満月の三日前
満月の三日前の夜は、いつも血がうるさい。
俺は新宿の裏通りを歩いていた。雨上がりのアスファルトがネオンを溶かして、足もとに安っぽい虹を流している。人間たちはその虹を踏みつけて歩き、誰ひとり空を見上げない。見上げたところで、雲の切れ間に覗く月はまだ欠けている。欠けた月は、俺の中の狼を完全には起こさない。だから俺は、まだ辛うじて人間の顔をしていられる。
――犬神明。それが、今夜の俺が名乗っている名前だ。
「……助けて」
ビルの谷間の暗がりから、かすれた声がした。
俺は足を止めなかった。助けを求める声など、この街では雨粒より安い。だが、鼻が勝手に動いた。恐怖の汗の匂い。消毒液の匂い。そして、その奥にある、古い血の匂い。
人間の匂いではなかった。いや、人間の匂いだけではなかった、と言うべきか。
俺は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
女が、室外機の陰に座り込んでいた。二十代の半ばだろう。看護師の白衣の上に男物のコートを羽織り、裸足だった。胸に、茶封筒を抱きしめている。まるでそれが、世界に残された最後の体温であるかのように。
「あなた……」女は俺の顔を見て、息を呑んだ。「あなた、あの人たちと、同じ目をしてる」
「同じ目?」
「金色の……」
俺は苦笑した。月が欠けている夜には、目の色を隠すのは難しくない。だが彼女は見抜いた。追いつめられた人間は、ときどき獣よりも鋭くなる。
「俺は何も訊かない。だが、足音が近づいている。三人、いや四人だ。靴の底が妙に静かだな。ゴム底の特注品か。ろくな商売じゃない」
女が震えた。
「立てるか」
「……足が」
俺は黙って背中を向け、しゃがんだ。女は一瞬ためらい、それから、おずおずと俺の背に身を預けた。軽かった。こんなに軽い体で、この女は何を抱えて逃げてきたのだろう。
路地の出口に、黒いコートの男たちが現れたのは、その直後だった。
四人。先頭の男は、薄い笑みを貼りつけていた。笑いながら、目だけが、爬虫類の標本のように乾いている。
「篠宮さん。夜の散歩にしては、遠くへ来すぎましたね」
「彼女は俺と先約がある」俺は言った。「他をあたってくれ」
「あなたは?」
「通りすがりの、ただの犬だよ」
男の笑みが、わずかに歪んだ。
「困りましたね。我々も、あまり騒ぎは起こしたくないのですが」
「奇遇だな。俺もだ」
それは本心だった。俺は暴力が好きではない。牙も爪も、使うたびに、俺はあの冷たい孤独の底へ一段ずつ降りていく。人間たちは俺を化け物と呼ぶ。だが、本当の化け物がどちらなのか、彼らは永遠に知らないほうが幸せだろう。
男の指が、懐へ動いた。
その瞬間、雲が切れた。
欠けた月の光が、濡れた路地に一筋、細く落ちた。それだけで十分だった。血が、ざわりと逆流する。耳の奥で、遠い遠い、誰かの遠吠えが聞こえた。
――やめておけ、と俺は言ったと思う。
だが、言葉が終わらないうちに、俺は女を壁際へそっと降ろしていた。
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終わるまでに、三十秒とかからなかった。
四人の男は、路地に折り重なって倒れている。誰も死んではいない。俺は殺さなかった。殺す価値もなかった、と言うほうが正確かもしれない。ただ、彼らが今夜見たものを、朝までに自分の悪夢として整理しきれるかどうかは、保証の限りではない。
女は壁に背を預けたまま、俺を見つめていた。怯えていた。同時に、怯えながらも、目をそらさなかった。
「怖いか」
「……怖いわ」女は正直に答えた。「でも、あの人たちのほうが、もっと怖かった」
「そうか」
「その封筒の中身、見たいの?」
「いや。それは君のものだ」
女は小さく息をついた。そして、ふいに笑った。泣き笑いのような顔だった。
「あなた、変な人ね」
「よく言われる」
遠くで、始発電車の音がした。夜が、ゆっくりと終わっていく。空の端が、灰色から薄い青へ溶けはじめていた。
「警察でも、新聞社でも、君が信じられる相手を選べ。その封筒を、闇に埋もれさせるな。人間のやったことは、人間が裁くべきだ。俺の役目は、ここまでだ」
「待って」女が言った。「名前を……教えて」
俺は振り向かなかった。コートの襟を立て、歩き出す。
「名乗るほどの者じゃない」
「そんなの、ずるいわ」
「そうだな。ずるい男なんだ、俺は」
背中で、女がまだ何か叫んでいた。だが、その声は、朝の街の物音に、すぐに紛れて消えた。
俺は歩いた。三日後には満月が来る。その夜、俺はまた、人間の皮を脱ぎ捨てなければならない。誰にも見せられない、俺だけの本当の姿で、誰にも届かない遠吠えを、ひとりで夜空へ放つのだ。
それでも俺は、ときどき思う。
あの女のように、怯えながらも、目をそらさない人間が、この世界にひとりでも残っているかぎり――。
俺はもう少しだけ、人間の側に立っていてもいい、と。
雨上がりの朝の光の中を、俺は、ひとりで歩いていった。
第二話 青い鹿
夜が明けても、血のうるささは消えなかった。
俺は朝の山手線に揺られ、それから私鉄に乗り換え、さらに歩いた。人間の街には、地図に載らない静かな場所がいくつもある。古い住宅地の外れ、枯れかけた桜並木の先に、その家はあった。小さな診療所の看板が、色褪せたまま出ている。
呼び鈴を押す前に、扉が開いた。
「三日前になると、あなたはいつも同じ顔をして来るのね」
青鹿晶子は、白衣の袖をまくった腕を組んで、俺を見上げた。
美しい女だ。それは事実だが、美しさを言葉にした瞬間に、彼女の本質は逃げてしまう。切れ長の目の奥に、深い森の水面のような静けさがある。俺が人間の言葉でしか語れないことを、彼女はいつも、言葉の前に理解してしまう。
「入って。コーヒーを淹れるわ。……血の匂いがする。誰か、傷つけたの?」
「殺してはいない」
「それは、あなたにとって、いい知らせ?」
「さあな」
俺は肩をすくめた。彼女は、わずかに微笑んだ。
診察室の古い椅子に腰を下ろし、俺は昨夜のことを話した。篠宮という看護師。茶封筒。ゴム底の男たち。晶子は黙って聞いていたが、「栖川」という名が出たとき、カップを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「知っているのか」
「名前だけね」晶子はカップを置いた。「栖川生命科学研究所。表向きは再生医療の民間クリニック。でも、裏では十年以上前から、ある噂が流れているの。月の周期に反応する血を探している、と」
「月の周期に反応する血」
「ええ。満月の夜にだけ、驚異的な再生能力と身体能力を示す個体。……それが何を指すか、あなたなら分かるでしょう」
分かった。分かりすぎるほど、分かった。
「連中は、俺の血を狙っているのか」
「あなた個人かどうかは分からない。でも、あなたのような存在がいると、確信している人間がいるのは確かよ。そして」晶子の目が、静かに細くなった。「篠宮さんが持ち出したのは、その実験の記録だと思う」
窓の外で、鴉が一声、鳴いた。
「晶子」
「なに?」
「君は、この件から手を引け」
「あら」晶子は笑った。「私が、あなたの言うことを聞いたことがあった?」
俺は返す言葉を持たなかった。彼女は立ち上がり、窓を開けた。朝の風が、消毒液の匂いを薄めていった。
「私にも、できることがあるわ。あの研究所の内部に、昔の同僚がいるの。……あなたは、篠宮さんを守って。それが、あなたの役目でしょう?」
俺は、それ以上、何も言えなかった。
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第三話 ゴム底の男たち
篠宮澪から連絡があったのは、その日の夕方だった。
晶子の診療所の電話が鳴り、受話器の向こうで、女の声が、ひどく小さく震えていた。
『犬神さん……ですか。昨日の……』
「俺の名を、誰に聞いた」
『あなたが去ったあと、路地で、倒れていた男の人の一人が、うわ言のように……「犬神」と……』
俺は舌打ちを飲み込んだ。あの連中は、すでに俺の名を知っている。つまり、昨夜の動きは、最初から計算のうちだったということだ。
『私、新聞社の人に会う約束をしたんです。浜松町の喫茶店で、午後七時。封筒の中身を、渡そうと思って……。でも、さっきから、誰かに見られている気がして……』
「行くな」
『でも』
「行くなと言っている。そこは罠だ。君がそこで会う予定の相手の名前を教えろ」
沈黙があった。それから、澪は、消え入るような声で言った。
『……もう、店の前に、来てしまっています』
電話が、切れた。
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浜松町の駅前は、帰宅するサラリーマンの波で埋まっていた。
俺は、その波に逆らって歩いた。鼻は、街のあらゆる匂いを選り分ける。排気ガス。焼き鳥の脂。香水。汗。そして、その底に、昨夜と同じ、恐怖の匂い。
喫茶店のガラス越しに、澪の背中が見えた。向かいの席に、背広の男が座っている。新聞記者の名刺を差し出し、人当たりのいい笑顔を見せている。だが、その男の靴は――
ゴム底だった。
俺は扉を押した。
「いらっしゃいま――」
店員の声が終わる前に、男が立ち上がった。笑顔は、もう消えていた。
「犬神明さん。やはり、いらっしゃいましたか」
「新聞記者にしては、足音が静かすぎるな」
「失礼。我々は、少々、特殊な取材を専門としておりまして」
店内の客が、一斉に、立ち上がった。サラリーマン風の男が三人。若い女に見える女が一人。全員が、同じ、乾いた目をしている。
「ここで、やるか」
「まさか」男は、薄く笑った。「場所を、変えましょう。ご案内します」
澪が、俺の袖を握った。その指が、震えている。
俺は、彼女の手を、そっと、包んだ。
「大丈夫だ。君は、俺の後ろにいろ」
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案内された先は、芝浦の倉庫街だった。
コンクリートの巨大な箱が、潮風の中に黙って並んでいる。その一つの中に、俺たちは通された。天井が高い。コンテナが、墓標のように積み上げられている。
男たちが、扉を閉めた。
錠の落ちる音が、倉庫の闇に響いた。
「紹介が遅れました」先頭の男が言った。「私は鷲尾。栖川所長の、回収担当です」
「回収」
「ええ。貴重な資源を、あるべき場所に戻すのが、私の仕事でして」
その瞬間、俺は、空気の変化を嗅いだ。
銃ではない。もっと、冷たい匂い。金属の、鋭い、銀の匂いだ。
「……銀か」
「さすが、お詳しい」鷲尾は、懐から、細い筒状のものを取り出した。「麻酔弾の先端に、銀の合金を使っています。満月の前でも、その効果は、十分に確認済みです」
澪が、息を呑んだ。
俺は、ゆっくりと、上着を脱いだ。それを、澪の肩にかける。
「見ていなくていい。目を閉じていろ」
「犬神さん……」
「すぐ終わる」
それが、開戦の合図になった。
最初の弾丸が、風を裂いた。
俺は、動いた。体が、考えるより先に、地面を蹴っていた。弾は、俺の影を貫き、背後のコンテナに突き刺さって、甲高い音を立てた。
二人目が、横から来た。若い女に見えた、あの女だ。ナイフを逆手に構え、獣のように低く、速い。俺は、その刃をかわし、手首を掴み、体をひねって、投げた。女の体は、宙を舞い、積まれた木箱に叩きつけられた。
悲鳴は、なかった。
三人目、四人目が、同時に来た。左右から。俺は、一歩、退いた。それだけで、二人の拳が、互いの顔面に激突した。鈍い音。
「動きが、素人ではないな」
「プロだ、と言ってほしいね」
鷲尾の声が、天井から降ってきた。見上げると、鉄骨の梁の上に、彼が立っていた。筒状の銃を、こちらに向けている。
引き金が、引かれた。
肩に、焼けるような痛みが走った。
銀だ。弾丸が、肉に潜り込む、熱い痛み。俺は、歯を食いしばった。視界が、ぐらりと揺れる。
「効いて、きましたね」
「……ああ。効いているよ」
俺は、肩に手を当て、そのまま、指を、傷口に突っ込んだ。
「犬神さん!?」
澪の悲鳴が、聞こえた。
俺は、肉の中から、潰れた銀の弾頭を、指でえぐり出した。血が、勢いよく溢れた。それを、床に、投げ捨てる。
金属音が、倉庫に響いた。
「……痛いな」
俺は、鷲尾を見上げた。
「だが、この程度で、俺を縛れると思うな」
月は、まだ、満ちてはいない。
だが、血が、笑っていた。
第四話 満月
傷は、翌日の夜には、ほとんど塞がっていた。
晶子は、それを見て、何も言わなかった。ただ、俺の肩に、静かに包帯を巻き直した。彼女の指が、温かかった。
「篠宮さんは、あの倉庫から、逃がせたの?」
「ああ。晶子の知り合いの病院に、預けてある。だが」
俺は、窓の外を見た。
東の空に、巨大な月が、ゆっくりと昇ってくるところだった。完全な円。黄金色に濡れた、満月。
「連中は、すぐに、嗅ぎつけるだろう。俺の居場所を。そして、あの女の居場所を」
「だから、先に行くのね」
晶子の声に、非難の響きはなかった。ただ、深い、静かな、諦めのようなものがあった。
「行くなと言っても、行くんでしょう」
「ああ」
「なら、せめて、これを持っていって」
彼女が差し出したのは、古い、小さな鈴だった。
「昔、私の祖母がくれたの。鹿の角で作った鈴よ。……迷ったとき、この音を聞けば、帰り道が分かるから」
俺は、それを受け取った。ちりん、と、澄んだ音がした。
「必ず、返しに来る」
「約束よ」
その夜、俺は、人間であることを、やめた。
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栖川生命科学研究所は、お台場の埋立地に、白い骨のようにそびえていた。
警備は、厳重だった。門に二人。ロビーに四人。屋上に、狙撃手が一人。だが、そんなものは、満月の夜の俺にとって、意味をなさなかった。
俺は、塀を越えた。
その瞬間、体が、変わりはじめた。
骨が、軋む。筋肉が、膨れ上がる。皮膚の下を、無数の熱い虫が這い回る。視界が赤く染まり、世界の輪郭が、鮮烈な匂いと音の洪水に変わっていく。
牙が、伸びた。
爪が、鋭く、長く、月光を弾いた。
俺は、狼になった。
人間の言葉は、もう、喉の奥で、意味を失っていた。残っているのは、ただ一つの目的だけだ。守ること。奪われたものを、取り戻すこと。
最初の警備員が、闇の中で、俺と目が合った。
悲鳴を上げる暇もなかった。
ロビーのガラスを、体当たりで砕いた。破片が、星屑のように降り注ぐ。警報が鳴り響く。銃声。弾丸が、壁を、床を、柱を穿つ。俺は、その間を、風のように縫った。
四人の警備員が、一斉に、銃を構えた。
跳んだ。
天井まで。そこから、体を反転させ、一人の肩に爪を叩き込む。男が、床に崩れ落ちる。二人目の銃を、牙で噛み砕く。三人目の腹を、後ろ足で蹴り上げる。四人目は、恐怖のあまり、自分から壁に背を押しつけて、動かなくなった。
殺しはしなかった。今夜は、その必要がなかった。
エレベーターは、使えなかった。階段を、駆け上がる。三階。五階。八階。匂いが、濃くなっていく。澪の匂い。そして、もう一つ。
あの、乾いた、爬虫類のような匂い。
十二階。最上階の手前の、広い実験室。
扉を、体当たりで、破った。
「お待ちしておりました」
鷲尾が、そこに立っていた。
その背後に、巨大なガラスの水槽があった。中は、淡い青色の液体で満たされ、その中に――
澪が、浮かんでいた。
「……!」
「ご安心を。意識を、眠らせているだけです。彼女の血も、少々、貴重でしてね」
鷲尾の隣に、白衣の老人が立っていた。痩せた体。深く窪んだ目。栖川所長。
「素晴らしい」老人の声は、恍惚と震えていた。「実に、素晴らしい。伝説は、本当だったのだ。月の子よ。君の血があれば、人類は、死を克服できる」
俺は、低く、唸った。
「そうか、言葉は、通じないのか」栖川は、残念そうに首を振った。「ならば、仕方ない。鷲尾くん。最終手段を」
鷲尾が、懐から、小さな装置を取り出した。
スイッチが、押された。
その瞬間、部屋中の空気が、悲鳴を上げた。
音だ。
人間の耳には、聞こえない、高周波の音。それが、俺の鼓膜を、脳髄を、骨の髄を、容赦なく貫いた。視界が、白く弾ける。四肢の力が、抜けていく。
膝が、床に落ちた。
「効いていますね。月の子専用に調整した、特殊な周波数です」
鷲尾の足音が、近づいてくる。
「安心してください。殺しはしません。あなたは、大切な、資源ですから」
意識が、遠のいていく。
その時だった。
ちりん。
小さな、澄んだ音が、聞こえた。
俺の首に、いつの間にか、結びつけられていた、あの鈴が。
ちりん。ちりん。
その音は、高周波の暴力の中で、不思議なほど、鮮明に響いた。迷ったとき、この音を聞けば、帰り道が分かるから。
晶子の声が、聞こえた気がした。
俺は、目を、開けた。
そして、吠えた。
空気が、震えた。ガラスが、一斉に、砕け散った。水槽にも、無数の亀裂が走り、青い液体が、滝のように溢れ出す。鷲尾の手から、装置が弾き飛ばされた。
「馬鹿な、あの周波数で――」
鷲尾の言葉は、最後まで続かなかった。
俺の牙が、彼の手首を捉えていた。
悲鳴。血飛沫。
鷲尾は、床を転がりながら、銃を抜いた。引き金が、引かれる。銀の弾丸が、俺の脇腹をえぐる。だが、俺は、止まらなかった。
跳びかかり、彼を、床に押し倒した。
牙が、喉に、触れた。
鷲尾の目が、恐怖に見開かれた。あの乾いた爬虫類の目が、初めて、人間の色を取り戻した。
――殺すか。
血が、そう囁いた。月が、そう囁いた。
俺は、牙を、離した。
鷲尾は、気を失った。
俺は、顔を上げた。栖川所長が、壁際に、腰を抜かして座り込んでいた。
「ま、待て。待ってくれ。金なら、いくらでも――」
俺は、一歩、近づいた。
老人は、ひきつった声で、笑った。
「ははは、そうか。お前は、人間を、殺せないのだな。人間の側に、立っていたいのだな」
俺の足が、止まった。
「哀れな、獣だ。どちらにも、なれないのだ。人間にも、狼にも」
その言葉は、どんな銀の弾丸よりも、深く、俺を貫いた。
俺は、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと、水槽に近づき、割れたガラスの中から、澪を抱き上げた。
軽かった。
あの夜と、同じ軽さだった。
「……いぬがみ、さん……?」
澪が、薄く、目を開けた。
俺は、答えなかった。答えられなかった。喉は、まだ、獣のままだった。
ただ、彼女を、そっと、抱きしめた。
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第五話 夜明けの遠吠え
東の空が、白みはじめていた。
俺は、お台場の海岸に、座っていた。人間の姿に、戻っていた。傷は、まだ、血を滲ませていたが、じきに塞がるだろう。いつものことだ。
背後から、足音が近づいてきた。
「遅いわよ」
晶子だった。白衣の上に、薄いカーディガンを羽織っている。手に、魔法瓶を提げていた。
「迎えに来てくれたのか」
「迎えに来たんじゃないわ。鈴を、返してもらいに来たのよ」
俺は、首から、鈴を外した。ちりん、と、小さく鳴った。
「……あの音が、なければ、危なかった」
「そう」
晶子は、俺の隣に、腰を下ろした。魔法瓶の蓋を開け、熱いコーヒーを、紙コップに注ぐ。湯気が、潮風の中で、白く揺れた。
「篠宮さんは、無事よ。意識も、戻ったわ。封筒の中身は、警察と新聞社に、同時に届いた。研究所は、今朝から、家宅捜索が入る」
「そうか」
「栖川所長は、逮捕される。鷲尾という男も、ね。……あなたは、人を、殺さなかった」
「殺せなかっただけだ」
「そうかしら」
晶子は、静かに、俺を見た。
「あなたは、殺せたわ。でも、殺さなかった。それは、選んだのよ」
俺は、コーヒーを啜った。苦かった。
「あの老人は、言った。俺は、どちらにも、なれない、と」
「ええ」
「……それが、本当のことなら、俺は、どこに、帰ればいい」
晶子は、答えなかった。
ただ、海の向こうを、指さした。
水平線が、金色に染まりはじめていた。昇りゆく朝日が、波の上に、無数の光の粒を撒いている。西の空には、まだ、薄い月の残骸が、白く、淡く、浮かんでいた。
「見て」
「何を」
「月と、太陽が、同じ空にいるわ」
俺は、息を呑んだ。
「どちらかを、選ばなくてもいいのよ」晶子は、囁いた。「ひとつの空に、両方、あっていい。……あなたも、きっと、そう」
潮風が、吹いた。
俺は、何も、言えなかった。ただ、手の中の鈴を、強く握りしめた。
ちりん、と、澄んだ音が、朝の海に溶けていった。
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その日の午後、俺は、もう、街を歩いていた。
篠宮澪は、病院のベッドの上から、窓越しに、俺を見つけて、手を振った。俺は、片手を、軽く上げて応えた。それだけだった。言葉は、交わさなかった。
交わさなくて、よかった。
俺は、人混みの中へ、紛れていった。誰も、俺を、振り返らない。それでいい。それが、俺の、選んだ生き方だ。
次の満月まで、二十九日と、少し。
その間、俺は、また、人間の顔をして、この街を歩く。名前を、いくつも、使い分けながら。
そして、満月が来れば、また、一人で、遠吠えを放つ。
だが、もう、少しだけ、違う。
首に、小さな鈴を、下げているから。
迷ったとき、帰り道を、教えてくれる鈴を。




