第四話 浮塵子は鶚と成り得る前に
「ふふふっ――あっはははははっ! 上出来よ、澪! 昨日の今日で、期待以上の働きだわ!」
心底可笑しそうに笑い転げる少女――現状においてはある意味で澪の雇い主とも言える利劫は、至極愉快と言わんばかりに笑い声を部屋中に響かせた。
その姿に多少の不安を抱えながらも、澪は一通り笑い終わった彼女へと話しかける。
「それで……仕事は、満足して貰えました?」
「ふふっ、勿論。あいつらの顔ときたら……あはっ! 思い出すだけで、笑いが込み上げてきてよ」
「……顔? 僕が奴らのアジトに突っ込ませる瞬間でも、見てたんですか?」
「いいえ、そうでは無くてね――あぁ、そのシーンも是非現場で見てみたかったわ。まさか、わたくしもその日の内に貴方が仕掛けるだなんて考えてもいなかったから、何も用意していなかったのよ。深夜の喜劇は、さぞ愉快であったことでしょうね」
氷の上に咲いた一輪の花のような微笑と共に、利劫はそんな台詞を紡いだ。
破落戸のアジトに奴らの車を突っ込ませた騒動から早二日――澪は、再び利劫の下へと足を運んでいた。
先日の任務終了後、澪はすぐに利劫の下に報告へと向かうつもりであったが、彼女より一日空けた後に足を運ぶようにとの指示を受けていた。
その連絡方法とは、予め澪が利劫より手渡されていた情報電子端末を用いたことによる通信である。
『ひと仕事して疲れたでしょうから、明日はゆっくり休んでなさい――ご苦労さま』
PDAの画面上に窺えた利劫より送られてきた電子文は、ただそれだけの短い文章であったが そこには確かに澪への労いが篭められていたものであった。
利劫にとってはまだしも、貧民から見れば相応に高価な品であることは間違いないにも拘らず、それを放るように渡した彼女の真意を澪は理解させられた。
要するに、それすらも利劫にとっては使える人間を見極めるための一環でしかなかったのであろう。
――澪が適切な行動を取ることが出来るかどうかという試験の一部。
兎にも角にも、澪は無事仕事を成し遂げたわけであるが、それで全て終わりというわけではなかった。
澪は、己の内に残っていた最後の疑問を利劫へと投げかける。
「そういえば、何で昨日は此処に来るなって言ってたんですか?」
「何故って、決まっているでしょう?」
「――? あっ! もしかして、大事なお客さんでも来る予定だったとか」
「微塵も重要ではないけれど、確かに来客の予定はあったわ――それが招かれざる客だとしても」
「それってどういう……」
いまいち要領を得ない利劫の言葉に澪は首を傾げると、返って来た内容はとんでもないものであった。
「だから――昨日、奴らが此処に来たのよ。肩を怒らせながら『一体、どういうつもりだー』、ってね。まぁ、奴らも馬鹿じゃ――紛れも無い馬鹿だけれども、事由の大小はどうであれ、アレにわたくしが関与しているということくらいは理解できたのでしょうし」
「えっ! で、でも、僕……特に名乗りもしてないし、絶対的な証拠なんかも残して来なかったと思うんですけど……」
「ふふっ、良く考えて御覧なさい。奴らは腐っても――いえ、腐っているからこそ、暴力を生業としているのだけど。奴等の評判はどうであれ、この地区で自分たちに真っ向から刃向かう者なんてまず居ない、と」
「それじゃ、他の地区やらもっと大きな組織とかのってのは……」
「――無いわ。その可能性が限りなく低いってことは、奴らもすぐに気が付いたでしょうね。良く考えて御覧なさい――此処はスラムでも最下層なのよ? 元々得られるものなんてほとんど無いから、力ある組織ほどこんな地の底には入ってこないの。だからこそ、あのゴミ共程度の有象無象ですら、肩で風を切って歩けるのよ」
つらつらと並べられる論に、澪はごくりと唾を呑み込んで続きを利劫へと促した。
「……つまり?」
「つまりも何も、そうなると残りは近頃の目に付く相手――自分たちの意に沿わない、このわたくしこそが先の仕掛け人であるということに辿り着いたわけ。大方、わたくしが奴らを目障りな自分たちを掃討して、縄張りを握ろうとしているとでも思ったのではないかしら」
「利劫さんは、縄張りには……興味ないんですか?」
「うふふっ、澪も随分詰まらないことを聞くのね――有るわけないじゃない。執着も未練も意欲も――こんなチンケなスラムなどに、わたくしの関心が有るだなんて、本気で思っていて?」
奴等みたいなことを言わないで頂戴、と切り捨てる。
不要、と――そんなものは微塵も必要ないのだと、利劫は澪へと告げた。
水路の濁ったドブのように、蒼穹に泳ぐ雪白の雲のように、くるくると回転するように澪は感じていた。
利劫の求めるものは、何処にあるのかと――。
「じゃ、じゃあ、利劫さんは何で此処に事務所を構えてるんですか?」
「あら、そんなの決まっているじゃない。今のわたくしの力では、此処が限界だからよ」
「限界、ですか……」
「そう、限界――わたくしがそれなりに強くて、それなりに頭がキレて、それなりにお金を持っていて、それなりに顔が利いて、それなりに影響力があったとしても、それじゃあ全然足りないの」
聞き様によっては強欲に、受け取り方によっては謙虚であるかもしれない利劫の言葉は、思いがけなく澪の心の底を叩いた。
――足りない。
――足りない。
――まだ、足りない。
欲求――それは、人間が本質的に所持している本能であるのだから。
「今は良くても、直ぐに次の限界点が来る。容量なんて、直ぐに一杯になってしまうのよ。人が人である以上、それは当然なのよ、澪――貴方も明確な目的があるからこそ、大金が要るのでしょう?」
「ぇ、えぇ……まぁ、その……」
「あぁ、理由までは言わなくてもいいわ。貴方の必死さが伝わっただけで、あの日は十分だったのよ」
要するに、と――利劫は言葉を続ける。
「まだ今は此処で良いの――いずれは、ね」
「そんなもんですか……」
「えぇ、そんなものよ」
「はぁ……」
曖昧に返す澪は、そんなふわりとした笑みを浮かべる利劫から視線を外してしまう。それは己の理解の及ばぬ無知に依るものか、それとも別の何かであろうか――今の澪には、それを知る術など存在しなかった。
――そしてまた、澪も。
今は――澪が大金を必要としている理由は誰にも言うつもりはないけれど、微笑む利劫と視線が交差すると、やはり気恥ずかしさに苛まれる。
「――話を戻すけれど、そんなわけで結局わたくしが直接奴らを排除することにしたというわけ」
「そうだった! そっ、それでっ! それでどうしたんですか――利劫さんは無事だったんですか!」
「澪ったら、おばかさぁん。わたくしは以前、彼らを軽くあしらっているのよ?」
「あっ、それもそっか」
「それに今、わたくしがどうにかなっているように澪の目には映っているのかしら」
「や、そういうわけじゃないんですけど……」
「……けど?」
「その、利劫さんは……女の子でしょ?」
「えっ……あの……その……」
「僕と同じくらいの歳なのに、立派に自分の力だけで食い扶持を稼いでる利劫さんに言うべきことじゃないかもしれないし、この街の中で男だから女だからなんて区別する気なんて更々無いけど――利劫さんは、女の子だもの。あんな凶悪な男たちを相手にしただなんて、やっぱり……僕は心配するよ」
澪の言葉に、利劫の表情が固まる――そして、見る見るうちに彼女の頬に紅が差す。
同時に、室内の空気も固まる。
澪の台詞は、恰もこの空間に存在する全ての分子を瞬間的に停止させてしまったかと錯覚するほどであった。
その瞬間の利劫の表情は、不意に思い掛けない出来事に遭遇した普通の少女のようであった。
しかしながら、澪にその利劫の心情を理解するスキルなどは到底存在しない。
故に己の発した言葉によって発生した、この空気の固定だけを肌で感じた澪は、自分は何かやらかしてしまったのではないかという小さな不安に苛まれて――恐る恐る口を開く。
「えっと……もしかして僕、何か悪いこと言っちゃってたり、します?」
「ぃ、いいえ、なんでもなくってよ――とにかくっ! コッチの問題は滞り無く片付いたから、澪が心配するようなことはもう何も無くってよ!」
「は、はいっ」
「もぅ……」
幾許か落ち着きを取り戻した利劫は、柔らかく微笑みながら改めて澪へと向き合う。
そうして澪の視線の先に存在している利劫の佇まいは、既に涼し気で些かの冷たさと鋭利さを兼ね揃えたモノに戻っていた。
「そのような理由でわたくしが直接を処理したのだから、奴らがこの場所に訪れることも難癖付けて絡んで来ることも無し。ましてや、澪――先の一件に関することで、貴方の身が危険に晒される心配も全く一切無くってよ」
「はぁ。それは、僕にとっても安心ですけど……」
「――なぁに? まだ澪には、心配事でも残っているのかしら――それとも、わたくしが奴らへ行った処理の詳細でも知りたくなった?」
「それは……っ」
反射的に口を開いた澪は、利劫の目を見て――息が詰まった。
そして、本能的に――悟った。
これ以上はあまり愉快な話にならないであろう、と。
澪がどうであるとか、利劫が昨日奴らに何を行っただとか――そのようなことは、此処ではない遠い何処かの地で発生した出来事のように感じられてしまうほどに……。
澪が不意に覗き込んでしまったのは、単なる利劫の瞳の内では無く。
澪が不用意に踏み込んでしまった処は、純粋に相手の領域であるだとかでは無く。
――只、ただ。
それ以上、澪には踏み込むことが出来なかったのである。
先程まで居た暖かな空間から、何の前触れも無く極寒の寒空の下に放り出されるかのような錯覚に澪は捕らわれた。
刹那にして、永劫――されど、それはすぐさま終わりを迎えた。
「ま、もう済んだことは結構よ」
そんな利劫の一言で、極限が霧散する。
樹霜が寒明の天日で溶け消える様に良く似ている。
その言葉に利劫は続けて、澪も現実に引き戻された。
「とにかく、初仕事ご苦労様」
「あっ、はい」
「わたくしが、先日澪に渡した電子端末は無くしてないかしら?」
「勿論です――返すために、ちゃんと持ってきましたよ」
「いえ、それは貴方に差し上げるわ」
利劫の潤むような艶を持った唇から告げられたサプライズに、澪は目を白黒させていた。
「えっ、でも……いいんですか……?」
「良いも何も、最初からそのつもりだったのよ。わたくしと連絡を取るにしろ、お給金を入れるにしろ無いと不便でしょう?」
何を今更、と――利劫は、今回の仕事に対する報酬が表示された端末画面へと目を遣り唖然とする澪へと告げる。
――目標へは遠くとも、数日前の澪では、例え天と地が取り替えられたとしても手にすることなど不可能であろう金額の桁。
時刻は未だ、暁紅の最中。
澪は、始まりゆく一日に身を置きながらも、徐々に変わりゆく感覚を享受していた。
それは――世界か、己か。
まだ、知れない。