01
…………落ちる――――
それが危険な感覚だというのは、よく分かっていた。
どれほどの距離を落下したのかは、分からないが。体感で、もう十数秒は落ちている。人体を破壊し尽くすエネルギーを得るには、十分すぎた。
どうにかしないと、とあたりを見回しても、何もない。完全な暗闇。おかしいのは……手を伸ばしても、風圧一つ感じられない事だ。まるで、ここに自分以外の何も存在しないかのように、何も感じられない。
光がない。触れられるものもない。となれば、ここが本当に現実かも怪しくなってくる。そのくせ、落下しているという事実だけは、妙に鮮明だ。
――とっさに、体を丸める。
これも同じだ。闇なのに、動いていると分かる。何もないのに、落ちていると分かる。指針もないのに、もうすぐ底だと分かる――
足を小さく折りたたみ、背筋を緊張させ、両手で後頭部と首筋を守る。どっちに落ちているのか分かれば、足を突き出してそれを犠牲に、いくらか衝撃を和らげるくらいはできそうだが。生憎と、落ちている方向も、底までの距離も分からない。
分かったところで、生き残るのに希望が持てなさそうではあった。
それでも、僅かな可能性にすがって、必死に体を固めて。
少年は、墜落しきった。
●○●○●○●○
「ギぃッ……ッ!」
その悲鳴が自分のものだと気づくのに、ずいぶんと時間がかかった。
視界は薄ぼんやりとして、全く安定しない。体の中身全てが、体外にまき散らされた気分だ。頭が痛い。が、どうせ体中で痛くない場所もない。そして、どこかに痛みを押しつければ、多少はましになると思えるほど緩くも。
ひたすら息苦しい。手探りで床を探し、寝返りを打った……のだと思う。感覚がめちゃくちゃで、本当にできたという自信はなかった。ただ、呼吸はいくらか楽になる。
しばらくそのままでいると、多少痛みが引いてくる。なんとか考えるだけの余裕を確保して、頭を動かした。
(皆沢弘、16歳。8月8日生まれ、横沢第二高校二年……)
問題ない、頭は働いている。苦しいが、回復の兆候はある。そう信じる。
死ぬ間際に、体が楽になっているだけとは考えない。落下時間を考えると、そちらの方が可能性が高いだろう。もっとも、その場合は、今更何をどうしたところで意味もない。死を待つだけだ。
(学校帰りに、いきなり落下が始まった。冗談じゃあ、ない。本当にいきなり……そう言えば、景色も穴に落ちて暗くなったんじゃないな。落下が始まったと思った瞬間、全ての感覚がなくなったんだ)
深呼吸を繰り返す。痛みが再び出てきたが、逆に安心した。少なくとも、このまま死ぬ怪我でだけはない。
(とりあえず……ここはどこだ?)
呟きながら、身を起こそうとする。
いくつか、気づいた点がある。かなりの距離から落下したにしては、妙にダメージがない。打撲と裂傷だらけだが、骨折はなさそうだ。あとは、視界の鈍さは頭を打ったからだけではなさそうだ、という事。
前後左右と、ついでに上下を見渡す。どこも同じような風景で……つまりここは洞窟だった。暗く感じたのはこのせいでもあった。あとは、上に穴などはない。ごく当然に、他の場所と同じく、岩肌が伸びていた。
(これは……本気でやばそうだな)
身の危険という意味ではなく。理解の埒外という意味で。
が、当面考えなければいけないことは、それでもなさそうだ。洞窟は見た限り閉鎖された空間だが、視界は通る。つまり、多くないながらも光源があった。誰かがここを私用している。
(いきなり進入してきた訳の分からない奴に、好意的に接触する理由……。まあ、ないよな。警察につきだしてくれる、くらいなら御の字だ)
最悪の場合は、逃げる必要もある。どれくらい体が動くか把握しておきたい。
壁に体重を預けながら、身を起こすと。
ふと、音が聞こえた。
ヒロは動きを止めて、耳に神経を集中した。今まで気づかなかったが、かなり強い耳鳴りがする。今まで気づけなかったのはそのせいだ。
その内、音は声だと分かった。本当に小さな、すすり泣きだ。
発信源は、すぐに見つかった。部屋の中央だ。今まで気づけなかったのは、それが埋まっていたからだろう。
(なんだこれ)
そう思うより他ない。
地面に埋まっているそれは、青い糸を四方に散らしていた。それが髪だと気づくのに、数秒の時間を要したのは。青い長髪が、本当にあり得ない色合いをしていたからだ。髪の色合いは、明らかに染めたそれではない。光の反射率が尋常ではなく、宝石のような輝き方をしている。さらに髪をよく見ると、中央付近に二カ所、大きな膨らみがあった。同系統の色でわかりにくかったが、それは翼だ。大きな一対の翼は、髪より一段深みのある色で、本物の宝石を組み合わせて作ったかのようだ。
(見たのがこんな状況じゃなければ、感動でもできたかもな)
つまらない事を考えて、もう一度息を整える。今度は慎重に。
聴力に、さらに意識を集中した。頭痛がじゃましてくるが、なんとか振り払う。耳鳴りの隙間から、確かに声が聞こえた。
「う……ぐずっ……みんなそうやって……しくしく……いぢめるんだ……」
「なんだこれ」
今度は声に出してしまった。衝撃的と言えば、衝撃的な声ではある。一言で言えば、それはいじけた子供の泣き言だった。
「あー、悪いんだけど、あんたはなに?」
とりあえず、他にどうしようもなく声をかける。
その少女――声と大きさからして、たぶん少女で合っているだろう――は、一瞬びくりと震えて、愚痴を止めた。ただ、すすり泣きだけは止まらないが。ゆっくりと首を回し、横目でヒロを確認すると(したとは思う。なにせ穴と髪の毛に挟まれて、もぞりと動いたのしか分からなかった)、また震える。
「い……いぢめないでよぅ……私何も悪いことしてないもぅん……」
「いや、別に虐める気はないが」
言いながら、ヒロは顔をしかめた。たったそれだけの言葉で、背中に意識が飛びそうなほどの激痛が走る。骨は折れていない、というのは、どうやら甘い見込みだったらしい。肋骨のどこかが確実に折れている。
「うそだぁ!」
たぶん、顔をしかめたのもいけなかったのだろう。少女はうわぁんと泣き出した。
「だって私のこと、上からすごいちからでぶったじゃない!」
「いや……それに……ついては……」
一言一言、脳が割れそうな気分を味わいながら発する。
苦痛の中、少しずつ上半身を捻り、楽な体制を探した。しゃべって響かない訳ではないが、今すぐ意識が飛ぶほどではない位置で固定、続ける。
「僕も落下してきただけで、何が何だか……。君の上だったことは謝るよ、意図した事じゃない。すまなかった」
今度は鈍く響き続ける痛みに、思わず背中に触れそうになった。幸運な事に、それは成らなかった。肩を動かしただけで、背中全体に響いたからだ。
「ほんと?」
鼻声で少女がいいながら、顔を持ち上げた。初めて、彼女の顔が見える。
少女の顔は、まあ、思ったよりは普通だった。少なくとも目が三つだったり、全体がびっしり鱗か鉱石のようではない。普通の白い肌に人間の造形に。あとはまあ、造形は美少女と言っていいのだろうか。逆に言えば、予想を下回る程度ではあるが、人間離れしているのだが。
おかしいのは瞳だ。虹彩が、髪や翼と同様の青である。しかも、こちらは光を反射して輝いているのではない。明確に、瞳の奥から柔らかな光が出てきている。
(これはいよいよ……なんだろうな)
そう思うしかない。
目の前の存在は、明確に人以外の何かだ。まあ、眼球をえぐってまで人を脅かすことに熱を入れる者がいないとは言わないが。少なくともその時、対象は自分ではない。
となれば、次にわき上がるのは、ここがどこかという問題だ。
目の前の少女(のような何か)も、少なくないかも知れない。いや、こんなファンタジー映画の登場人物みたいな奴がいるのだ。もっと明確に化け物もいるだろう。そいつはきっと自分を食おうと牙をむき、大きな口を開いてこう言うのだ。
「がおー」
「え?」
「いや、なんでもない」
余計な事を言った。というか、考えたとからして余分しかなかった。
感覚だけで背中を確認する。やまない疼痛と痺れ以外には何も感じられなかった。たぶん、ここから発生した熱が脳付近にまで届いたのだろう。思考が鈍っている。この状況でそれはまずい。
「とにかく、ええと……何の話だったか……。そうだ、君を害する意思はない。君に当たってしまったのも偶然だ。信じて欲しい」
「……うん」
ぐす、と鼻をすすりながら、少女。
彼女は身を起こして、穴から出てきた。どうやら体育座りをそのまま正面に転がしたような姿勢で、埋まっていたらしい。そこまで分かると、気づくことがある。穴は最初から空いていたもので、彼女は自らそこに挟まっていた。行為にどんな意味があるか分からないが、とにかくそうだ。
這い出てきた少女は、服についた汚れを手で払っていた。慣れた仕草だ。いつもこうしている事がうかがえる。
と、気がつく。
(動きに淀みがない?)
かなりの勢いでぶつかったはずだ。あの暗闇の中で、実はかなり減速されていた――もしくは思っていたより加速していなかったとしても。落下に備えていた者が、骨折の上、何カ所も打撲を作る程度には勢いがあった。その下敷きにされた者が無傷? うつぶせだったのだから、当たるまで全く気がつかなかったはずなのに?
そう言えば、泣いていた理由は最初から嫌がらせを受けたからだった。
(参った……)
そう言うしかない。そして、目の前の少女が、今見せた様子通りの人間だと期待するしかない。
あれだけの衝撃を受けて、傷一つ見えない。ダメージを受けた様子もない。
認めなければならない。目の前の相手は、肉体的には間違いなく化け物だ。そして、今襲われれば、逃げる手段は存在しない。
「じゃあなんでたたいたの?」
まっすぐ立った少女は、思っていたより背が小さかった。ヒロの肩より少し高いくらいだが、うつむき加減で上目遣いをしているので、さらに小さく見える。
「叩いたんじゃなくて、ええと……上から降ってきたんだ」
「……上から?」
ふと、少女は呟いた。そして、当然天井しかない上を見て。視線をもしたときは、別の感情を宿していた。つまり、馬鹿を見る目だ。
「気持ちは分かるし、信じられないのも分かる。でも本当に、こうとしか言いようがないんだ。道を歩いていていきなり暗くなったと思ったら、ここに落とされた」
「疑うとは、いわないけど……」
全く信じていない様子で言われると、どう返せばいいかも分からない。
「そういうトラップとか聞いたことがあるし。どんな意味があるかしらないけど」
「お前が言うか」
「へ?」
「いや、なんでも」
思わずうつぶせで溝に填まっていた理由が、やけに気になる。
無意味にわき出た好奇心を捨てて、言葉を探した。目の前にいる人間がした不可思議な行動より、聞かなければいけない事はいくらでもある。あと、可能であれば、少女の気に障らないように。
「ねえねえ」
質問を並べていると、少女が声をかけてきた。いつの間にかかなり接近してほり、高価な宝石のような瞳で見上げてきた。
「なんでそんな変な姿勢をしてるの?」
ヒロは今、両足を開いているが開きすぎず、腰を少し捻り、体を左に倒しながらも、右肩は突っ張らせる。訳の分からない姿勢ではある。掘った穴に埋まっている事くらいには。「痛いんだ、背中が」
動くのもキツい、などという、余計な事までは言わない。こちらを物理的に食べる可能性がなくなるまでは。
「ふーん。なおさないの?」
どうでもいいけど、なんとなく気になったという感じの口調で言ってくる。
「後で医者に見てもらうとするよ」
「そんなことしなくても今治せば?」
ヒロは眉をひそめた。まるで今すぐどうにかできるような口調だ。いや、たぶんできるのだろう。
この情報を与えていいのか、いくらか迷ったが。やがて決断し、告げる。
「あいにく僕にはできなくてね」
「ふぅん」
先ほどより、さらにどうでもよさそうな口調で。
ふと、何かに気づいた様子の少女。
「じゃ、わたしが治してあげる」
聞き返す暇もない。少女は片手を、ヒロに向かって掲げた。
「治れ」
言ったのは、たったそれだけの言葉だ。言葉だけで、手から光が生まれた。光はヒロの体の中に沈み、やがて痛みを消し去る。なくなったのは、痛みだけではなかった。破れた服の下から覗いていた裂傷、それまできれいさっぱりなくなっていた。
光を引っ込めて、満足げに頷く少女。そして、ヒロを見上げながら言った。
「ところであなた、名前はなんていうの?」
「……ヒロ。皆川弘だ」
「わたしはアイリス・アウイナイトっていうの。よくわかんないけど、とりあえずよろしくね」
言われ、差し出された手を握る。痛みから逃げるために取っていた姿勢は戻して。
少女の手の、ほんのりとした暖かさに触れながら。ヒロは少しだけ、視線を上向けた。そして、壁の向こうを見る。
いい加減、認めなくてはいけない。ここは地球上のどこでもない。
そして、理解しなければいけない。ここは自分の知る場所とは異なる世界である、と。