第七話 玉響ほどの霰舞
――泡沫の夢。
――溶け逝く現界。
――無為の知覚。
自身の理解しているものが――理解していると思っているものが全て空想の産物、夢幻であると気付いた時、人間は如何なる意識に苛まれるのであろうか。
作り物の関係。
作り物の思考。
作り物の環境。
作り物の、セカイ。
暗晦、石木、胡乱、火水、刻船、愁雲、轍魚、鉄石、倒懸、土芥、烈火――それは、実際に自身で体験した者にしか判らない。
誰もが自分の生きてきた道を否定などはしたくないであろうし、嫌でも歩まざるを得なかった過去を消し去りたいと思っているかもしれない。
されど、この瞬間に立っている脚は自分の物で――たった今存在している世界は紛れも無い現実であるということは、誰にも覆せないのである。
例えそれが、如何なる状況であったとしても。
*
人が高い建造物を建てるのは、より天に近付く為であろうか。
己の身の丈だけでは、何時まで経っても金烏を掴めぬと嘆きもがいているのかもしれない。
それとも単純に、地表の脅威より安寧を求めて逃げている結果なのか。
高みに居る人間ほど、高みを目指せば目指すほど――自身の足下には餓鬼の如く無象の輩が群がり、気を抜けば一瞬で食い散らかすことを恐れるからとも考えられる。
ただ――いずれにせよ、それらの内憂はあくまで高塔の所有者やそこに居住なりともする者にとってのモノでしかない。
故に、あくまで其処へと一時的に足を運んでいる者にとっては、そのようなことなど――些事に等しい。
神の雷で崩落したと伝えられる、太古の塔も然り。それは、自ずと安寧と繁栄――そして、更なる未知への探究が滾り抑えが利かなくなった者たちの末路であろうか。
――とは言え、それもやはり現在の澪たちには関係の無い事である。
今、澪とその同行者に必要なことは――無事、この高層ビルより脱出することだけであった。
「さて、と――これは一体どう言うことなのか、説明して頂けますか?」
極力、冷静さを装ったまま、澪は自身の隣で身を潜める同行者――透華へと声を掛けた。
利劫が夜天の中、神秘的に浮かぶ氷輪だとすれば――透華は碧天に咲き誇る紅鏡に違いない。
その細い腰まで伸びた髪は、まるで精細な黄金細工のように煌めき――緩やかに、螺旋を描いている。
美の体現者とも言うべき、常盤を顕現させる透華の眼は、艶めかしいまでの白い肌の中に良く映えていた。薄い桃色の唇から今も漏れる小さな吐息は、澪に未だ見知らぬ楽園の香りを思い起こしていた。
彼女の身の丈は、明らかに澪より高く――それでいて細くしなやかにな腕も、何処までも伸びた長い脚も、稀代の美術品の如き様を兼ね揃えていた。
それでいて歳の方は澪と二つしか違わないのだから、世界とは不思議なものであろう。
澪から見ても、正に大人の魅力を備えた魅力的な女性という表現が満場一致で相応しい次第である。
美女と人気の無い物陰で身を寄せ合う――状況が状況ならば、小躍りしていることだろう。
狭所でやや密着した状況に陥っているということにより、その女性特有の肉体の柔らかさや脳髄を優しく刺激するような甘い香りに、澪の青い煩悩は徒に擽られっぱなしである。
されど良いこと尽くめなどと、そうは問屋が卸さない。世界は何時だって己に対して苛烈であるということを、澪は改めて実感させられていたのだ。
そして、そんな少しばかり責めるような口調の澪に対しても、当の本人は穏やかに微笑むだけである。
――今朝起きたときから、澪は頗るご機嫌であった。
遣いっ走りに毛が生えたような立場とは言え、利劫の下で働き始めてから、徐々に澪の生活環境はされてきていた。
働きに見合った額の金を受け取り、人間らしい食事を摂る――そのような人として生きてゆく上で最低限のことすら、以前の澪では叶うべくも無かったのだから。
今まで住んでいた家と呼ぶのも烏滸がましい――今考えると、尚更そう思ってしまうような窓ガラスすらも嵌っていなかったようなボロ屋を引き払い、安アパートとは言え人間が住む鍵付の部屋へと移り住んでいた。
となれば、シャワーを毎日浴びることも出来るようになり、身に纏う物にも多少なりとも気を回す余裕も生まれてくる。
事実、相応の身嗜みを整えるようになってからは、街を歩いていて異性とすれ違う時にも嫌な顔をされることも無くなり、胸を張って食事処へと足を踏み入れることも出来るようになっていた。
働き、金を貰い、食事を摂って、身嗜みを整え、暖かい部屋で眠りにつく――その人として当たり前を享受できることにより、澪もより一層高みを目指して歩みを進めていた。
利劫の下で出会った――ナナとも澪は、共に仕事をこなすパートナーとしての信頼を少しずつ築いていた。
正に、今までの澪の人生からは考えられないほどの順風満帆さであったが――やはり、人生とはそれほど甘いものではないということをたった今、現在進行形で刻み込まれている最中であった。
事の顛末は――こうである。
前日、ナナが電子の海を遊泳最中に、一つの依頼を見つけてきた。
その仕事内容は、ごく普通の護衛の求人であった。
一般的な護衛任務と言えば、どこぞの金持ちやらお偉いさんのボディーガード兼弾除けになれと言うあたりが相場である。
そして基本的に要人警護と言えば、元々権力者には常日頃から自身の身辺警護の為に専属で雇っている者に任せるという形が常である。
よって、最初ナナから目通しを勧められた時、澪はこの求人はトラブルにより警護要員に欠員が出たための人材補充であると考えた。となると――採用された場合には、長期的な拘束となる可能性が極めて高い。
最低に近いグレードとは低いと言え、皮下装甲と高反射神経を入れたことにより、多少なりは荒事に対しても身を投じることが可能となっている。
だが――専属と言えば聞こえは良いが、そうなると澪はナナと自由に仕事をする時間も無くなり、利劫の下も離れることになってしまう。
澪の目的の為にも金は必要であるが、折角足並みを揃えて仕事を行える相手ができたのだから、それはあまりにも不都合であろう。
そう思い、澪はその度の護衛求人を却下しようと思っていたのであるが――その内容は、既存の知識とは些か掛け離れたものであった。
求人内容個人護衛――求人定員一人、拘束期日半日、報酬要相談、面接の上で細部説明。
――あまりにも、怪し過ぎる。この一言に、尽きた。
しかしながら、この家業に危険は付き物であるということなど今更であろう。ナナのサポートの下、結局澪が足を運んだ先に居たのは――一人の女性であった。
おっとりとした雰囲気を漂わせた、如何にも良いトコのご令嬢という容貌の透華は、正しく澪の踏んだ通りの人物であった。
――水仙慈透華。永きに渡りこの都市の中で肥大化し続ける超巨大企業の一つである――ナルキッソス・コーポレーション、通称NCの前代表の一人娘であった。
話の内容自体は、それほど複雑なものではない。
NCは、代々水仙慈という一族が中心となって動かしてきた企業であった。そして、その前代表である透華の父が不慮の事故により――遂には、その生涯を終えることとなってしまう。透華の母は、彼女が幼い頃に亡くなっているとのことであったため、彼女は両親を亡くし一人となってしまう。
只でさえ、透華にとっては肉親の死と言う悲劇に苛まれていたのであるが、此処でもう一つの問題が浮上してくる。
彼女の父が死去っしたことにより、ぽっかりと空いた企業代表の椅子には、血縁優先で透華が納まるということが決まっていたらしい。
されど、それを面白く思わないのが、NC幹部の席に着く他の親戚連中である。一族中心の経営とは言え、企業に尽くしてきた自分たちの中からではなく、前代表の娘と言うだけで椅子に座ろうとする透華の存在が許せなかったとのこと。
透華としても、代表の椅子自体にはさほど興味も執着も無いとのことであるが、彼女が存命していることにより不利益を感じる連中はそうは思案しないのだ。
となれば、その程度の空気――透華自身も、嫌でも感じ取ることとなる。
幾ら温厚で自己主張が少なく、おっとりとしている透華であろうと――自身の生命に迫るような危機は御免被りたい、と。
しかし細腕の小娘一人では、まともに話をする間も無く消されるであろう。
そう考えた透華は密かに逃亡を図り、足がつく前に自身の持ち得る電子通貨を持てるだけの貴金属に変換し、身柄を隠していた。
そうして――藁にも縋る思いで助けを求めた先より現れたのが、澪であったとのことである。
澪が場に赴いて話を聞くと、このまま逃げ出してもいずれ捕まり亡き者とされる可能背が非常に高いので、企業幹部の親戚連中に透華が代表の椅子には座らないということを明確に伝えたいと言う。
だが、護衛のガキを一人連れて行ったところで、奴らが話をする気になるとはどうにも思えない。
澪としては、既にその時点で地雷臭漂う仕事内容を耳にして如何に断ろうかと考えていたが――それは結局、叶わなかった。
初めから、澪に断られることなど織り込み済みであったのだろうか。この度のお家騒動、透華には微塵も責任も落ち度も無いにも拘らず、半ば諦め困ったように淡く微笑む彼女を見て――澪は、とんと覚悟が決まった。
理不尽には、誰だって抗いたいものだ。
不条理は、誰しも撥ね退けたい。
それは生きている人が持っている、当然の気持ちなのだから。
『自分から窮地に飛び込むなんて、ミオは本当に馬鹿ですね――私もサポートするので、必ず無事に戻って下さい』
いつもと変わらぬ無表情のまま、抑揚の無い声で言うナナに頷き返し――澪は、この場に来たのであるから。
――意識を、目の前の問題へと集中させる。
物陰から密かに頭を出して確認できる、澪の視界から窺えるだけでも武装警備員が一、二……五人。
「――目標視認できません。依然として、姿を隠しているようであります!」
「役員と賓客の安全確保は済ませたのか!?」
「はい――たった今、通信が入りました。無事、パニックルームへの非難を完了させたようです」
「監視カメラからの映像はどうだ?」
「モニタールームからの通信によりますと、ある場所から反応がいきなりロストしたようです! 映像が突如差し替わったとの報告が挙がっております」
「クソッ! 奴等には、間違いなくクラッカーが付いていやがるぜ……エレベータの電源を落として、階層昇降口を封鎖しろッ! まだそれほど、時間は経っていないんだ――奴等は依然として、建物の何処かに潜んでいるはずだ!」
「了解であります! 各階層に設置された警備ロボットも起動済みです!」
「よしッ、引き続き捜索を続けろ! 上からの命令では、生死は問わんとのことだ――見つけ次第、二人とも射殺しろ!」
「ハッ!」
そんな物騒な発言を耳にしては、何が何でも見つかるわけになどはいかなくなる。
少なくとも、澪にとって今の状況は、これ以上ないほどの危機であるわけだが――当の透華は、事の前後と変わりなく柔らかな微笑みをその美麗な貌に浮かべたまま――。
「あら……どうしましょう、澪さん?」
ふわふわとした雰囲気を纏って、澪に判断を求めるのであった。




