変化の瞬間
夜、会社から帰って。
俺は真っ先に御咲の部屋に向かった。
いつもはするノックをせず、部屋に入ると、ベッドの上でボロボロに泣いている御咲を見つけた。
「――…っ」
正直、泣いてるとは思っていなかった。
せいぜい、ぬいぐるみを抱いて落ち込んでいる程度だと思っていた。
「ぁ……、…あの……お兄…ちゃ…」
真っ赤に泣き腫らした顔をぬいぐるみで隠すように、隠れ切れていないにも拘らずぬいぐるみの陰に身を潜めるように、震える声を押し殺すように、妹は俺を呼ぶ。
「……」
返事が、出来ない。
「あの…今日は……ごめ…――」
「――もう、二度とあんな奴の側に寄るな」
苦しそうにしている妹の姿に、俺の脳内がふつふつと煮え滾る様な感覚がしている事に気付く。
「あ…あの、ね……」
「近づくなって言ってるんだ、返事出来ないのか?」
そんな感情に任せて冷たい物を投げつけるように、言葉が勝手に飛び出す。
俺の言葉に妹が更に震えるのが見て分かった。
それでも、俺の怒りが治まらない。
「……っ…」
「どうなんだ?近づかないっていう約束は出来る?出来ない?」
「……っ!」
「約束が出来ないなら、この家には二度と帰ってくるな」
自分が妹を虐めている気がした。
自分の中から生まれ、膨れ上がる苛立ちが治まらなくて、居所が悪くなる。
それだけを言い残して、俺は家を出た。
「……くそっ!」
俺を加速させる苛立ちを吹き飛ばしたい衝動に駆られた。
つい、目の前にある電柱を殴った。
右手にピリピリと、痛みという名の電流が走った。
夏の夜にしては少し肌寒い。
スーツを着崩しているせいだろうか。
今からどうしようか?
癒えには暫く帰りたくない。
街をうろつく気分ではない。
会社には戻れない。
でもどうせなら、仕事をして気分を発散させたいかもしれない。
なんて色々考えていたら、太ももの辺りで振動を感じた。
携帯が鳴っているのだと気付き、手に取ると『新着メール1件』の文字があった。
開き、メールの確認をする。
ディスプレイの光が眼に痛い。
『久しぶり。久しぶりに帰ってきたし会いたくなったんだけど、今大丈夫か?』
高校の頃の友達からのメールだった。
どうせ行く場もない。会ってみるか。
『おう、行く。何処だ?』
とだけ返信を打って、俺は歩き出した。
「おー、治久しぶりー」
聞き覚えのある声がした。
集まったのは街にあるファミレス。にぎやかだし、気分も晴れるかもしれない。
「久しぶり。お前変わったな。あんなに目立つ緑頭だったのに…」
「染めてたのは茶色だよっ!」
目の前の旧友、夏目祐史の元気そうな声に少し安心した。
昔は特に縁があったわけでもなく、気付いたら居た。
会話内容や関係としては、漫才師に近いかもしれない。
ただ、祐史は頭が軽くイッてて俺の名前が呼べないからと国治の『治』の字をおさむ、と呼ぶ」
「気付いたら居たの辺りから聞こえてるんですけど!?」
馬鹿ですみませんねぇ、と先に席を着きドリンクバーを利用していたようだ。
グラスに入ったコーヒーをストローでブクブクさせていた。
「それ、行儀に悪いんだぜ?」
「うっせぇやい」
ぶー垂れる祐史。
「それ、デブになるんだぜ?」
「マジで!?」
驚き、青ざめる祐史に俺は腹が痛くなった。
やっぱ、こういう気分のときは楽しい奴と馬鹿騒ぎしていたい。
「嘘に決まってんだろ。…くくっ」
元気そうな姿と昔と変わらない姿に後から後から笑いがこみ上げる。
「アンタ最低だな相変わらずっ!……で?」
「ぷぷっ……あ?…ふふっ」
「アンタ笑いすぎだよ!!…あーもう話が進まん。いや、予想より早く来たから驚いただけだよ…」
通路に体を向けて足を組み、横目で俺を見る祐史。
「いや、別に。見て分からん?俺会社帰り」
「会社ここだっけ?家と反対側じゃなかった?」
祐史の言葉に俺は納得してしまった。
そういえば、そうだ。
気付けば俺は嘘をついていた。
「あ?そうだっけ?ま、気にすんな」
今の状態を隠しておきたい気持ちと突然の面倒くささが俺を操る。
「喧嘩でもした?もしかして御咲ちゃんの事とか?」
ニヤニヤ顔で俺を見る。
くそ、なんでこいつは昔から勘が鋭いんだ。
何度か、嫌なことがあれば俺は祐史で遊んでいた。
だがその度にこいつはその原因を直ぐに当てた。苛めの様な奴だ。
まさかそれが、今も変わらないとは…。
「うるさい、気にすんなつってんだろ」
また気分が悪くなってきた。
「はいはい、じゃあ話せるくらいになったらで良いよ。何か珍しく内容が重たそうだから」
ふぅ、とため息をつき無くなったコーヒーを入れにドリンクバーへ立ち去る祐史。
俺の肺からも、重たいため息が漏れた。
その時、再び携帯が震えた。
「ったく…今度は何だよ…」
帰ってきた苛立ちに、俺は苛立つ。
携帯を開くと、会社の後輩からの電話だった。
俺は急いで立ち上がり、店を出る。
祐史にはすれ違いざまに「電話出てくる」と伝えた。
初夏でも寒いものは寒い。
スーツのボタンを俺は締めながら電話に出た。
「もしもし、高城です」
『あ、高城先輩?夜分遅くにごめんなさい、仲江です…。今、大丈夫ですか…?』
おどおどと緊張しているような声が聞こえる。
「うん、それは知ってる。今も大丈夫。どうかした?」
早く本題に入りたい俺はまた少し苛立ちを覚えた。
『わ、私今残業中なんですけど…高城先輩が作ってくれたリストで不備があって…わ、私じゃ直せないんです…』
「え、マジ!?」
苛立ちが瞬時に焦りに変わった。
多分、昼に苛立ったせいで仕事が疎かになったんだ。
『は、はい…だからその、明日朝一で出勤して欲しいなと思って…。それで直してくれれば私も終れるから…』
「あ、いや…今すぐ行く。会社まだ入れるよね?」
俺はすぐ会社の方面へ走り出した。
『え?わ、私も居るし警備員さんも来てる時間なので大丈夫ですけど…』
「じゃあ待ってて、今走って向かうから」
『え、待っ――』
彼女が言いかけたところで、俺は電話を切った。
よくよく考えたら走っても30分は余裕でかかる。タクシーを捕まえよう。
丁度、道路を見たら空車のタクシーが通り過ぎようとしていた。
俺は手を上げ、タクシーに近寄り半ば強引に止める。
乗り込んで行き先を告げ、祐史には『仕事。1時間以内に帰る』とだけメールして。
俺は会社へ急ぐ。
高城御咲:国治の妹。
高城国治:御咲の彼氏が気に入らない。高校の頃は祐史で遊んでいた。
男:御咲の彼氏。
夏目裕治:国治を「おさむ」と呼ぶ旧友。
成績は低い方で、今は実家のある田舎で働きながら社宅住まい。
仲江 :国治の会社の後輩。少し引っ込み思案。