11
山の斜面をさんざん転がり、原型もなくなっていた馬車だったが。地面に叩き付けられた衝撃で、ついに完全に砕け散った。
「っぎぃ!」
地面と自分の間に馬車の残骸が挟まったの偶然だが、受け身を取ったのは偶然ではない。転がりながらも、距離は測っていた。それでも、奇妙な呻きが漏れたが。
着陸してはじめに行ったことは、そのまま体を転がすことだった。木のささくれに皮膚を裂いたが、そんなことは気にしていられない。一転がりしたところで、上から人が振ってきた。こちらは、まっすぐ短剣をヒロがいた場所に突き出して。
呼吸も上手くいかないが、気にしている余裕もない。立ち上がるのと同時に、思い切り体を跳ねさせた。今度は頭のあった場所に、刃が閃く。
二撃避けたことで、相手も多少は警戒してくれたのか。一歩引いて余裕を作る。
跳ねた勢いで、木に叩き付けられる。また呼吸が乱れるが、今度は整える余裕があった。いや、与えてくれたと言うべきか。
短く息を吐きながら、ヒロは両手を上げた。格闘技の心得などないが。
(まずは……初手を凌いだ)
だからといって、感動する余裕もない。そんな隙を見せれば、突くのをためらう敵ではない。
両手で顔を庇うように構えながら、ヒロは敵を観察した。顔に布を巻いて、どんな面をしているかも分からない。体格は、ヒロより一回りは大きいだろう。それだけをとっても、絶対にケンカを売らない相手だ。ましてや相手はプロである。
「分からんな……」
短剣の刃を確かめながら、暗殺者の男が呟く。地底から絞り出すような声で――というのは、相手の雰囲気がそう思わせているだけか。
「頼みの綱からは分断された。何かの心得がある様子でもない。お前は詰んでいる。なぜ抵抗する?」
「勝てば見返りが大きいからさ」
答える。
暗殺者は、何かを言ってくるとも思わなかったはずだが。それでも動揺一つ見せず、ぽつりと呟くように言う。
「まさかなんとかできると思われているとはな」
少しだけ、暗殺者の胸が沈んだ。ため息でも吐いたのか。
それと同時に、ヒロは左手を顔の真正面へと持って行った。手に重い衝撃が走り、脇を抜けていく。突き出された刃を弾いたのだ。
動作は、全く見えなかった。勘で捌いたわけでもない。ただ、自分が気を抜いていると思われてそうな瞬間を予測し、急所を守っただけだ。
必殺の一撃があっさり弾かれて、動揺が無い訳もないだろうが。だが、やはり表面には、変化が出てこなかった。
動きが鈍ったところで、ヒロは再度距離を開ける。
「その革手袋……エンチャント済みか。それも、恐ろしく強力な」
僅かに目を細めて、暗殺者が言った。ヒロは、無理に笑みを作った。
「うちの魔法使いもなかなかのもんだろ?」
エンチャントという魔法自体は、さほど難易度は高くない。それこそヒロでも(魔力資質の低さによる、実用に耐えられない魔法ではあるが)使える。ただ、強力なエンチャントである事を考慮すると、話は変わってくる。無機物を破壊しないよう、限界以上のエンチャントをするのは難しい。
これで暗殺者は、狙える部位が限られた、と思うだろう。
(最初に手袋で受けられたのは幸運だった)
ひっそりとそう思う。
限界以上のエンチャントは、それ故に長続きしない。アイリスには、数時間おきにエンチャントしてもらっていた。
一番防御力が高いのは革手袋だ。服にもエンチャントしてもらっているが、元の脆さが問題なのか、さほど強力ではない。まあ、一撃で破られるほど弱くもないだろう。
顔だけは唯一、何も纏っていない。どこを切られても致命傷になる場所をがら空きにするのは危険だが、その代わり、攻撃を集中させられる。
「驚いた――が、それで何が変わるわけでもない」
言って、暗殺者が跳ねた。ほぼ同時にヒロも跳ねた。同等の速度で、同じ方向に。
「!?」
今度こそ、暗殺者は動揺した。今までとろくて鈍いと思っていた男の動きが、桁違いによくなった事に。
だが、暗殺者の動きが止まったのは、一瞬にも満たなかった。即座に立て直し、こちらを追ってくる。といっても、同じ速度で動けるならば、そうそう捕まりはしない。
(とはいえ、予想では今のが、最大の隙だった筈なんだけど……。それでつけいる事もできなかったとなると、かなり苦しいな)
仮にパワー・スピードで上回ろうとも、この暗殺者には勝てない。こちらは素人であり、あっちは体術のエキスパートだ。訳も分からない内に殺される、という最悪のパターンを回避しただけ、マシだとは言えたが。
上半身が後ろに倒れる。突きが髪を掠めた。刃の向きを縦に直し、下ろされる――前に、それは払った。体が倒れきる前に右足を引きながら、左足を蹴る。体勢を崩さず距離をあける事に成功した。
「……魔法か」
「ま、ばれるよな」
まるで上半身と下半身が、それぞれ独立したような動き。それも、腰にかなりの負担がある。高度な体術を会得した相手に、誤魔化しきれるとは、思っていなかった。
やった事は単純だ。体の魔法の統治下に置いたのだ。鋳術で体の動きを事前にプログラムし、必要なとき、それを魔法として発動する。本来不可能な動きを可能とする他にも、筋肉そのものを強化して、瞬発力も上げている。
わざわざ話につきあった理由もそれだ。アイリスが向こうを片付け終わるのを待っていたのではない。最初から、鋳術を構築する僅かな時間を稼ぐのが目的だった。
「いいさ。どうせ長くは続かない」
声が終わるか終わらないかというくらいに。暗殺者の姿がかき消えた。
瞬間的に、待機させていた鋳術の一つを展開、魔法を発動した。体が助走を無視し、一瞬でトップスピードまで到達する。
地面を蹴って、木に足をかけた。そのまま一歩上へと進む。いつの間にか下に移動していた暗殺者に、左手を伸ばした。攻撃のためではない。とにかく手を振って、命を刈り取ろうとする刃を払う目的で。
目論見は失敗した。短剣は薙がれた手の下を通り、胴体に突き刺さる。
「ッ!」
「こっちもか」
鋭い刃は、しかし服に阻まれる。
木の幹を蹴る。飛ぶ方向はどこでもいい。どう飛んだとしても、暗殺者の裏に出られる。
跳ねて、受け身を取りながら転がり、勢いを利用して立ち上がる。暗殺者はまた、距離を詰めている所だった。
一撃入れたことで、暗殺者も気づいただろう。何度か切りつければ、服をエンチャントごと破れると。が、だからこそ迷いになる。
(考えてくれよ……一撃で頭を刺し殺すか、時間がかかっても当てやすい胴を狙うか)
悩んでくれれば悩んでくれるだけ、こちらに余裕が生まれる。そして、余裕の中には勝機がある。
ヒロの目論見通り、暗殺者は悩んでいるようだった。
頭の位置ほどの高さに構えられていた短剣が、今は少し下で迷っている。体を狙うにして、半端すぎる位置だ。とはいえ、焦りは全くない。その理由も分かっている。
「そんな無茶がいつまで続く?」
(まあ……それもばれるよな)
声には出さない。が、苦しい笑みにはなってしまった。それが肯定になる。
肉体の動きとは、連動するものだ。筋肉の収縮はそれだけで完結できても、動きには繋がらない。無数の骨と関節を追加し、連携させて初めて動きとなる。上手く動かそうと思えば思うほど、連携は重要だ。その連携を無視して動かせば、体のダメージは大きい。
そして、暗殺者は知らないだろうが。ヒロは魔力資質に乏しい。つまり、どれだけ絞り出しても、満足な身体強化に届くだけの魔力は捻出できなかった。つまり、無茶な動きなどしなくても、体に無理をさせないほどの魔法は使えない。
ヒロが現在魔法で行っているのは、筋肉の収縮高速化と必要箇所の自動化、それだけだ。
筋肉の資質を無視した高速収縮は、それだけで筋肉にダメージを与える。しかも、魔法の影響下にない筋肉は、対応が全くついていかない。本来行うべき衝撃を和らげるための筋肉運動が、全くできていなかった。当然、筋肉を支えるための骨も、全く強化できていない。魔法発動のたびに、骨が悲鳴を上げているのがよく分かる。
(いや、違うか)
使うたびに悲鳴を、ではない。そんなものは最初の一回だけだった。二度目からは、痛みが引かない。ダメージが「大丈夫」と言える範囲を超えた証拠だ。
(だが、それでも問題ない)
この魔法の利点は。体がどうなろうが、致命的な崩壊を迎えるまで酷使し続けられるという点だ。
一度発動すれば、どれほど痛もうが関係ない。体は魔法によって定められた道筋通りに動く。
筋肉が断裂するか、骨が折れるか。あとは、集中力の欠如により鋳術の構築を失敗するか、魔法の選択を誤るか。どれかが発生しない限りヒロは動き続けられ、同時に、どれかが訪れるのはそう遠くない。
暗殺者が迷っていられるのも、急がないのも、それが理由だろう。始末するのは、限界を迎えてからで遅くない。
とはいえ、限界を迎える前に殺さないつもりもないだろうが。
暗殺者が地を這うように駆けてくる。斜めに後退した――まっすぐ後退すると、木に阻まれる。直前にまで迫っても、体は持ち上がらない。姿勢を低くしたまま、制空権に収めてくる。
(そろそろ……)
飛んできたのは、刃ではなく蹴りだった。低い位置から、さらに低く、足を払うような。
(来ると思っていた!)
相手の攻撃は、短剣で腰から上への攻撃に集中していた。引っかけるなら、この上ないタイミングだっただろう。実際彼だって、魔法で体を運用していなければ、予想していても対処できなかっただろう。そして、対処しやすい短剣に注意を払い、そのまま転がされ、上から喉を突き破られていた。
(ぞっとする想像までするな!)
血だまりに伏せる自分の妄想を振り払い、小さく斜め前に飛ぶ。足払いを避けながら、暗殺者の肩に触れた。後頭部への攻撃を封じるためだ。
暗殺者の真横に退く。敵は、背を向けたままこちらへ飛んできた。一度押さえられた攻撃は、今度は喉をすくい上げるような突きに変じる。これは手のひらで受け止めた。型まで貫通するような鋭い衝撃が走る。いくら革手袋に高い防御力があると言っても、衝撃までは殺しきれない。
距離が近い。手を伸ばせば届く距離。反撃をしたくなるが、その欲求を意思で押し込んだ。
手でも足でも、出して捕まれば、そのまま押し倒される。一度捕まれば、魔法など関係なく、ねじ伏せられるだろう。仮に対抗できたとして、その前に殺される。
(1……2……1…2………)
脳内でカウントを続ける。間隔はばらばらだ。だが、規則性が無いわけでもないカウントを。
突きの嵐が襲ってくる。速度がほぼ同じと言うことは、一度詰められると、距離を離すのも至難という事だ。両手の筋肉が千切れかけていく感触と痛みを感じながらも、とにかく動かす。痛みに飛びそうな思考をつなぎ止め、鋳術を構築し続けた。
横蹴りが飛んでくる――予想外の攻撃だ。発動中の魔法を破棄、腹を固め、体を倒れ込ませる。同時に、新しい鋳術を作った。
(1……2……)
足刀は、腹の中心にめり込んだ。意識が飛びかける……。そんな中でも、カウントだけは続けた。
魔法を発動できたのは、自分でもできすぎた奇跡だと思った。かなりあらの多い鋳術ではあったが、背中が地面に着地する前に手のひらを差し込み、回転力を作る。不格好な後転をして、なんとか立ち直した。ただし、代償は大きい。限界が大幅に近づく。立っているのも難しく、足ががたがたと揺れていた。
「終わりだ」
そんな言葉を、暗殺者が発したのだろうか。
もしかしたらただの想像だったかもしれないし、あるいは死の感触がそう思わせただけかも知れない。
が。
(1……今)
ヒロはカウントを終わらせた。なりふり構わず、敵に背を向けて全力で走る。
当たり前に、暗殺者は追ってきた。今までの速度より早く、ましてや体を痛めきったヒロより遅いはずがない。
そして、ヒロは逃亡を唐突にやめた。右足で慣性を無理矢理押しとどめ、足全体から嫌な音が響くのも無視する。そして反転し、足が壊れるのを前提に、敵へと飛んだ。
暗殺者はそれに対し、しかし何も反応しなかった。それどころか、崩れ落ちるようにして、地面へ倒れ込む。
「終わりだ」
お返しをするように、今度はヒロがそう言った。
倒れ込んだ暗殺者の頸椎に、指を当てる。
暗殺者はこちらを見ていた――かどうかは分からない。ただ、瞳の中に、自分の姿は入っていたと思う。
ぱち、と指先から、小さな音がした。暗殺者の目が濁る。そして、もう二度と澄む事はないだろう。
「っ~~~~、はぁーーー」
できること全てを終えて、ヒロは息を大きく吐いた。倒れ込みそうにもなるが、それは両手で体を支える。
「さすがに……死ぬかと思った……」
足はもう動かない。痛みでそれどころではないし、たぶん魔法を使っても動かない。どのみち、もう魔法を発動させるだけの魔力は残っていなかったが。
手だけで体を引きずり、近くの木まで移動する。それに背中を預けた。安堵を感じると、痛みと疲れがどっと押し寄せてくる。
(上手くいって……よかった)
落ちそうになる瞼。落ちきらないのは、酷使した体が睡眠を否定しているからだ。
ヒロは、最初からアイリスを待つ気などなかった。
どれだけの暗殺者が派遣されようとも、目の前に人を超えた化け物が現れれば、そちらに集中せざるをえない。もし両者を分断した場合、ヒロを追ってくる(死亡を確認、ないしはとどめを刺す)のは、せいぜい一人だろうと踏んでいた。もし二人来ていたら、本当に詰んでいた。
一人の敵から、魔法を使って逃げ続ける。その間に把握しなければいけなかったのは、敵の呼吸だ。カウントをしながら少しずつ、敵の正確な呼吸の周期を特定する。
後ろを向いて逃げたとき、ヒロはひっそりと魔法を発動していた。空気に干渉する魔法だ。大気の気体比率を弄り、低酸素空間を作った。
干渉力の低いヒロでは、そんな魔法を広い範囲に作ることはできない。ましてや、遠い場所になど。だからこそ自分の接触している空気だけを弄り、全力で逃げ、その上を敵が通る状況を作った。暗殺者が通った瞬間の酸素濃度は分からないが、少なくとも動きと思考は鈍ると思っていた。昏倒するほどとは思わなかったが。
最後に、人体急所に触れて、そこに全魔力を投入した雷撃を放つ。大した威力にはならないだろうが、最低でも行動不能にできる。
上げていた頭を下げて、大きく息を吐いた。肺が痛む。それ以上に、肺の振動が伝わった四肢が痛む。
「本当に全く……僕も運がいいんだか悪いんだか……」
少なくとも、悪運だけはやたらめったら強いようではあった。
「たおしたんだ」
何の前触れもなく、声が響いた。やや舌足らずな、高めの声。
「ああ、まあね」
答えながら、笑う。
何時間も戦っていた気がするが、実際は数分という所だろう。
ヒロはあれだけ苦労して、やっと一人倒したのに。彼女はこの短時間で、どれだけの人数倒したのだろうか。戦力の分配を考えれば、ヒロに向かってきたのは、さほど有力な者ではなかったはずだ。
まあ――そんなことはどうでもいい。もう終わったことだ。
「とりあえず、治療してくれない」
「うん」
彼女が手をかざすと、すぐに体から痛みは引いた。とはいえ、肉体と精神の疲労までは癒やされない。今度こそ眠くなってくるが。
「じゃ、予定通りに、ここからは飛んで首都まで行ってくれる?」
「ん」
小さく頷くアイリス。差し出された手を、彼はしっかりと握った。




