第五話 空音が迫る、仙楽を携えて
それは正に――天啓としか言いようがなかった。
繰り返す日々を明確な目的も無く、只ただ己の生命活動の維持のみに費やしていた澪に訪れたそれを――天啓と言わずとして、一体何と言い表せようか。
届かない。
届かない。
己は決して、生有る内に碧霄へと辿り着くことは無いのだ。
地を這う小虫に産まれ墜ちた身では、どう足掻いても天涯に至る栄華を掴むことは不可能である、と。
されど――それは、不意に訪れた。
まるで、曙と共に霧散する夢幻のように。
恰も、聖人へと告知される思し召しの如く。
見てしまった、視てしまった、観てしまった――御手仕舞って、満ち足りてしまいそうになった。
聞いてしまった、聴いてしまった、利いてしまった――己の中の奥深く、真髄にまで効いてしまったのだから。
もう戻れない――既に止まることなど、考慮にすらも値しない。
故に、其処へと向かって緩やかに手を伸ばすのだ。
それは当に諦めていた、大切なものを取り戻すかのように。
*
時刻は未だ、薄明の中。
澪は前日と同じように、利劫の事務所へと出勤する。
利劫より澪は、時間の指定が無い限り午前中であれば好きな時間に来いと指示されていたが、紅鏡の上る中で何時までも寝腐っているわけにもいかない。
澪としても利劫から金を受け取っている以上、その言葉通りに甘えるなど以ての外であるとの思慮の下である。
元々、澪も貧者であるため、以前までの生活習慣として早寝は当然どころか必須であったのだから。モタモタしていては、その日は何も口にできない事すらザラであった。
そのような理由により、規則正しく――澪自身が自主的に遵守することにしている――利劫の下での就業時間に従事するように小さな事務所へと訪れたのであるが、
「あの……その子、誰ですか?」
予定調和か気紛れか。
利劫の下で雑事、小間使いなどに精を出して早一週間――澪は突如、新たな仕事を押し付けられた。
――否、仕事を割り振られるのは大いに結構なのであるが、問題はその中身である。
「喜びなさい、澪――この子が遣いっ走り二ご……貴方の後輩となる娘よ。ほら、挨拶なさい」
利劫は、自身の斜め後ろへと控えさせていた少女へと顎で指図をする。
それを受けて、その少女は無機質なまでの雰囲気を纏わせたまま、澪へと口を開く。
「初動実動体無号・斜――ナナと申します」
「しょど……あ、え、何だって?」
「あぁ、その辺りは気にしないで頂戴。その娘の名前は、ナナ。貴方の後輩、同僚……なんでもいいわ。澪は今、それだけ判っていれば十分よ」
「って言われても……」
「貴方がナナの面倒を見て、一緒に仕事をなさいな」
「特技は、電脳没入と|電子的改竄及び破壊工作です。存分にお使い下さい」
「ね? 澪の足りない所を埋める良い人材だと思わないかしら――貴方、電子系なんて詳しくないでしょう?」
「確かに、僕には技術も知識も無いですからね。そういった意味では、非常に助かりますけど……」
事実、澪はその手の領域に手を出したことは無かったため、ある意味では渡りに船とも言えるであろう。
専門の技術を所持したクラッカーと仕事を共に行う――チームを組むということにより発生するメリットは、澪にとっても非常に大きい。
監視カメラの誤魔化しに始まり、警備ロボットの鎮静。
電子ロックの解除に自動操縦システムのコントロール奪取。
電脳空間に侵入しての情報収集やデータの書き換えだってお手の物である。
澪はナナと組んで共に同じ仕事へと臨むことで、大幅な効率化・安定性――そして、行うことのできる仕事範囲の拡張も可能となるのだ。
故に、澪は多少腑に落ちないことはあれど、利劫の指示を素直に受け入れることにした。
「はぁ……ま、判りました」
「御理解いただき、感謝いたします」
そう短く澪へと告げて、ナナは口を噤む。
「あっ……そうそう。僕は澪、よろしくね」
「了解致しました、ミオ様」
「様は止めてよ。僕たちは同僚になるみたいだし、澪でいいよ」
「――了解しました、ミオ」
「うん。これから一緒に頑張ろうね、ナナ」
とは言え、澪の口から出たのは、ナナに負けず劣らずの簡素な短文であった――そして、次なる沈黙。
幾らなんでもコレではあんまりであると感じた澪は、己の内へと必死に二の句を探り始めるが、このような場面に限って中々に適切な言葉なんてのは出ないものである。
ご趣味は?
ご職業は?
好きな異性のタイプは?
なんて――。
これでは、噂に聞く上流階級の効率的逢引きシステム――通称、お見合いデートというやつではなかろうか。
思考を巡らせ、頭を捻り――ふと、澪はナナへと目を移す。
肩甲骨に掛かるほど真っ直ぐに伸ばされた、燃え上がるが如き朱華の髪。
先の端的な言葉を思い出させるかのような無機質さ――まるで機械的なまでの冷淡さを含ませた涅の瞳。
ほとんど表情に変化の見られなくとも――それに依るものかは定かではないが、ナナの貌は一種の美術品の如き端正なものである。
それでいて淡雪のような肌は、利劫に負けずとも劣らぬ肌理細やかさと滑らかさ――そして、紛れも無いほどに不可侵を主張する儚さを秘めていた。
身の丈は意外に高く、澪とそう変わらぬように感じられた。
胸元の女性のシンボルは豊かに実り、ナナが動く度に確かな上下運動を繰り返すことに――澪の視線は嫌が応にも縫い付けられてしまっていた。
――そこを、突然降ってきた利劫の言葉に気付かされる。
「ふふふっ、澪はナナに興味津々ねぇ?」
「――? ミオは、私に興味津々でありますか?」
「えっ! い、いや、その……ちがっ! ち、ちがい、ますよ……?」
「では、私などには微塵も興味無いのでありますか?」
「や、そりゃあもう色々と興味津々だよ……あっ」
何とも天然無色な返答のナナは置いといても、問題なのは利劫である。
利劫は取り乱す澪へ、自身の口元に手を当ててくすくすと笑う。
この様子では、先の澪の嗜好――ではなく、思考は完全に利劫に読まれていたに違いない。
そんなややサディスティックな雰囲気を醸し出す利劫は目を細めて、猫が鼠を少しずつ甚振るようにちくちくと澪をからかう。
「あらあら――わたくしはてっきり、澪がクラッカーというものに興味が湧いたのかと思ったのだけれど……一体、何をそんなに慌てているのかしら?」
「あっ……そ、そうですよ! そうそうっ!クラッカーに逢うのなんて初めてなもんで……その、め、珍しいなぁって……」
「本当かしら? 先程の澪の這うような視線は、どう見てもナナのたわわなむ――「あーっ! クラッカーってどんな感じで仕事するのかなぁ!?」
「……む?」
「な、何でもないよっ」
「まぁ、確かにクラッカーという者は、あまり表に出ないものね」
「クラッカーの仕事とは、電子制御されている物干渉及び電脳空間への侵入――詰まる所、これであります」
ナナがあたふたする澪に首を傾げながらも、律儀に説明を始める。
澪へと送られてくる利劫の視線には、暗に『澪も男の子ねぇ』的なモノも含まれていたが、今は極力気にしないことで婉曲に話を進めようと努めていた。
そして、相変わらずナナの表情に変化の色は見受けられないが、最初に澪が感じたよりも彼女の印象は些か柔らかく感じた。
「具体的に言えば……」
「や、その辺にも興味はあるんだけど、それはまた今度……時間のある時にでもゆっくり聞かせてもらうことにするよ!」
「左様で」
結局、澪はこのナナという少女についても全てを理解したわけではないが、これから行動を共にする機会も多いであろうと考え――緩やかに、焦らず関係を築いてゆこうと心に決めた。