料理上手な男
三話の二
遁走した十兵衛に遅れること十分、帰りの服装に着替えて玄関に行くと、普段とは違って落ち着きなく、手や足をそわそわと動かす彼がいた。
私の姿を認めると、ロボットダンスと思われるほどぎこちない態度で片手をあげる。
「よう、あの、なんだ、さっきは……」
「一緒にかえろ」
十兵衛の言葉を遮るように言うと、彼はきょとんとした顔をする。
いつもはスケベか馬鹿な顔をしているだけに、彼のこんな表情を見たのは久しぶりだ。
「お、おう」
照れ隠しか私から視線を外すと、十兵衛はさっさと歩き出す。
「ちょっと、待ってよ。私、まだ靴も履いてないんだから」
急いでスニーカーを履き、十兵衛の横に並ぶと、後ろから派手な足音をたてて如月さんが追ってきた。
「ボクも帰るよ!」
このお邪魔娘。
「邪魔だと思ってるんだろ」
「そんなことないわ」
睨み付けてくる如月さんから顔を逸らし、心で思っていたことを口に出してしまったのかと手をあて表情を隠した。
「十兵衛君、姫ちゃん。僕も今から帰るところだから送っていくよ」
お風呂にはいった後と思われる、小ざっぱりとした格好の如月師範が首にかけたタオルで顔をぬぐいながらこちらに向かってくる。
師範は、今から帰るところだし、車で来ているので乗って行きなさいと言われれば断わりようもない。
本当は帰る道すがら十兵衛にそれとなく印籠のことを聞くつもりだったのだけど、彼が「やったー、ありがとう、おじさん」と喜んでいては仕方がない。さらに付け加えるのなら如月さんが「神導さんはダイエットのためにも走って帰る?」と挑発されては尚更だ。
「ダイエットが必要なほど余分な肉はついていません」
「へぇ、そうなんだ。前に会ったときよりも膨よかになってるから、てっきり太ったのかと思ったよ」
「おほほ、私の場合、出るところが出たまでですわ。あ、ごめんなさい。如月さんはまだ第二次性徴期にはいってなかったものね」
「なんだと! ボクは胸にさらしを巻いているからぺったんこに見えるだけで、脱いだらすごいんだ! さっき見ただろ」
「あら、塗り壁が突然現れたのかと思ったら胸だったの。気がつかなかったわ」
火花を散らし、いつ神器を抜いてもおかしくないこの状況に男共は冷や汗をかいているだけった。
如月師範が表門に車を廻し私たちが乗り込むと、車内は師範の独壇場と化した。
助手席に座る如月さんは父親の話をうるさそうに聞き、後部座席の十兵衛は適度に相づちをうつ。
師範の話す内容は主に奥さんのことや、館長の一人たるおじい様のことだった。
小武石道場は如月師範のお義父さんであり、如月さんの祖父でもある、如月石舟おじい様と、私の祖父の佐々小次郎、十兵衛のおじい様である宮部武蔵の三人で運営されている。
運営といっても実務的なことは全部如月師範に押しつけ、本人たちは気ままに剣術修行の旅と称して、世界中を放浪しているのだけど。
私たちの祖父は昭和の三傑と謳われ、国士無双となるのはこの三人のいずれやと誰しもが注目するほどの剣豪だった。だが、世間の期待を裏切るように三人は今にいたるまで戦っていないと祖父から聞かされていた。
私たちが住むマンションから道場までは、歩けば結構な距離だけど、車ではあっという間で、師範の言葉はいつもどおり、早く館長達に帰ってきて欲しいという愚痴で終わった。
◆
走り去る師範の車を見送り、エレベーターで自分達のフロアに昇った私と十兵衛はお互いのドアの前で向き合った。
「また、学園で。今日は遅刻しないようにね」
「まて椿姫」
私は十兵衛に軽い挨拶をしてドアノブに手をかけると、横合いから少し大きく逞しい手の平が私のそれを包むように乗せられる。
少しドキリとして十兵衛の方を振り向くと、彼は不思議な顔をしてこちらを見ていた。
「あれ? 乙姫さんから聞いてないの? 今日から一週間、椿姫はウチでご飯食えって」
「え? お母さんから!?」
「おば……、じゃねぇ、乙姫さんは今日から一週間おじさんのところに行くってよ。聞いてないのか?」
「聞いてないわよ。まったくあの母親は……。ごめんね十兵衛。でも、ご飯くらいは自分で作れるから大丈夫よ」
「自殺する気か!」
「どういう意味よ。私が料理下手みたいじゃない」
「まぁ、あれだ、それは置いといて」
「置くだけ? 否定はしてくれないの!?」
私の作った料理ってそんなにダメだったのかな。
前に家庭科実習で作ったクッキーを十兵衛が奪うように食べてくれてたのに。
「乙姫さんから、お前の食費として一週間分前払いでもらってるんだ。浮いた分は俺の手間賃にして良いって。お前に食べてもらえないと俺としては予定が狂うんだ」
「十兵衛がいいなら……いいけど」
「俺としては三人分も四人分もそう変わらんよ」
「うん。わかった。ありがとうね。ご厚意に甘えます」
「金はもらってるんだ、遠慮するな」
「じゃぁ、着替えたらお家に伺うね」
「おう、呼び鈴とか鳴らさなくて良いから。あと家にある食材で腐りそうなのあったら持ってこい。それを先に使っちまおう」
やりくり上手な主婦めいたことを言う十兵衛が微笑ましかった。
自室に戻ると朝食をいただいた後はすぐに登校できるように、ジャージから制服に着替え、キッチンへと移動する。
普段は飲み物を取るときにしか開けない冷蔵庫の中味を改めて確認すると、これといった食材は残っていないようだ。
別に私の母親がやりくり上手な主婦だからではなく、料理とは如何に手を抜けるかが極意だと宣う人で、気がつくとカレー、クリームシチュー、ハヤシライス、ポトフなどの煮込み料理のヘヴィーローテションを平然とやってのける。冬はこれが鍋に変わるという徹底ぶりだ。
余った食材は煮込めば食える。
そのことを極意と言い切った母が残してくれた食材は……ジャガイモとにんじん、それにキュウリが一本、キャベツとタマネギが半玉、レタス四分の一、卵三個といったところか。
冷凍庫も開けてはみたが、冷蔵庫よりも豊富に用意された大量の冷凍食品がきっちりと納められていた。
使えそうなのは凍らせた鶏肉と豚バラくらいかな。
これらの食材をビニール袋にいれ、自分の手荷物を持って十兵衛宅へとお邪魔する。
言われたとおり呼び鈴を鳴らしはしなかったが、玄関で「こんにちは、お邪魔します」と挨拶はする。
「姫姉! いらっしゃい」
Tシャツにショートパンツという格好をした小夜子ちゃんが、可愛らしく走り寄ってくると私に抱きついてきた。
「えへへ、姫姉と一緒にご飯食べれるなんて、小夜子幸せ」
「私も小夜子ちゃんと一緒に食事できて嬉しいわ」
「う〜、姫姉大好き! ほんとにあの馬鹿と入れ替わって、私のお姉さんになってよ」
「誰が馬鹿だ。椿姫もいつまでもそこにいないで上がれよ」
「てめぇ、せっかく二人の良い雰囲気だったのに、邪魔するんじゃねーよ」
お邪魔しまーす。小夜子ちゃんが十兵衛に噛みつくのを横に、廊下を抜けてダイニングへと上がらせてもらった。
十兵衛の家にきたのは中学の卒業式以来だから、それほどを間を開けたわけでもないのに、すごく久々に感じてしまう。
三月の中頃から四月中旬までがまさに怒濤の一ヶ月間だったからかな。
「椿姫、何をぼーとしてるんだ。そこに座って待ってろよ」
「おい馬鹿、姫姉になんて言い方してんだ、殺すぞ」
「小夜子、口が悪いわよ」
のっそりと起き出した、かぐやさんの拳骨が小夜子ちゃんの頭に落ちると鈍い音が鳴った。
「いた〜い!」
「浮かれるのもいいけど、悪い言葉使いは許さないよ」
「きゃー、お母様ステキ〜、もっと言ってやってー」
エプロン姿の十兵衛が、すこし裏声で母親のかぐやさんに向かって言っていた。
殴られた頭を押さながら睨む小夜子ちゃんを尻目に、十兵衛は私から食材を受け取ると朝食の支度をし始めた。
小夜子ちゃんを諫めたかぐやさんは、まだ眠いのか開ききっていない目は焦点が合っておらず、ワンピースのパジャマのスカートをたくし上げ、お腹をかいている。
かぐやさん、パンツ見えてますよ! 黒のレースのパンツが。
「かぐやさん、おはようございます。何かとウチの母がご迷惑を言って申し訳ありません」
「おはよぉ〜、乙ちゃんからは娘をよろしくって言われているから、んなことは気にしないで〜。なんならいっそのこと本当に私の娘になってもいいのよぉ〜」
「え、いや、何を」
「そうだよ! そうしなよ姫姉。不本意だろうけど、馬鹿と結婚して即離婚すればいいんだよ! 私たちは本当の姉妹になれるよ!」
「おい馬鹿、もう黙れ。それじゃ、また他人に逆戻りだろ」
キッチンを忙しく動き回る十兵衛が小夜子ちゃんに向かって言い放ち、それが元でまた兄弟喧嘩が始まる。
ひとりっ子の私にはわからないが、これがいつもの十兵衛宅の日常だった。
まな板にのせた食材を小気味よく切っていく音はリズミカルで、水道からひねり出される水音、お味噌汁の炊きあがる匂いとお鍋の蓋がコトコトと奏でる音は朝の食卓に相応しい演奏者だった。
それを指揮する十兵衛の立ち回りには無駄がなく、食卓に次々と料理が並んでいく。
ご飯とタマネギの味噌汁、焼き鮭の切り身と大根おろし、キュウリの浅漬けにレタスとトマトのサラダは色味的にも私の食欲をくすぐった。
四人掛けのダイニングテーブルには座ったきり身動きしないかぐやさん、その隣に私が座り、正面に十兵衛、そして不本意そうな顔をしてその横に小夜子ちゃんが座る。
「いただきまーす。わぁ、美味しい! 十兵衛、料理の腕がまた上がったね」
「こんなのただ焼いただけだ。浅漬けの素ってのもあるし、今じゃ手軽だよ」
「そうだよ姫姉、こんな料理で褒めちゃダメ。手抜きもいいところなんだから」
「お前に言われると首を絞めたくなる。少しは料理を覚えろ。将来彼氏が出来たときに泣くぞ。彼氏が」
十兵衛の言葉が胸にちくりと刺さる。
もしかして私に言っているの?
「料理できる彼氏をつくるからいいんですぅ。そうそう、彼氏と言えば姫姉の彼氏はステキだよね、本当に全学園の憧れ!」
「ごほっ」
「あらあら、椿姫ちゃん大丈夫?」
小夜子ちゃんからの思わぬ奇襲に、飲んでいたお味噌汁を吹いてしまった。
隣に座っていたかぐやさんが私の背中をトントンと軽く叩き、摩ってくれる。
「だ、じょぶ、です。ゴホ。はぁ〜、急に変なことを言うから気管に入っちゃいました。ゴホン、小夜子ちゃん、私に彼氏なんていません」
「え〜、うそぉ〜。総合生徒会、天王寺慶喜会長との噂は学園内じゃ知らない人はいないよ。美貌と実力で先代から会長職を任されたと言われる天王寺会長。そして、その天王寺会長が三顧の礼を持って迎えた姫姉は学園内ではベストカップルって言われているんだから! 二人が一緒で微笑ましく学園内を闊歩している姿を見て、嫉妬の嵐で悶え死んだ男女の生徒は後を絶たず、それどころか教師すらハンカチを涙で濡らしているって言われているんだよ!」
「それは噂に尾ひれがつきすぎ! 彼とはそんなことは一切ありません。二人でいるのも公務で会長と副会長という立場のためです」
我ながら言い訳ぽいことを口にしているがわかっているけど、十兵衛にはあまり聞かれたくない話題なの。わかって小夜子ちゃん。
私は小夜子ちゃんに必死のアイコンタクトを送りつつ、すこしだけ十兵衛の方を盗み見た。十兵衛の顔は表情括約筋があるのかと疑いたくなるほど、表情筋を動かさず、ポーカーフェイスを貫いている。それが、急に腹立たしくなってきた。
「ま、まぁ天王寺さんも良いところはあるけど、彼とはまだそういった関係ではないわ」
「まだ!? まだって事は可能性があるってこと!? きゃー、ステキですぅ。もし、お付き合いすることになったら私のことも紹介してくださいね!」
「へ? いや、あのそういったまだという意味じゃ……」
「ごっそさん。椿姫、食い終わった食器は流しに置いといてくれ」
「あ、うん」
結局、十兵衛はこのことに反応することもなく、洗濯物を干すからとお風呂場の方へ足早に去って行ってしまった。そんな十兵衛の背中を目で追っている自分に気がつく。
はぁ、自己嫌悪だ。
「あ、お兄ちゃん、私の下着は別にしてよね」
小夜子ちゃんは味噌汁をご飯にかけると、女子としてはどうかと思うほどの勢いでかきこみ、慌てて十兵衛の後を追いかけていった。
私もご飯を食べ終え、食器を片付け始めると、かぐやさんがこちらに向けてニヤニヤとした笑顔を向けていることに気がついた。
「なんです?」
「いや、椿姫ちゃんも案外不器用だなーって」
「私が……ですか?」
「なんだろ、最近の若者はもっとストレートな表現をする子ばかりだと思っていたんだけどねぇ」
「なんのことですか。私は別に……」
「なんのことだろうねぇ。あ、私は椿姫ちゃんが娘になって欲しいのは本気だから、いつでも嫁にきてね」
「しょ、食器洗っておきますね」
返答になっていない返答をして、私は腕まくりをした。
午前七時半。
一般生徒が登校する時間には早いが、生徒会の朝礼があるため私はいつもこの時間に家を出る。
十兵衛の家から登校するのは不思議な感じがするな。
玄関で靴を履きながら、先ほどかぐやさんに言われたことが頭をよぎり、出勤する十兵衛を送り出す私の姿を想像して身悶えしてしまう。
「何やってるんだ」
「十兵衛! いつからそこにいたの?」
「いや、なんつーか、椿姫が体をくねらせたあたりから」
「声くらいかけてよ!」
「かけたつーの。それよりも、もう行くのか? 早いな」
「うん。生徒会で色々とあるの。面倒だけど行かないわけにはいかないし」
「面倒なら辞めちまえばいいのに。とか言って辞める椿姫でもないか。まぁ、体壊さない程度にがんばれ。何なら手を抜け、そして俺への罰則を見逃せ」
「それはそれ、これはこれ。罰則が嫌なら校則は守りなさい」
「へいへい、ああ、あとこれ」
十兵衛が可愛らしい布に包まれた箱を私に差し出す。
「これは何?」
「何ってお弁当だよ。食費に昼食代も入ってたんだが、お金を渡した方が良いかな?」
「私に?! いるいる! お弁当なんて小学校の運動会以来よ。嬉しい!」
「乙姫さんは……作らんよなぁ」
「うん。あのね、十兵衛」
「あん?」
「ありがとね」
お弁当を受け取ると、嬉しくて、恥ずかしくて、まともに十兵衛の顔を見ることができなかった私は振り返ることなく玄関の扉を開けた。
とりあえず三話分までは更新がんばりたいと思います。