第二話 根国より這い出ずる
――亜鍵澪は、孤児であった。
より正確に表現するのであれば、所謂ストリートチルドレンであった。
大人たちに見放されて、臭い物に蓋と言わんばかりに投げ捨てられた子供。
薄汚れた路上の片隅で、日夜糧を求めて地べたを這い回る数多の浮浪児の内の一人である。
そんな澪にも幼少時――物心付いた頃には親と呼べる者も確かに存在していた。掘っ立て小屋以下の襤褸であっても、その中で父と生活していたのだ。
しかしながら澪が父と呼んでいた男は、日課であるゴミ漁りの帰りに他の浮浪者から刃物で刺されて呆気無くこの世にお別れをすることとなってしまうであった。
客観的に観ればお涙頂戴の悲劇なのかもしれないけれど、子供のころの記憶とは曖昧で脆いものであり――現在、澪はそんな唯一の肉親の顔はおろか背格好すら思い出せずにいた。
そのような理由で、兎にも角にも早々に庇護者を失ってしまった澪であったが、当時も子供ながらにそのまま朽ち果てることを良しとはしなかった。
とは言え、力も後ろ盾も無い孤児が楽に生きて行けるほど世界は生ぬるくは無いもので、直ぐに現実と言う巨大な壁にぶち当たることとなったのだ。
まともに働こうと思っていても、学もコネも無い澪には当然の如く職など与えられなかった。
厳密に言えば、澪のような浮浪児は都市の中でも文字通り掃いて捨てるほど存在していたのである。
そんな環境から抜け出すための蓄財など、夢のまた夢――日々の糧を得ることすら困窮を極める。土埃の中でゴミを漁り、残飯を選り分ける毎日。
それ故に、世間一般において違法と呼称される犯罪行為に収まるのは、底辺の者としてはある意味で自然な形であったのかもしれない。
されど、そこまでして――見下され、蔑まれ、後ろ指さされてまで得られたものは、本当に微々たるものでしかなかった。
――残酷であるが、それも当然であろう。
澪のような者は腐るほど存在しているのだから、どうしても使い潰す人材として扱われることとなる。
特殊な知識も技術も無い。
武器無し、電子機器・サイバーも肉体に入っていない。
超能力開発にパワードスーツなどは以ての外。
あるのは一つ――貧相な身一つだけである。
故に、澪のような浮浪児が行える仕事など極々限られなものでしかなかった。
身体を、精神を、日夜摩耗し、遠く無い未来の内に朽ち果てる。
誰の記憶にも残らずに、路傍の塵となって土に還るだけの存在。
澪もまた世に蠢く他の低層民と同じく、そのようになるはずであった。
そう――はずであったのだ。
それは運命の悪戯と言うには些か陳腐で、神の思し召しと表現するには少しばかり大袈裟なものかもしれない。
いずれにせよ、澪が遭遇し自ら選択した分かれ道の先には、ただ無残に骸を晒すだけの未来とはことなるものであった。
*
『礼儀の知らない塵蟲に、己の身の程を分からせて差し上げて――無論、少々手荒な手段を用いても構わないわ。方法は貴方が全て自分で考えなさい、澪』
――利劫が澪に下した最初の命令は、そんな突拍子も無いものであった。
どうやらこのくすんだ裏路地の中、利劫の存在を面白くないと思う者が居る。
それだけならまだしも、最近は頻繁に浮浪者やチンピラを使った嫌がらせすらも行ってくる。
下手人は、この利劫が事務所という名の小屋を構える地区を我が物顔で闊歩する――正確には、彼らとしては幅を利かせているつもりになっているという――何処にでも居るような暴力を生業とした矮小な非合法営利団体。
現にこの場所は都市内においても下層も下層、最下層と言っても差し支えが無いような吹き溜まりである。
この程度のゴミ溜めでは、力の強い大きな組織など出張ってくるはずも無い。
それはコストの割に儲けが少ないためである。
よって、この程度の場所でしか粋がることのできないのだから、その規模もたかが知れている。構成員も両手の指を超えない程度の、極々しょぼい奴等だと言う。
そして利劫の存在はそんな彼らにとって、愉快なものではなかったらしい。
早い話――そんなチンケなヤクザモドキが肩で風を切る地区において、自分たちに挨拶はおろか上納金も無しに商売を切り盛りする小娘の存在など許されないとのこと。
吹き溜まりの中で、自分たちよりも弱い者を虐げることしかできない輩であっても、プライドだけは人一倍肥大化している。
利劫相手に凄みを利かせてはみたものの、当の彼女は何処吹く風――それが一層、彼等の自意識を傷付けたのかもしれない。
少しばかり金勘定が得意ということが取り得の小娘の一人。
その程度の認識しか持ち得なかった破落戸たちが、勇み足で利劫に迫った結果――待っていたのは大敗どころか、大の男たちが小娘相手に大恥を掻かされるというものであった。
冷静に考えてみれば、そのくらいすぐに判ることであろう。
このようなスラムにおいて、少女の身一つで生計を経てているのだからそれなり以上にできるということを。
この利劫と言う少女は、ただ美しく頭が回ると言うだけではなく――強力な超能力者でもあった。
男たちは指一本利劫に触れることができずに、そして彼女もまた能力を用いて男たちに指一つ触れずにあしらった。
利劫からすれば奴等の生死などに興味は無く、自身に強引に迫れば痛い目を見ることになるという警告を含めて、適当に片付けた作業に過ぎなかった。
されど利劫へと恭順と上納を促した破落戸たちにとって、それは腸が煮えくり返るほどの屈辱であり、事実として肉体的な被害以上の損害を彼らは被ることとなった。
裏社会の底辺であろうと、噂は光のような速度で知れ渡る。
華奢なガキ相手に良いようにあしらわれて、挙句の果てに手加減までされておめおめケツを捲ったという噂により、日頃底辺を相手に威張り散らしていた彼らは――煙たがられる存在から一変、笑いモノへと姿を変えた。
小さな者ほど、自尊心だけは一人前――屈辱に歯噛みするヤクザモドキであるが、暴力を用いた実力においては到底利劫に敵わないことを判らされた。
しかしこのまま黙っていては、地に堕ちた――と、思ってる――自分たちの言うことなど誰も聞かなくなる。つまりは、弱者を相手にしても威が通用しなくなってしまう。
そのような理由により座して黙るという手段は頭に無かった彼らは、ちまちまとした嫌がらせに精を出すことになる。
利劫の悪い噂を意図的に流したり、金を無心しにくる顧客を適度にリンチしたりと、利劫本人には関わらないようにしながら細々とした嫌がらせを続ける日々である。
――その程度の事しかできないから底止まりなどと言うことが判るはずも無く、破落戸は利劫が頭を垂れるまで続けるつもりであったのだろう。
それでも。
どんなに小さくとも、自分の顔の周りを飛び回る羽虫はうっとおしいもので――他所で飛行するならまだしも、神経を逆撫でするような状況が継続すれば、すぐに我慢の限界も来るということは自明の理であろう。
それ故に、利劫はもう一度だけ警告を行うことにした。
目を瞑ってやるから、自分にはもう関わるな――互いに一銭の得にもならぬことに意味は無い、と。
これは慈悲では無い。最後通牒である。
これ以上は見逃し無く、徹底的な殲滅すらも厭わない。
そうして、利劫の目の前に丁度――澪が現れたのであった。
結果はどうであれ構わない。利劫からすれば、これは一種のテストであろうか。この吹き溜まりの中で使える者を選り分ける――試金石。
仮に澪が失敗しても、利劫の懐は微塵も痛まないのだから。
それでも、澪にはこの命令を――初仕事を何としても、完遂させる必要がある。
一度掴んだチャンスを、絶対にモノにすると心に楔を打ち込んで――澪は、運命の岐路へと足を運ぶのだ。