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「さて、そろそろ一族の居場所はわかったか?」

 傷もすっかり癒え、仕事がひと段落したらしい。冷ややかな薄い笑みを浮かべた彼に、淡々と問われる。

 いつもなら、フッと逸らすのに。今日はひたすら見つめ続けてくる。その上、こちらが逃げないよう、しっかりと顎を押さえられてしまった。

 しかも、ソファに隣同士で腰かけた、至近距離で。

 星も月も見えない、夜空。それが、彼の瞳の中に、どこまでも広がっている。

(本当に、綺麗な瞳……)

 怖い人だと思っていた。けれど、それだけではない。人としての優しさも、きちんと持ち合わせている。

 ふわっと頼りなく心が浮かんで、夜空にスッと吸い込まれた。

 頭が芯からボーッとして、意識もぼんやりしてくる。

「……わかり、ます」

 気がついたら、そう答えていた。

 ハッと我に返ったが、一度音になってしまった言葉は、もう取り消せない。

「どこにある?」

 ひんやりした声音と、有無を言わさない瞳に。

 すうっと、覚悟が決まった。

「……エレディタの北にある、山です」

 城のどこかに、そこへつながる隠し通路がある。そう教えられてはいたが、隠し通路の場所は聞いたことがない。

 一族の者が山で暮らしていることは知っていても、正確な場所や、その暮らしぶりまではわからない。

 ただ、北にある山はひとつしかない。だから、しらみつぶしに探していけば、いずれは見つかるはずだ。

「あそこか……三日後、そこへ向かう。準備をしておけ」

「わ、私も、ですか?」

「同族のお前が行かなくてどうする」

「えっと、その、それはそうなんですが……」

 下手をすれば、その場でわかってしまうことが、怖い。

 黙っていたことを、強く責められるのでは。知ったとたん、命を奪われるしれない。一生、そばに置きながらいない者扱いをされるのかも。

 恐怖を感じる理由が、どこにあるのか。アリーチェ自身にも、よくわからなかった。


         ∮ 


 約束の朝。ヴィンセントが起き出す時間に、一緒に起こされた。彼が鍛錬をしている間に、身支度を調える。

 朝食を取り、馬に乗せられ、思い切りガタガタと揺すられながら。来る時は三日かかった行程を、半分ほどの時間で突っ走られた。

 目的の山に、どうにか着いた頃には。全身が強ばっていて、ゆらゆらとふらつく。馬から下りても、自力では立っていられない有様だ。

 馬をつないだヴィンセントに、体をしっかり支えられながら。アリーチェはぼんやりと山を見渡す。

 ゆったりと裾野が広がる、小柄な木々に覆われた低めの山だ。南西には深い森が、南東には大きめの湖がある。近くに街も見え、生活にはそれほど困らなさそうだ。

「見たところ、人が暮らしているとは思えんが……」

 目の前は山。辺りには森と湖。他には何もない。

 森の中か。それとも、ここからでは見えていない部分か。どちらにしても、落ち着いてじっくり探せば、そう手間取らずに見つかるだろう。

「ヴェルディアナ」

 不意に、かりそめの名を呼ばれた。

 決まってから、滅多に呼ばれなかった名だ。そのため、一瞬反応が遅れる。

「……アリーチェと、会えると思うか?」

 穏やかでやわらかい声音が、なぜか心にチクリと刺さった。

 知られたくないから、ひたすら隠してきたはずなのに。探している『アリーチェ』は自分だと、不意に叫んでしまいたい衝動に駆られる。

「……私には、わかりかねます」

 すんでのところで、ごまかす言葉が、どうにか喉からこぼれた。

「空を渡る月のように、人の出会いは揺らぐものですから」

 夜ごと形を変える月だから、毎日同じ形には会えない。次に巡ってきた時も、まったく同じ月ではない。同様に、その時限り、ただすれ違うだけの人もいる。

 かつて出会えた人と、また会えるかどうか。それは、誰にもわからないのだ。

 そう教えられた当時は、まだ意味を把握できていなかった。けれど今は、おぼろげながら理解できる。

「……っ!」

 大きく息を呑んで、ヴィンセントはアリーチェの両上腕をグッとつかむ。

 ずいぶんと力が入っていて、腕がキシキシときしむ。そんな気がするくらい、強い力だ。

「ヴィ、ヴィンセント様……?」

「……その言葉を、どこで誰から聞いた?」

「え……? あの、ずいぶん昔に、母から聞いた言葉ですが……」

 腕をキリキリと締めつけていた力が、フッとゆるんだ。

「では、お前の一族は、その言葉を、誰でも知っているのか?」

「さあ……私には、わかりかねます。何しろ、母以外、一族の者には会ったことがありませんから」

 きっと、無意識だろう。けれど、ひどく忌々しげにチッと舌打ちされたことに、無性に苛立ちを覚えた。

 知らず知らず、眉根をグッと寄せて、不愉快を出していたのか。

 露骨な不機嫌ではなく、凍りついた無表情の彼に、いきなり手首を力強くつかまれた。

「……探すぞ」

 グイグイ引っ張られて、フラフラとよろけるアリーチェには、まったく目もくれず。ヴィンセントはまず、森の周囲を眺めながら歩いていく。

 歩幅や速度の違いには、一切の考慮がない。

 アリーチェの瞳に近い色の森は、広範囲に広がっている。中へ入っていく道も、入れそうな場所も、見当たらない。それでも、崖で進めないところまで行って戻って、足が痛い程度の疲れで済んだ。

 振り返った湖には、向こう岸も含め、少なくとも『一族』という単位の人間が暮らしている雰囲気はない。

「あとは山か……」

 森と湖の間から、裾野へ向かう。

 人知れず住みやすいとの理由から、先に森側を回ることになった。

 なだらかな山裾が続いていたが、唐突にそれが消え去った。緑ではなく、茶色の地肌が露出している。

 さらに進むと、山肌の中に、穴がぽっかりと口を開けていた。

(ああ……)

 空いている左手で、こっそりと。指先の色がなくなるまで、額をグッと強く押さえる。

 取り立てて勘の鋭い者でなくとも、そこに何かあるとわかるだろう。そのくらい、あからさまだった。

 外からは、森が邪魔をしていて確認できない場所だ。

「ここ、だろうな」

 自分が『アリーチェ』と知られたら、どうなるのか。

 そればかりが気になって、小さく頷くことすら、今はする気になれない。

 薄水色のカートルの裾を、ジッと見つめて。アリーチェは引っ張られるまま、穴へと近づいていく。

 すぐ近くで立ってみると、穴は縦に長かった。横幅は、二人が並んでゆっくり通れる程度。縦は、ヴィンセントでも余裕を持ってくぐれそうだ。

「誰かいるか?」

 真っ暗な穴に顔を少し突っ込んだヴィンセントが、わずかに声を張り上げる。クワンクワンと、穴の中で彼の声が繰り返し響く。

「はーい」

 ヴィンセントの声が消える頃、中からいらえがあった。パタパタと駆けてくる、かすかな足音もする。

 ひょいと顔を出した少女に、思わず息を呑んだ。隣でも、やはり同様の音がした。

 白金色の、ふわふわと波打つ長い髪。暗緑色の瞳。年齢より、やや幼く見える顔立ち。髪の長さ以外、どれをとっても、自分と同じ特徴だ。アリーチェはそう思う。

 チラリとうかがい見た彼も、似たようなことを思ったのだろう。鋭い視線が、こちらを向いている。

「あらまあ! さあさあ、奥へどうぞー」

 のんきな声で、少女はヴィンセントをも招き入れた。そのまま先導し、明かりもないのにスタスタと歩いていく。

 白っぽくて、丈の長いチュニックを着た彼女を見失ったら。ここでしばらく、迷子になるかもしれない。

 そんな恐怖で、アリーチェはヴィンセントと並び、懸命に少女の背中を追いかける。

 一本道なのか、途中に分かれ道があったのか。それすらもわからないまま、明かりがこぼれている場所へと出た。

(燭台の、明かりだわ)

 そう気づいた瞬間、アリーチェは無意識に顔を下へ向ける。

「お帰りなさいませ、アリーチェ様」

 見えた者がいたのだろう。誰かがそう囁く。とたんに、他の者も口々に同じ言葉を囁き始めた。

 ザッと音を立てて、血の気が引いていく。

 あまりに恐ろしくて、上から降ってくる視線を、見上げる覚悟が決まらない。

「やっと、お戻りになられたのですね。ずっとお待ちしていたのですよ」

「長の仕事を教わるのは、いつからの予定ですか?」

「エレディタの次の王は、お決まりになりましたか? お決まりでしたら、次は誰を妃として向かわせるのでしょう? 難しければ、だいたいの年齢と、王太子の性格を教えていただければ、こちらでふさわしい者を選びますからご安心を」

 年かさの女性から、同年代まで。口々に言いたいことを言い放っているようだ。しかし、頭上からザクザク突き刺さる視線が気になり、それどころではない。

 ひとつひとつを、サラッと考える余裕すら、ないのに。

「あら、なかなかの男前ですね。こちらの方は、アリーチェ様の恋人ですか?」

 恐ろしい言葉を、容赦なく叩き落とされた。そんな心持ちになる。

 会った覚えもないのに、名前を知っていた彼だ。彼の生活を見る限り、少なくとも、色っぽい話ではないだろう。

 むしろ、ここを出たら切られる覚悟が、必要かもしれない。

「あまり見かけない髪の色ですね。どちらの方ですか?」

「その服は、どこの民族衣装ですか?」

「あらまあ、剣をお使いになるのですね。もしかして、アリーチェ様の騎士様ですか?」

 基本的にここで生活しているらしく、外のことは詳しく知らないようだ。そのためか、今、彼女たちの興味はヴィンセントに集中している。

「そうでしたの! そういえば、お服がアリーチェ様の瞳の色ですものね!」

「まるで、おとぎ話のようですわ!」

 納得して、うっとりしている様子だ。しかし、案内してくれた少女を見るに、彼女たちの瞳も恐らく暗緑色だろう。

 なぜ、自分の色と限定したのか。

 そこが理解できなかったのは、アリーチェだけではなかったらしい。ヴィンセントが怪訝そうに、ボソリと呟く。

「お前たちも、こいつと同じ目の色だろうが」

「え? いいえ。私たちは、外に長くいると、目の色が紫に変わります」

「そうですね……だいたい、半年もいれば、変わるでしょう」

「一度色が変わると、二度と戻りません。紫の目では、ここで生きていけないので、死ぬまで外で暮らすことになります」

「アリーチェ様のおそばにいらっしゃるなら、セレーネをご存じでしょう? あの子も、紫色の目になってから嫁ぎましたから」

 誰がしゃべるのか、特に決まっているわけではなさそうだ。けれど、順々に、よどみなく説明をしてくれる。

 ありがたいような、そうでないような。不思議な気分だった。

(だから、あの時……)

 入り口で出迎えた少女は、何も言わずに招き入れたのだ。外から来た、見知らぬ同族の瞳が、変わらず暗緑色だったから。

 そしてここで、蝋燭を使って確認した。そういうことだろう。

「では、こいつが長になることは決定事項なんだな? だが、お前たちはどういう一族なんだ?」

 ペラペラと答えてくれるからか。ヴィンセントはさらに質問を重ねる。

「アリーチェ様が次の長となることは、アリーチェ様がお生まれになった時点で決まっております」

「我々に関しては、アリーチェ様ももちろん知っていらっしゃいます。アリーチェ様にお尋ねください」

 一族が担うことに関しては、誰も彼も口が固いらしい。

 そこまで暴露されてしまうと、後が困る。そう思っていたアリーチェは、こっそりと安堵の息を吐く。

 人を救うためなら、どれだけ利用されてもかまわない。けれどもし、命を奪えと命令されたら。

 この命を賭して、断る所存だ。

「空を渡る月のように、人の出会いは揺らぐもの」

 突然呟いたヴィンセントに、アリーチェは重ねていた手をギュッと握る。爪がグッと皮膚に食い込んだが、痛みはまったく感じない。

「この言葉を、知っているか?」

「いいえ」

「初めて聞きましたね」

「どんな意味の言葉ですか?」

 母が教えてくれたから、てっきり一族も知っているのだと思い込んでいた。けれど、違っていたようだ。

「エレディタ王家に伝わる、人との接し方を説明した一部だ。月ですら、夜ごと姿を変える。再び巡ってくる時は、似て非なるもの。人との出会いは、月のようにそれっきりかもしれないから、常に心を込めてもてなしなさい。そういう教えだそうだ」

「まあ……とっても素敵ですね!」

「さすがはエレディタの王家ですわ」

「アリーチェ様はずっと、こんなに素敵な言葉に囲まれて暮らしていらしたのね!」

 誰もが大いにはしゃいでいる声音だが、決して近寄ってはこない。その上、アリーチェが修道院暮らしだったことも、彼女たちは知らないらしい。

「それにしても、エレディタにとてもお詳しいですけれど、あなたはアリーチェ様の夫君ですか?」

「……いや」

「では、婚約者でしょうか?」

「それも違うな」

 ことごとく、淡々と否定していくヴィンセントに。彼女たちは徐々に、胡乱な空気をかもし始める。

 歓迎していた雰囲気は、あっという間に一転した。

「……では、どういったご関係ですか?」

 彼の口から、いったいどんな言葉が飛び出すのか。

 ハラハラして、やけにドキドキして。鼓動と脈打つ音ばかりが、体中でグワングワンと鳴り響いて。

 すべての音が、ひどく遠い。

「これから、本気を出して全力で口説き落とすつもりだ」

 告げた本人以外、誰も予想していなかったからだろう。ワッとも、キャッともつかない、黄色い歓声が次々に上がった。

 重く息苦しかった空気は、あっさりと元へ戻った。しかし、アリーチェにとっては、むしろ悪化している。

(……え?)

 呆然と、視線を足元へ落としたまま。ヴィンセントが何を言ったのか、頭は一向に理解してくれない。

 アリーチェは、ただひたすら硬直するばかりだ。

「今まで散々だましてくれたツケも、しっかり払ってもらうからな」

 わざわざ顔を覗き込んで、囁かれた声に。二つの夜空との、距離の近さに。

 危うく、意識がフッと遠のくところだった。


         ∮ 


 長の引き継ぎに必要なことを残らず聞いてから、一族の隠れ里を出て、インシグネの離宮へ戻るまで。ヴィンセントは、見事な無表情と無言を貫き通した。

 道中は、必要最低限の会話すらない。

 そのくせ、アリーチェがさりげなく身を離すと、しばらく馬を片手操縦で押さえ込みにかかる。食事込みの休憩時間でも、用を足す以外の時間は、常にそばにいたがった。

 いつでもどこでも、どんな時でも。なぜかやたらと、密着しようとするのだ。

 馬を下り、グイグイ手を引かれながら離宮へ入る。

 玄関を閉めたとたん。

「……なぜ、最初に名乗らなかったんだ?」

 変わらず冷ややかな声音に、キュッと身がすくむ。

 首を縮め、ビクビクしつつも、アリーチェは必死になって声を出す。

「……こ、怖かったから、です」

 どうにか声をしぼり出せたら、続きは思ったよりすんなりと口を流れ出た。

「会ったこともないのに、名前を知っているし、外見の特徴が同じだなんて言われたら、誰かに語られて、知らない間に筋違いの恨みを買ったのでは、と考えてしまって……」

 おどおどしているアリーチェを、ヴィンセントは呆然と見下ろす。彼の表情には、あからさまな傷心の色が浮かんでいる。

「……会ったこともない、か」

 ひどく寂しげで、そこかしこに悲しみが込められた声。

「俺はずっと忘れられずに、探し続けていたのに……覚えていないのか?」

 切ない、という表現がぴったりの、沈んだ声音に。

 ひょいと覗き込んでくる、夜空色の瞳に。

 胸がギュッときつく締めつけられて、不思議と涙が込み上げてくる。

(そういえば、インシグネの人々は、はしばみ色の瞳だったわ)

 エレディタで見た軍人たちも。城内で見かけた使用人たちも。国王も。

 思い出せるインシグネ人は、誰も彼もはしばみ色の目だ。

「……髪は同じだが、目の色が他と違う。ただそれだけで、他人は口さがない。それが、跡継ぎの可能性が高い第一王子となれば……なおさらだ」

 努めて淡々と語る彼は、まるで迷子になった子供のように不安げで。

 不意に、頭の中で言葉が響く。

「……深い森に、迷い込んだみたい……?」

 こんな言葉を、いつ聞いたのか。アリーチェにはさっぱり覚えがない。

「何だ、覚えてるじゃないか」

 戸惑いと嬉しさが混ざった、複雑な声を見上げる。

「俺が昔、アリーチェに言った言葉だ」

「え……?」

「お前が、俺の目を、夜空みたいで綺麗だと……鏡を見たら、いつでも夜空が見られると言ってくれた、お礼のつもりだった」

「あ……」

 時々夢で見た、綺麗な瞳の男の子。けれど、どうしても、瞳の色どころか、顔も雰囲気も思い出せなかった。

 会ったのは恐らく、修道院へ行く少し前だろう。

 それから十一年も経っている。何も覚えていなかったから、ヴィンセントと会っても、まったくつながらなかった。

「エレディタの王城で、たった一度。隅の四阿(あずまや)で会ったきりだ。その後、何度か探しにエレディタへ訪れたが、会えなかった。だが、俺は忘れられなかった。アリーチェという名の娘を、手当たり次第に調べて、白金色の髪に暗緑色の瞳のアリーチェは、どこにもいないことを確かめた。それでも絶対に忘れたくなかったから、身の回りにあるものを、暗緑色に統一もしたんだ」

 真摯な光を宿す、二つの夜空。そこには、キラキラと輝く星が見える。けれど、当時会ったはずの少年は、一向に浮かんでこない。

 代わりに、目の前に広がる夜空に、すうっと何もかも、吸い込まれてしまいそうで。

「国では嫌われているこの目を、アリーチェは綺麗だと言ってくれた」

「……こんなに、綺麗なのに……まだ、違うと言われるの?」

 熱に浮かされたように、ぼんやりと。アリーチェは、心に思い浮かぶまま、ぽそりと言葉をつむぐ。

「そう言ってくれたのは、アリーチェだけだ」

「珍しい色というだけで、人は覚えてくれるわ。その上、夜空が見える瞳だなんて、きっと、忘れてもすぐに思い出すと思うの。私だって、あなたの目の色さえ忘れていたけれど、ちゃんと思い出したわ」

 自慢げに胸を張ったアリーチェに、ヴィンセントはプッと小さく噴き出した。

「俺ばかり忘れられないでいたのは、やはり不公平だな」

「でも、あなたに会った前日、夢で見たわ」

 今だからわかる。あれは多分、予兆だったのだ。

 仏頂面から、はにかんだ微笑みを浮かべるヴィンセントの胸に。アリーチェは、そっと自身の手を当てる。

 トクトクと、かなり速い鼓動が刻まれていた。

「──っ!」

 驚いたのか、動揺したのか。ヴィンセントが思わず身を引く。しかしアリーチェはかまわずに、鼓動を感じる辺りを繰り返し、ゆっくりとなでる。

「……心の傷に効く薬が、あったらいいのに」

 これまで読んだどの本にも、そんなものは載っていなかった。

 体の傷は治せても。体を冒す病は押し止められても。泣いて血を流す心は、どうにもできない。

「……だったら、アリーチェが俺のそばにいて、ずっと癒やし続けてくれ」

「え? いくら何でも、そんな薬は持っていませんよ?」

「お前がそばにいてくれたら、俺は薬なんて何もいらない」

「えっと……私は人間ですから、薬効は……」

 不意をつくように、ヴィンセントがアリーチェの目を覗き込む。

 急にクラッとして。ハッと気がついたら、彼に体をしっかりとつかまれていた。

 接した部分から、どんどん熱が伝わってくる。じわじわと全身に広がる熱は、だんだん顔にも上ってきて。

「アリーチェがいるだけで、いいんだ。お前の他には、何も望まない」

 ヴィンセントはやんわりと、けれど確信的に。アリーチェの耳元へ、この上なく熱っぽい囁きを堂々と落とした。

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