二
インシグネへ入ると、景色は一変した。
エレディタは、森や林が多く、代わり映えしない風景ばかりだった。けれど、インシグネは、切り開かれた平野が、どこまでも広がっている。
ところどころに果樹や畑が見えるが、基本的に見晴らしがいい。
これまで、修道院という狭い世界しか知らなかった。アリーチェはキョロキョロと見回し、見慣れないものにキラキラと目を輝かせる。
街へ入れば、ザワザワと騒がしい。客を呼び込む声、交渉、雑談。いろいろな音で、活気にあふれていた。
何もかもが新鮮で、刺激的だ。
(インシグネは、こんなにも大きな国なのね)
対するエレディタは、どうなのだろうか。
出歩いたことのないアリーチェには、すぐさま比べられない。けれど、国の規模を思えば、これほどの賑わいはないだろう。
せっかくの大きな街だったのに。食料の補給目的で寄ったらしく、最後まで下馬させてはもらえなかった。
「あと一日もあれば、城に着く」
そう告げられた街の出口から、ほぼ丸一日。
馬に乗せられて着いた先は、エレディタの王城が二つは確実に、すっぽり入ってしまいそうな広大な敷地だった。そのうちの半分近くを、青い屋根の真っ白な城が占めている。大きな門には門番が四人いて、出入りする人間を厳重に見張っているようだ。
「お帰りなさいませ!」
一斉に敬礼されて、青年は無言で門を通り抜ける。同乗者のアリーチェには、彼らは目もくれない。
城のそばまでやってくると、青年は馬からヒラリと飛び下りた。下から腕を伸ばし、アリーチェを軽々と持ち上げて下ろす。
とたんに、腕をつかまれた。
「馬をつないでおけ」
手綱を近くにいた軍人に押しつけ、青年はアリーチェをグイッと引っ張って城内へ入る。
綺麗な絵画に、色とりどりの花が生けられた花瓶。ふかふかの絨毯が、廊下という廊下に敷き詰められている。行き交う人々も使用人も、身だしなみには、隅々まで気を遣っているようだ。
ただでさえ、おとぎ話に出てきそうな外観だったのに。中まで、おとぎ話の城のような、華やかな印象を受ける。
青年が手を引っ張るアリーチェが、よほど珍しいのか。すれ違う人がことごとく、まじまじと見つめてみたり、振り返ったりしていた。
やがて、青年は足を止めた。ドアの前には、武器を持った番兵がいる。
「ヴィンセント様、ご入室です」
高らかに告げた番兵が、両開きのドアをゆっくりと開け放った。
赤い絨毯が、入り口から奥まで続いている。正面には、立派な椅子に深く腰かける人が見えた。
入室をためらい、まごまごするアリーチェには気づかず。彼は、これまでの歩調を変えずに歩いていく。引っ張られたアリーチェは、ヨロヨロとついていく格好になる。
「陛下、ただいま戻りました」
「ご苦労だったな。ところで、その娘は誰だ? エレディタの王女は、紫の瞳だったはずだが」
王は、四十半ばから五十といったところか。他者を冷やす厳粛な雰囲気が、どことなくヴィンセントを連想させた。
ジッと顔を見つめられ、アリーチェはヴィンセントの背中にそっと隠れる。
「事情があり、王女と公表されていない、第二妃の娘だそうです。城に踏み込んだ時点で、すでにこの娘以外、命を絶っておりました」
それは、まぎれもない事実なのだろう。
けれど、こうして改めて聞かされると、頭がクラクラしてくる。全身がグラグラして、目の前がフッと暗くなりそうで。
「これを、正当なエレディタの王女として、王太子妃の一人とするもよし。玉座に立たせ、傀儡にするもよいでしょう」
「お前がいらなければ、傀儡にでもするか」
「了解しました。しばらく様子を見ますので、生き残りであることは口外なさらぬよう、くれぐれもお願いいたします」
軽く頭を下げたヴィンセントは、アリーチェの腕を引いて踵を返した。部屋を出て、またどこかへ歩いていく。
今、問いかけることは許さない。彼の背中は、そう語っている。
一旦、城の外に出た。芝が敷き詰められた中を、城の裏手へ向かって進む。すると、暗緑色の屋根をかぶった、外壁の白い建物が見えてきた。
その建物に近づくにつれて、行き交う人は減っていく。着いた頃には、辺りに人の気配すらしなかった。
「……あの、ここは?」
「俺が使っている離宮だ。他の人間は、滅多なことではここには来ない」
離宮をひとつ、丸々使えるなんて。
驚いたアリーチェが、恐る恐る見上げると。ヴィンセントは、相変わらず冷ややかに見下ろしてきた。
「中に入れ。話はそれからだ」
王城は華やかで、きらびやかだった。けれどこの離宮には、絵も花もない。動きやすさと機能性が重視されている。そんな印象だ。
「来客はまずないが、一応ここが応接間だ」
右側のドアを指指されたが、開けて見せてくれるわけではない。
ヴィンセントは時折足を止め、ひと言でどんな部屋か紹介していく。
食堂や厨房もあるが、見たところ、ほとんど使われていないようだ。湯殿の場所、ヴィンセントの私室を経て、行き止まりにある部屋の前で、彼はピタッと足を止めた。
「お前はここを使え。といっても、掃除が必要だろうがな」
彼の言い方から察するに、長らく使ってない部屋らしい。
「だがその前に、聞きたいことがある。こっちへ来い」
腕を引っ張られ、来た道を戻る。立ち止まったのは、ヴィンセントの私室と言われたドアの前だ。
開いたドアの隙間から、部屋の中に放り込まれる。すぐにヴィンセントがスルリと入り込んできて、カチャ、とドアが閉まった。
目が合うと怖いから、彼に背中を向けたままだ。
「お前の言う、母親の一族とやらに、お前と同じ髪色と目の色をした娘はいるか? 名前はアリーチェだ」
心臓が、ぴょこんと飛び跳ねた。ドクドクと、激しく脈打ち始める。ジーンと痺れるような耳鳴りがして、頭はクラクラしてフラフラ揺れて。
「……さあ」
どうにか声が出た。
会った覚えは、これっぽっちもない。しかし、ひょっとすると、人違いや偽名の末に、筋違いな恨みをもたれているのかもしれない。
あれほど冷ややかな目を向ける人だ。命の危険も、あるかもしれない。
アリーチェという名であることだけは、今は絶対に知られたくなかった。
必死になって、平静を装う。
「何しろ、ずっと修道院暮らしでしたから。母の一族も、後を継ぐことは決まっていますが、一度もそこへ行ったことはありません」
「そうか……」
なぜか、ひどく残念そうに。寂しげに、彼はため息をこぼす。
「そういえば、お前の名は何という?」
「お好きなように、お呼びください」
下手な名前を名乗るより、彼に決めさせた方がいい。うっかり偽名を忘れる可能性も、決してなくはないからだ。
「ふむ……エレディタでは、どんな名が多い?」
「そうですね……修道院では、アメリア、エルダ、ビアンカ、ドーラ……ああ、ルーチェもいましたね。あとは、ヴェルディアナに……」
修道院で聞いたことのある名前を、指折り、片っ端から挙げていく。
背中側から追い抜いた彼は、聞きながらソファにドサリと腰かける。
それほど言わないうちから、音を上げたようだ。彼は軽い手振りで止めるよう、アリーチェに指示を出した。
「もういい。ヴェルディアナと呼ぶ。それでいいな?」
「はい、かまいません」
元とは似ても似つかない名前で、かえってわかりやすいだろう。
恐らく、王に連なる者の、ほとんどがいなくなってしまった。これから、エレディタはどうなるのか。
薬草や毒草をよく知り、さまざまな薬を調合できる。そんな特殊な技能を持つゆえに、王家が庇護していた母の一族。
どちらの未来も、自分にかかっている。
できれば、どうにかして、両方守りたい。無理なら、せめて母の一族だけでも。
「ところで、第二妃の一族には、どこに行けば会える?」
唐突な問いかけに、アリーチェは黙りを決め込む。
じっとりと見つめてくる夜空色の瞳に、体ごとふわりと吸い込まれそうで。ふと、口が勝手に開きそうになった。
強引に口を閉じて、さりげなく目を逸らす。それでも、彼からの視線がチクチクと肌に刺さる。
「アリーチェを見つけたら、お前は自由にしてやる。父のうちは傀儡だろうが、王女として王位に就けてもいい」
どちらを選んでも、正直なところ、八方ふさがりだ。とはいえ、自分がアリーチェと知られなければ、しばらくはやり過ごせるのでは。
のんきに、そんなことを考えていたアリーチェだったが。
「だがまずは、一族とやらが暮らす場所を調べろ。そこにアリーチェがいないか、俺が直接聞きに行く」
「えぇっ!?」
思わず叫んでしまってから、あたふたと取り繕う言葉を探す。
何しろ、一族の人間であれば、次の長の見分け方はもちろん、アリーチェが跡継ぎの名だと知っている。
彼単独で聞きに行ったとして、アリーチェが跡継ぎと知らされてしまう。一緒に行けば、遅くとも夜には、自分が誰かわかるはずだ。
「一族以外は、入れないかもしれませんが……」
「その時は、誰かが出てきてくれればいいだろう? とにかく調べて、わかり次第報告に来い」
絶対に、譲るつもりはない。
そう語る、星のない夜空に。アリーチェは不承不承、頷くしかなかった。
∮
下働きが持ってきた食事を、食堂で取る。食器は、外に出しておけば回収してくれるらしい。シーツやリネンも、毎日新しいものが届けられる。使用済みのものは、すべて玄関の外に置けばいい。
当初は着替えをどうするかで困惑もあったが、彼はすぐに手配してくれた。令嬢の着るドレスではなく、庶民用のごくありふれたカートルばかりだ。
これまでまったく縁のなかった格好に、少しずつ慣れてきた頃。彼がどんな一日を過ごしているか、何となく把握できるようになってきた。
毎朝、ヴィンセントは起きると鍛錬を行う。朝食を取ったら、領地の視察などで忙しく動き回り、夕方に一度帰ってきて食事をする。その後は、部屋にこもって机仕事をしているらしい。軽い食事を済ませて、汗を流したら寝ているようだ。
彼とまともに顔を合わせるのは、朝食と夕方くらいだった。
他に人のいない生活は案外楽で、息苦しさもない。けれど、やることもあまりにない。おかげでアリーチェは、常に退屈を持て余していた。
ある日、夕方に帰ってきたヴィンセントの手の甲に、スッと流れる切り傷ができていた。まだ新しいようで、血がようやく乾いたところだ。
「そのケガは、どうされたのですか?」
「矢がかすめただけだ。毒矢でなければ問題はない」
「……手当てを、しますね」
修道院にいた頃の習性か。はたまた、生来の気質か。ケガを見ると、どんな相手であれ、放っておけない。
「いらん」
苛立ったような声を、背中で聞く。
無視して部屋に戻り、傷薬と包帯を取ってくる。ついでに、水がしたたらない程度に濡らしたリネンも、きちんと持参してきた。
食事を終えたヴィンセントの手を、半ば強引につかまえる。痛くないよう、そっとリネンで傷を拭い、薬を薄く塗った。手やものがうっかり触らないよう、包帯を数回巻き、傷を避けてキュッと結ぶ。
「できれば、薬が流れるたびに、つけてもらえるとありがたいのですけれど……」
「……それをもらってもいいか?」
ずっと無言だった彼が、塗り薬を入れた小さな薬壺を指す。
「俺が湯を使う頃には、寝ているようだからな。いちいち起こすのは忍びない」
「お気遣いなく。急なケガ人や病人で、いきなり起こされることには慣れていますから」
「ここは修道院じゃない。俺のことで、お前が起きる必要はないと言っているんだ」
声音は冷ややかだし、言い方もつっけんどんだ。しかし、言っている内容は、こちらを気遣うことばかり。
たとえそれが、彼が『アリーチェ』に会いたい一心からだとしても。嬉しくて、ありがたいと思ってしまう。
「色が変わるこの目を、あなたは何も言いませんでした。ですから、少しでもお役に立ちたいのです」
本心からの言葉だ。
修道院では、隠せないから隠さなかった。表面上は当たり障りなく接してくれても、本音はわからない。
夜中に運び込まれたケガ人や病人には、化け物呼ばわりされたこともある。
奇異な目で、見られないだけで。ごく普通の人間として、当たり前に接してくれるだけで。もう十分だ。
「……お前は、俺の目をどう思う?」
不意をつく問いかけに、アリーチェは首を少し傾けた。
「星も月もない、真っ暗な夜空みたいで、すごく綺麗ですよね」
──でも時々、吸い込まれそうで、ちょっと怖くなります。
ひどく驚いた顔で、バッと勢いよく見上げてくる。
彼の驚きように、かえって驚かされて。続けるつもりだった言葉が、ヒュッと引っ込んでしまう。
「あの……私、何かおかしなことを言いましたか?」
「……いや、そうじゃなくて……」
ゆるゆると顔を伏せた彼は黙り込んで、真新しい包帯をジッと凝視している。
どうにも、沈黙がいたたまれなくなって。
「えっと、あの……これ、片づけてきますね」
薬壺と濡れたリネンを手に取ったアリーチェの腕を、ヴィンセントが強引につかんで引き止める。
「……湯を浴びたら、薬をもらいに行ってもいいか?」
「は、はい。いつでもお越しください」
「……ありがとう」
穏やかに、やわらかく、かすかに微笑んだ彼に。心に矢を何本か撃ち込まれたような、奇妙な痛みと息苦しさを味わった。
∮
翌日の朝食から、ヴィンセントの様子がおかしくなった。
これまでは、朝食を終えるとすぐさま、視察に出ていっていたのに。今日は少し、ゆっくりしている。
それも、食堂からアリーチェを従えて、彼の部屋へ移動した後で、だ。
彼が何をしたいのか。アリーチェにはさっぱり理解できない。けれど、理由を問うことも、彼の雰囲気に圧されてできないでいた。
「ヴェルディアナ」
決めてから初めて、呼ばれた気がする。そのせいか、反応が遅れてしまう。
「そんなところに突っ立ってないで、座れ」
返事がないことは気にしないらしい。何をするわけでもなく、ソファに腰かけている彼が、なぜか右隣をポンポンと軽く叩く。
(……まさか、隣に座れと言うの?)
ただでさえ、吸い込まれそうな瞳が、綺麗だけれど怖いのだ。
あの目に、至近距離でジッと見つめられたら。隠していることを、そっくり残らず打ち明けてしまいたい衝動に駆られそうだった。
動かずにいるアリーチェに、しびれを切らしたのか。ヴィンセントはすっくと立ち上がると、アリーチェへスタスタと歩み寄る。
「世話のやけるやつだな」
いつものように、やや強引に、腕を引っ張られるのだと思っていた。
体がふわっと浮かんで、視界がグルッと回ってようやく、何かが違うと気づく。
「あ、あのっ!」
立っている時より。腕を引っ張られている時より。
彼の顔が、ずっと近い。
「ずいぶんと軽いな。昼や夜はしっかり食べているのか?」
景色が動くたびに、体にトントンと振動が伝わってくる。
膝の裏と背中から脇にかけて、じわじわとぬくもりが広がっていく。
元いた位置へ戻ったヴィンセントは、アリーチェを抱きかかえた格好のまま、ドサリと腰かける。当然、アリーチェは彼の膝の上だ。
「あ、あのっ……お、下ろして、くださいっ……!」
「断る」
あたふたしながら懸命に、声に出して頼んでみたものの。彼のすげないひと言で、あっさりと切り捨てられてしまった。
∮
それから何日かは、理由もわからないまま、さらに翻弄され続けた。
朝でも昼でも夜でも。彼は目をジッと見つめて、笑っているとわかる表情で、熱心に話しかけてくる。かと思うといきなり、仏頂面でぶっきらぼうな物言いをされるのだ。
笑っていた次の瞬間、急に表情がなくなったりする。機嫌の良し悪しだけでは、どうしたって理由にならない。
「……もう少しで、綺麗に治りそうですね」
ここ最近のヴィンセントを警戒し、ややビクビクしている。手の甲の矢傷に薬を塗りつつ、アリーチェは何気なく呟く。
最初はわずかにえぐれていたが、今はそれほどでもない。傷に引きつれた様子はなく、恐らく跡もほとんど残らないだろう。
「お前がいい薬を持っていて助かった」
手放しで褒めてくれるから、今は少しおかしな方だ。それがわかって、アリーチェは警戒を解けないでいる。
温かみのある表情から、突然氷点下に落とすくらいなら。一日中仏頂面をしていて欲しいと、ついつい思ってしまう。
「……深い森のような色もいいが、暗い影のある赤も悪くないな」
ごくたまに、こんなことを言い出したりもする。
唐突な言葉の意味が理解できずに。アリーチェはパチパチと瞬きながら、ほんの少しだけ首を右に傾けた。
言いたいことはわからないけれど、声の温度ははっきり感じられる。だから、やけに鼓動が速くなったり、心臓がキュッと縮み上がりそうになったり。
やたらと忙しくて、嫌になる。
「これから机仕事があるから、呼ぶまで絶対に顔を出すな」
「は、はい……わかりました」
一気に、彼の声の温度が下がった。まとう空気も、あからさまに違っている。
返事をして、アリーチェはあたふたと部屋を辞した。
(……本当に、心臓に悪い方だわ)
廊下を歩いて、自分の部屋に入る。
初日は、ベッドを整えただけ。翌日から、服を用意してもらったので、しまう場所の掃除を。それから毎日、時間はたっぷりあったから、あっという間に部屋は綺麗になった。
使わない部屋と、彼の部屋は掃除をしなくていい。そう言われているから、今でも退屈を持て余している。
(今は、忙しくて『アリーチェ』にかまう暇がないようだけど)
いずれは知られてしまうことを、早めに覚悟しなければならない。
彼が事実を知った時、どう出るのか。
それが、どうにもわからなくて。後から後から湧き上がる不安を、どうしても拭いきれなかった。