかたないね」
ぱっと様子は戻った。ただし、戻ったのは様子だけで、視線は合ったり合わなかったり。そのくせ、どこか人なつっこい。これはまだ警戒されているが故の探りなのか、それとも素の性格がこうかのか。後者であれば、ちょっと面倒くさいかも知れない。
「手をかざして僕を治してくれたあれは?」
「へ?」
言われて、少女はほかんとした。本当に予想外な事を言われた、という風に。おどおどした様子も、このときだけは忘れたようで。
「何言ってるの? 魔法はあなたたちが考えたんでしょ?」
(あなたたち……人間のことか?)
アイリスは、自分の他の種族を明確に分けていた。それしか区別がついていないというのでなければ、あなたたちとは人間のことだろう。つまり、この世界にある魔法という何かか人間が生み出したものである。そして、人間以外も使えるし使っている。
ヒロは誤魔化すよりも情報を優先し、正直に答えた。
「僕は魔法を見たこともない」
「えー」
少女の視線は一転、胡乱なものに変わる。それだけおかしな発言だった訳だ。
このままにするのは良くないと思い、続ける。
「ところで、この部屋からはどうやって出ればいいのかな。出口もなさそうなんだけど」
部屋の構造は、丸いボールを中心で両断したような、半球形だ。さほど大きくなく、そして扉もない。自分が入ってきたのはトラブルだとしても、彼女が入ってくる余地がどこにあるか分からなかった。
「……、本当に魔法のこと、知らないんだね」
どこか釈然としないながらも、アイリスは頷いて。一方の壁に近寄ると、手を上げた。石と土の、中間のようだった壁が中心から避けていき、通路が現れる。
実演してみせた少女は、振り返る。
「魔法をつかえるなら、これ、見えてたはずだもん。こっち来て」
そう言いながら、アイリスは通路を進んでいった。
少女のサイズに合わせて作られたからか、通路は狭かった。少しかがまないと、頭をこすりそうだ。
進んでいくと、そこもまた、今の部屋と似たような所だった。薄暗い明かりで、部屋は小さめだが、今度の間取りは四角い。カップやソーサーが見え、テーブルもある。キッチンダイニングだろう。気になる点は、全て一人分しかないという点と、窓が一つもないという事だ。
「そこすわって」
アイリスの言葉と同時に、地面がせり上がった。小さいテーブルの正面に椅子ができる。言われたとおりに着席した。
少女はお茶を入れて戻ってきた。一つは陶器のカップで、もう一つはいかにも急造品のそれ。陶器の方をヒロに渡し、自分も座った。
差し出されたお茶に、幾ばくか悩んだヒロだったが。
(まあ、死にはしないだろう)
口を付けた。初めて感じるタイプの味だが悪くない、とは思う。あとは、ドラゴニュートが摂取して大丈夫なものは、自分も大丈夫だと信じるだけだ。
「ねーねー、あなたこそなに?」
次は、彼女がとかいけてくる番だった。唇をとがらせ、カップの縁を指で撫でている。
「ドラゴニュートの事を知らなかったときは、そんなもんかなと思ったけど。絶対知らなすぎるよ。そう考えると、転移トラップか何かでここに来たっていうのも怪しいよね。考えて見れば、そんなことで来られる場所じゃないんだし」
「あん?」
「ぴぃ! ちょうしにのってごめんなしゃい……」
変な声が出たのは、間違いなく熱いお茶のせいだったが。
アイリスはなぜか怯えて、椅子の上で体育座りになり、ついでに頭を抱えてぷるぷるし始めた。今までの口調は、精一杯の虚勢だったのか。
「ここがその、転移トラップじゃ来られない場所って言うのは?」
「ここは地下のふかいところなんでしゅ……おこってない?」
「別に」
少女の相手は、面倒くさそうなので適度に無視して。
なるほど、と納得する。ここは地下にあったから、窓がなかったのだろう。その割には、換気扇のようなものが見つからなかったが。まあ、魔法があるのだ。どうとでもなるのだろう。
「はっきり言うと、自分がどうやってここに来たかは、本当に全く検討もつかない。仮に魔法で飛ばされてきたとして、僕にはそれが魔法だったかどうか、確かめる手段がないんだし」
「あ、そうだよね」
とりあえず、膝を抱えるのはやめてくれたが。まだびくびくと、目は反らされていた。
「どこから来たかと言われたら、かなり遠くからだとしか言えない。どこがどう違うんだと説明するのも難しいし」
「じゃあ……迷子なんだ」
「そうだね。で、今、帰るにはどうすればいいのかなと考えてる所」
ふーん、というアイリスの生返事。これは分かっていないな、とヒロは即座に見抜いた。
「帰るこころあたりとかは?」
「魔法」
「無理じゃないかな?」
かな、と言っている割には、はっきりした口調だ。
まあ、言いたいことと言うのはおよそ分かる。科学で異世界に飛ぶ手段を探している、と言うようなものなのだろう。そう言えるのは、科学というものを理解していないからだ。つまりは、ヒロも同様である。魔法というものを理解するまでは、希望を持っていられる……
魔法の便利性を考えれば、どちらにしろ知る必要はあるのだし。
「魔法じゃ無理だったとしても、まあ、おいおい何か探すよ。ところで君はここに一人なの? 他の人とか……」
そこまで口にして、はたと気がつく。
アイリスが完全に沈黙していた。うつむき、ぷるぷると震えながら。足を抱えていた時より危険な兆候に思える……
(触れちゃいけないとこだったか?)
妙な態度が目立つとは、最初から思っていた。人を警戒するくせに、どこかなれなれしい……いや、違う。相手と話したい、離れたくないというような、様子を見せたりだ。
つまり、寂しいのだ。あからさまに怪しい人物をお茶に誘うくらいには。距離のはかり方に自信が持てなくなる経験があり、どうすればいいか分からないくらい他人と接触していない。もしかしたら、友人もいないかもしれない。
もう少しつつけば、何か分かるかも知れない。そう思うが、実行はしなかった。機嫌を損ねた場合のリスクに見合うほどではないし、それ以上に、あまり気持ちのいい行為でもない。しなければいけない程でもないし。
そのまま地面の中に潜り込みそうにでもなる寸前、ヒロは声をかけた。
「この近くで街とか、とにかく人の集まる場所ってどこにあるか知らない?」
なるべく相手の様子に気がついていなかった風を装って、話題をそらしてみる。部屋を見回しているふりをして、顔を背けた。
(ちょとあからさまだったか?)
我ながら、子供も騙されないような大根演技だ。ちらりとアイリスを確認すると、彼女は急いで袖をぬぐっている所だ。
あげた表情を見るに、どうやら気がついていないようだったが。ヒロにとっては幸運だったが、それはそれで大丈夫かと思わなくもない。
「近くにはない……と思う。わかりやすい位置にあったら、こんなところに家を作ってなかっただろうし」
「それもそうか」
そう遠い位置にあるわけでもないだろう、と当たりを付けていたが。
この性格で、あまりに離れすぎるのはなさそうだ、と思えた。かんしゃくを起こした勢いで思い切り遠くに、という可能性も否定できないが。それに、必要なものを買いに行く事もあるだろう。とはいえ、距離については魔法で解決できそうな気もする。
気づくと、アイリスがおどおどとこちらを見ていた。
「……行くの?」
「そりゃ、当てがなければ行くしかないし。危険はあるだろうけど」
問題は、どういう方向の危険かによる。
地元民じゃない人がその辺を歩いていたら襲われる、というくらい危険なのか。あるいは、根本から価値観が違うことが危険なのか。日本に近い場所だって、それはそれで危険である。密入国者扱いなどされれば、それだけで身動きを全くとれなくなる。
いい結果などまず望めないだろうが、どのみち、他に方法もない。
「……ここにいるのは?」
「は?」
「だから……ここで暮らすとか……」
言いにくそうに喋る少女を見ながら、ヒロは目を点にした。
「一つ聞いておきたいんだけど、それは僕に言っているんであってるんだよね」
「う……、まあ、うん……」
(何を考えてるんだ?)
いまいち意図の掴めない言葉に悩む。
少女は顔を赤らめながら、もじもじとしていた。
つまりは、そういう事を理解はしっかりしているのだろう。だが、そういう事を望んでいるようにも見えない。
ヒロの問題もある。今でこそ、まだ人間ではないという意識が強いが。相手がこれほど人間をしていれば、いつまでもそういった対象に見ない自信はない。後は自制心との勝負になる。
(……そういう事になってもいいと思ってしまうくらい、寂しいのか?)
この少女は、考えていたよりも重傷かもしれない。そして面倒くさい。
「はっきり言っておくと、ここにずっといるつもりはない。僕は故郷に帰りたいんだ」
「う……」
きっぱり否定すると、少女はうつむいた。馬鹿なことを言っている自覚はあったのだろう。
でも、とヒロは続ける。
「しばらく……落ち着くまでは、いさせてくれるとありがたい」
「あ……うんうんうん! いいよ!」
パアァ……と少女の顔に、笑顔が咲いた。
実際、彼女の申し出はありがたかった。当然ここで暮らすというのは論外だが。最低限の常識を把握するまでは、ここにいたい。
「じゃあねえ、じゃあねえ、えっと……そうだ、おなかすいてない?」
「うん」
「でしょー? んふふ……」
ずいぶんと嬉しそうに、ついでに小躍りなどしている少女だが。
(そんなに嬉しいものなのか)
およそ孤独というものを感じた覚えのないヒロには、よく分からない感覚だ。あるいは、強い孤独を感じれば、誰もがこうなるものなのか。
(優しくした覚えはないんだけどな。やったことと言えば、上からたたきつけた事と、野生動物を扱うみたいに、触れすぎないようにしただけで)
ついでに、内心では化け物扱いしていた。
優しくどころか、これでもかと酷い扱いである。
これからはもう少し優しくしよう。そうヒロは心に決めた。どれほどの付き合いになるかは分からないが、せめてその間くらいは。
「こっちきてー!」
勢いのまま部屋から出ていた少女が、声を上げて呼んでくる。ヒロは立ち上がって、そっちへ向かった。
のだが。
「嫌な予感はしてたんだよ」
少女を見下ろしながら、彼は冷たい口調で言った。
「明日ここを出ようと思う」
「なんでぇ!?」
「人ってさ、わかり合えない時はとことんわかり合えないんだよ。絶対にね」
愕然と口を開く少女に、ヒロははっきりとそう言った。
ヒロは思う――自分の言ったとおり、嫌な予感はしていたんだ。人との接触がない。なさすぎる。食器の数があまりにも少ない。食事をするというのに、なぜかキッチンのある部屋から出て行った。根拠ならいくらでも上げられる。
「うぅぅぅぅ……なんでよー……。いっしょにいるって言ったじゃないぃーー」
しくしくと泣きながら、腰にまとわりついてくる少女。アイリスがしゃがみ込んでいたから、抱きつくとその位置になったのだ。先ほどは優しくすると決めたが、無理だ。今はこの頭を引っぱたきたい。
ヒロは正面を睨む。正面に広がる畑を。
そこには山のように、ゼンマイに似た植物が栽培されていた。左側を見れば、上部が切り取られ、摘まれているのが分かる。奥にいくにつれて新しい芽が出ていることから、順番に摘んでいるのが分かった。右側を見る。そちらは健在だ。
つまり、これを前にして言われたわけだ。「好きなだけ取って食べて」と。生で。そのまま。
人と人とはわかり合えないことなど、いくらでもある。それは利益の対立であったり、宗教観の違いであったり、トイレを使う順番でもありえる。一度対立し、そして許せないないならば、あとは最後まで戦うしかない。つけなければ、先に待っているのは泥沼だけだ。
だいたいのことは許せる。ましてや異邦人の身分ともなれば、何もかもを拒絶はできない。
それでも、これだけははっきりと言えた。食事を疎かにする者とは、仲良くできない。
ヒロは肩を回した。軽い準備運動だ。尾を引かないためには、決着が必要なのだから。