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 久しぶりに、懐かしい夢を見た。

 そう思いながら目覚めたアリーチェは、勢いをつけて上半身を起こす。両手を天井に突き上げ、軽くのびをする。

 古いベッドは、キシキシと小さく耳障りな音を立てた。

(まだ、五歳くらいだったかしら)

 生まれて初めて会った、まったく知らない異性だ。

 色は忘れてしまったが、とても綺麗な目だったことは、はっきりと覚えている。

 あの日以後は、身内ですら、異性と顔を合わせていない。いや、家族の顔さえ、まともに見ていなかった。

 くしを取り、肩に触れない長さに切りそろえた髪をすく。細い白金色の髪は、ふわふわとやわらかくうねる。

 リネンを水で濡らし、キュッとしぼって顔を拭く。

 夜着を脱ぎ捨て、壁にかけてあった真っ白な胴衣(ダルマティカ)を手に取った。ゆったりした長袖で、裾は足の甲に触れる長さでゆるやかに広がっている。その上から、大きな円形の布の中央に穴を開けただけの、白い外套(グロッケ)をまとう。さらに、半円形の白色の布で、髪を綺麗に覆い隠す。仕上げに、固く糊づけした白い布で、頭布(ウィンプル)をギュッと押さえた。

 エレディタには、いくつか修道院がある。その中でも、王城の裏にある山と接するここは、女性限定の修道院だ。出入りする者も、急な病気やケガで頼ってくる場合を除き、女性に限られている。

 幼い頃からいるのに、いつかはここを出ていく。そんなアリーチェは、非常に珍しい部類だろう。出ていく者は嫁入り前の修行、と相場が決まっているからだ。

 けれど、誰も、ここにいる理由は聞かない。互いに知っているのは、名前とだいたいの年齢。それだけわかっていれば、ここでは十分生活していける。

 アリーチェは部屋に唯一ある窓を向く。それから、両手をそっと胸の前で組み合わせる。軽く頭を下げて、静かに祈りを捧げた。

 祈りを捧げている間は、すべての人々の、今日の無病息災を願っている。

 そうしてもう、十一年もここで生活してきた。決まった時間に、息をするのと変わりなく、気がつけば祈ってしまう。

 聖堂へ向かって祈った後、アリーチェは部屋の外へ出た。

 ベッドと小さなクローゼットに、手紙や日記が書ける程度の、ちょっとした机。身だしなみを確認する姿見と、聖堂が見える窓が一つ。他には何もない。

 そんな部屋が、ズラリと並ぶ廊下を歩く。

 上りと下りのある踊り場から、下へ向かう。

 一階は年長者が住んでいる。三階は、花嫁修業や、入ったばかりの者が暮らす。アリーチェは年長者ではないし、新米でもない。だから二階に部屋がある。

 トントン、と軽快に階段を下りて、住居から外へ出た。

「アリーチェ」

 いきなり呼び止められ、アリーチェはこてんと首を傾げる。

 聞き慣れた声ではない。

 警戒を含めてゆっくり振り返ると、アリーチェはわずかに顔を強ばらせた。

 白金色の、やわらかな長い髪。紫色の瞳の女性が、ゆったりと立っている。無表情な女性の顔立ちは、アリーチェにそっくりだ。

「おか……いえ、セレーネ様。何かご用ですか?」

「飲めばたちどころに、苦しまずに死ねる薬を。大人二人分、十三と十の子供が飲む分が欲しいの」

「……わかりました。少しお待ちください」

 そのまま踵を返し、アリーチェは自室へ戻る。クローゼットの下に置かれた箱から、一つを取り出す。そこから薄い紙の包みを四つ、手に握りしめて部屋を出た。

「こちらです」

 外で待っていたセレーネの手のひらに。包みを四つ、しっかりと押しつける。

 お礼もなく、彼女はふらりと歩いていく。向かっているのは、聖堂だ。

(そういえば、城の抜け道が、聖堂につながっているのよね?)

 まともな道を行けば、城まで丸一日がかり。地下を通れば、それほど時間がかからずに来られるはずだ。

 昔、何度か見た地図。それを、アリーチェは頭の中でぼんやりと描いた。


         ∮ 


 十一年も音沙汰のなかったセレーネが、わざわざ来た理由が。しかも、死ぬための薬を欲しがったわけが、どうしても知りたくなって。アリーチェは翌朝、聖堂の隠し通路から城へ向かった。

 聖堂の、唯一神ウルソの像が立つ祭壇。そこが、隠し通路の入り口だ。手のひらをグッと押し当てて、ほんの少し右にずらす。そのまま、左にグイッと押し込むと、ガタンと音を立てて板が外れる。

 ぽっかりと口を開けた穴。アリーチェは四つん這いになり、そこに迷わず入り込む。

 中は真っ暗だった。差し込む明かりはもちろん、燭台すら置いていない。仕方なく、アリーチェは壁に手を触れ、先を確かめながら進んだ。

 足元はこれっぽっちも見えないが、出入りする者がいないからか。取り立てて何か落ちていることもなく、ひたすら突き進んでいける。

 逃げ道になっているから。もしかすると、枝分かれしているかもしれない。そう考えていたアリーチェを裏切る、見事に真っ直ぐな一本道だった。

(……出口は確か、城の聖堂だったわ)

 修道院と同じで、祭壇から出入りするはず。

 突き当たった壁に手のひらを強く押し当てて、左に少し動かす。それから右へ滑らせると、やはり板はガタンと鳴って倒れていく。

 ゴソゴソと這い出たところで、目の前に人の足があることに気づいた。

 おどおどしながら、そろりと見上げれば。暗緑色の軍服をまとう青年が、ジッと見下ろしていた。

 ひんやりした、無表情。彼の鋭い視線は、浴び続けたら命を奪われそうな冷たさだ。

 夜空のような瞳が、冷ややかさに拍車をかけている。

「お前はどこから来た?」

「……あ、あの……山向こうの、修道院で、す……」

「確かに、格好は修道女だな」

 たった今、いくらか汚れてはしまったが。アリーチェの装いは、真っ白な胴衣と外套に、髪を覆い隠す頭布だ。誰であれ、見間違えることはさすがにないだろう。

 彼は無言で、アリーチェを穴から引っ張り出した。そうして、穴を覗き込んでいる。

「他にも、こういった通路を知っているか?」

 じっとりと、夜色の瞳に見つめられる。冷え冷えとしているのに、体の芯がじわりと温かくなっていく。

 そのぬくもりが体中に広がって。記憶の底に押し込めていた情報を、スルリと引き出してしまう。

「隠し通路はここしかわかりませんが……確か、隠し部屋があったはずです」

「どこだ? 場所がわかるなら案内しろ」

「えっと……何分、昔の話なので、間違っているかもしれませんが……地下牢のどこかに、隠し部屋への入り口があったと思います」

 たどたどしく答えるアリーチェに、彼は目をすがめる。

「ならば、お前も来い」

「え……? あの、私も、ですか?」

「当たり前だろう? 修道女とはいえ、隠し通路から出てきたんだ。しかも、隠し部屋のことも知っているとなれば、尋問しない理由はないからな」

 うっかり、迂闊なことを教えてしまった。

 そんな後悔でいっぱいになっているアリーチェには、まったく目もくれない。彼はアリーチェの腕をつかみ、強引に引っ張る。当然、歩幅の違いなど考慮してくれない。

 グイグイ引っ張られて、とうとう足がもつれた。勢いもあり、アリーチェは彼の背中に思い切り頭突きを食らわせてしまう。

 額と鼻にズキズキと痛みを感じるが、それどころではない。

「ご、ごめんなさい!」

 冷ややかな視線を感じて。足を止めた彼に、アリーチェは必死に謝る。

「……もしかして、速かったか?」

「え……?」

 予想外の言葉に、アリーチェはついつい彼を見上げた。ふいっと視線を逸らされる。

「……悪かった」

 何もかもを、残らず凍りつかせそうな目をするのに。実は意外と素直で、きちんと気遣える人なのだろうか。

 もし、そうだとしたら。見た目の印象とは、ずいぶん違う。

 再び歩き出した彼の歩調は、心持ちゆっくりで、転ぶ心配はない程度に遅くなった。

 場所がわかっているのか。一切迷うことなく、彼は城の中をぐんぐん突き進んでいく。

 アリーチェの記憶にある城と、あまり変わっていなかった。ただ、どこを見ても、使用人は一人もいない。いるのは、彼と同じ形で黒色の軍服をまとう、金茶色の髪の男たちばかりだ。

(……どこの人かしら?)

 外界から隔絶された修道院暮らしゆえに。この国の人間ではないとわかっても、どこの国から来たのかはさっぱりだった。

 絶対に知りたい欲求はない。何より、手を引っ張っている彼に尋ねるのは、恐ろしくて無理だ。

 無言で歩く彼を、他の軍人たちはスッと避けて敬礼をする。ただし、大半が、露骨に顔をしかめていた。

(……この人は、どういう立場なの?)

 敬礼をされるのだから、相当の地位があるはず。それなのになぜ、あんなに顔をしかめられるのか。

 浮かぶ疑問を問うこともできず。アリーチェは、地下牢へと連れてこられた。

「開いているな」

 彼は静かにドアを開け、一段ずつ確かめながら階段を下りていく。

 地下の空気はほのかにかび臭い。しかも、肌にじっとりとまとわりつく。あまり空気を吸いたくなくて、自然とアリーチェの呼吸は浅くなる。

(……誰か隠れているかもしれないと、警戒しているのかしら? それとも、階段が抜け落ちると考えているの?)

 じれったいほど慎重に、彼は階段を下りきった。暗い地下牢の中を、一歩一歩、じっくりと歩みを進める。

「……燭台を取ってくる。ここで待っていろ。もし逃げたら、地の果てでも追いかけて探し出してやるからな」

「わかりました」

 暗くて嫌気がさしたのだろう。一度戻って燭台を取ってきた彼は、再びアリーチェの手をつかんで奥へ向かう。

 アリーチェは、できるだけ燭台に照らされないよう、周囲を見る振りをしながら歩く。

 牢の一つ一つを、燭台で照らして確かめる。どこにも異常はないまま、突き当たってしまう。だが、右手側の牢だけ、ほんの少し開いていた。

「ここか」

 ボソリと呟き、彼はアリーチェの手を離す。牢の扉を開け放って、またアリーチェの手をつかむ。

 中に入って燭台で照らすと、右隅に黒い穴がぽっかり口を開けている。

 長めの階段を下りた先は、修道院の個室よりは広い程度の、小さな部屋だった。そこに、女性が二人、少女と男の子が仲良く転がっている。

 女性の片方と少女は、アリーチェと同じ色の髪だ。残る女性と男の子は、栗の実に似た髪色だった。

「服毒したか」

 彼が、ボソリと呟く。

 少女にも、男の子にも、覚えがない。

 だが、同じ髪色の女性は、すぐに誰だかわかった。

「……お、母様……」

 知らず知らず、呟いて。

 フッと、目の前が真っ暗になった。


         ∮ 


 目が開いて、アリーチェはバッと飛び起きる。

 意識が覚める直前に、ひどく嫌な夢を見たような。全身が汗でじっとり湿っていて、不快で重苦しい気分だ。

 額をグッと拭うと、しっとりと湿っている髪に触れた。どうやら、頭布は外されてしまったらしい。

 深呼吸を繰り返して落ち着くと、アリーチェは周囲をキョロキョロと見回した。

 枯れ草色の布に囲まれた場所だ。床ではなく、むき出しの地面。隅に、アリーチェが乗っている、天蓋も柵もない、簡素なベッドが置かれているだけ。

 他には何もない。

(ここは……?)

 右に左に首を傾げていたら、バサリと布が動く音がした。

 少々強引に、首をグッとひねってそちらを見れば。暗緑色の軍服を着た青年が、ちょうど入ってくるところだった。

「目が覚めたか?」

「あの……ここは?」

「いきなり気を失ったから、ここへ運び込んだ。治療用の天幕だ」

「そう、ですか……ご迷惑をおかけしました」

 いったい、何がどうなっているのか。

 セレーネが毒を欲しがった理由も、なぜ幼い子供にまで使ったのかも。アリーチェにはさっぱりわからない。

 そもそも、子供たちともう一人の女性は誰なのか。疑問はそこから始まっている。

「あの場に母親がいたのか?」

 悲痛さも、憐憫もない。淡々と事実を確認するだけの声が、今は非常にありがたい。

「はい」

 視線を泳がせることも、顔を背けることもなく。アリーチェはきっぱりと答える。

 どうせ、嘘を言ってもすぐにわかってしまうだろう。

(私は、お母様に似ているから)

 ごまかしようのない、髪の色とうねり。それを、恐らく彼も見たはずだ。

「母親が第二妃か……お前は、エレディタの王女なのか?」

「いえ、私は王の娘ではありますが、王女ではありません。いずれは母の一族を統べなくてはなりませんが、今はただの修道女です」

 アリーチェは、確かに王の娘だ。けれど、王族に名を連ねていない。

「母の一族? 何だ、それは」

 この問いには、黙りを決め込んだ。

 薬を扱うことに長けた一族が、エレディタには暮らしている。それを囲うエレディタ王家は、新たな王が即位すると、一族の娘を娶るのだ。そうして効力の高い薬を、王家で独占している。

 その一族は、ある方法で次の長を決めている。そして、アリーチェが該当した。ただ、それだけだ。

 不意に、青年が動いた。

 辺りが薄暗くなってきたからだろう。燭台に明かりを灯し、アリーチェへと近寄る。

 とっさに、顔を背けたつもりだった。けれど、地下牢でも避けていたからか。彼に、見逃してはもらえなかった。

「こちらを向け。向かなければ、力ずくで見せてもらう」

 有無を言わさぬ、冷え切った声音。

 ブルッと身震いして、アリーチェは背けていた顔を真っ直ぐに戻す。顔も目も、やや伏せ気味だ。

 視界の隅で、明かりがユラユラと揺れる。

「……確か、暗い緑色の瞳だったが……なぜ、今は赤い?」

 もう、ごまかしは利きそうにない。ひたすら押し黙っていても、何らかの方法で、彼は無理矢理に聞きだそうとするだろう。

 ふうっと息を吐いて、アリーチェは彼の瞳を真っ直ぐ見つめる。

 夜の空を思わせる、深くて暗い、綺麗な青色だ。

 しっかりと絡み合った視線は、彼が目を逸らしたことでほぐれた。

「蝋燭の明かりでは、赤く見えるんです。そうなるのは、母の一族の長になる者だけと決まっています。ですから、私は王女にはなり得なかった」

 薬物の知識が深く、さまざまな薬を調合できる。

 そんなアリーチェが、王女だったら。他国に攻め込まれて、滅ぼされそうになった時。政略結婚が持ち上がった時。国を出ていかなければならない。長となった暁には、一族がそろって嫁ぎ先へ行ってしまう可能性もある。

 手っ取り早く流出を避けるには、アリーチェという名の王女が、どこにもいないことにすればいい。

「その母の一族というのは、何か特技でもあるのか?」

 彼の問いかけに、アリーチェはスッと目を閉じる。答える気はないようで、口もキュッと引き結んだままだ。

「……まあいい。第二妃の特徴的な髪に、王城の隠し通路や隠し部屋を知っていた。これで、王の娘というのは信憑性を持つだろう。利用価値は十分だ」

「えっと……私は、どうなるのですか?」

「インシグネへ連れ帰る。その先は知らん」

「え……」

 ザッと音を立てて、アリーチェの顔から血の気が引いた。

 インシグネ国は、エレディタと西の国境を接する国だ。武勇に優れた王子がいるとかで、他国を制してはどんどん領土を広げているらしい。

 国軍のある王都から、エレディタは遠い。そのため、今まで免れていたようだが、とうとうここまで来たのか。

 そんな気持ちに襲われて、アリーチェはそっと顔を伏せる。

 到着して、すぐ殺されるかもしれない。王女として、強引に結婚させられ、死ぬまでインシグネに囲われるかもしれない。

 殺されるなら、かまわない。次の長が生まれ育つまで、誰かが代理で立つだろう。だが、もし、インシグネで生かされ続けたら。その時、母の一族はいったいどうなるのか。

「朝になったら発つ。修道院に取りに行くものはあるか?」

 彼の声で、ハッと我に返る。

 部屋に置いたままの、調薬の道具や、すでに調合した薬。薬草や毒草に関する書物。それらは、何があっても持ち出さなければ。

「あ、あります!」

「ならば、今から連れていこう」

 燭台の火を消し、床に置く。そのまま、青年はアリーチェをひょいと抱き上げた。

 天幕の外につながれていた馬に、横乗りで乗せられる。後ろに、彼が軽々と乗り込む。手綱を握る彼の腕の中に、すっぽり収まる格好だ。

「え、あ、あの……!」

「飛ばすから、黙っていろ」

 その言葉どおり。行きも帰りも、歯をグッと噛み締めていなければ、うっかり舌を噛んでしまいそうな揺れだった。


 修道院で使っていた部屋を、ゴミひとつ残さず綺麗に片づけた。

 本来は、私物だけを持ち出し、胴衣などは着替えて返却することになっている。しかし、着替えを持っていないアリーチェは、特例でそのまま出ることを許された。

「……どうか、ご無事で」

 アリーチェの素性。男子禁制ということで、外で待っているヴィンセント。これから先、どんな受難が待ち受けているのか。

 誰にもわからないからだろう。

 長く修道院にいる者たちから、次から次へと祈りを捧げられる。

「これから、日々、あなたの無事をお祈りします」

「ありがとう、ございます」

 両手の指をスルリと絡ませ、アリーチェも、彼女たちのために祈りを捧げた。


         ∮ 


 修道院から持ち出した中で、本当に大切なものだけを荷袋にギュッと詰めて。青年に見張られながら、アリーチェは出発の時を待っていた。

 てっきり、荷物扱いで、馬車にでも放り込まれると思っていた。しかし、乗せられたのは馬の背だ。しかも、昨日同様横乗りで、左側に彼がいる。

 昨日の乱暴な早駆けを思い出して、自然と、アリーチェの体はギュッと縮こまった。

 頭上で嘆息が聞こえたが、気にする余裕はない。

「出発する!」

 青年が高らかに宣言し、馬の足を進める。カツカツと、蹄が固い地面を蹴る音だけが、やけに耳につく。

 馬は軽快に駆ける。だが、昨日のように、ガクガクと激しく揺れることはない。しっかりと口を引き結んでいる必要も、どうやらなさそうだ。

「……今日からしばらく、このくらいで走る」

 ぽそりと降ってきた言葉に、アリーチェは首をひねって彼を見上げる。

 パチパチと瞬きながら見つめていると、ふと目が合った。けれど、彼はすぐに、ふいっと目を逸らしてしまう。

「先は長い。景色でも楽しんでおけ」

 横に長いエレディタの、ほぼ中央に位置する王都。そこからインシグネの国境までは、馬車でほぼ一日がかり。やや縦に長く広大なインシグネの王都へは、国境から二日はかかるはずだ。

 すぐそばに、いつも怖い表情をしている人間がいて。とてもではないが、心安らかに景色を楽しむ余裕などない。

 まだまだ、先は長いのに。アリーチェはひとつ、ため息をそっとこぼした。

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