1話 特別じゃなかった日
冬の朝の空気は、透明というより、冷たかった。
水守町は山に囲まれている。朝はいつも静かで、息を吐けば白くなる。創はその白い息を見ながら、小さい頃から同じことを思っていた。
(俺は特別だ)
そう思わせたのは、祖母だった。
祖母は毎年、正月が近づくと創を座敷に呼んだ。畳の上に正座させ、線香の匂いがする中で、優しく言う。
「創はね、水守さまに選ばれた子なんだよ」
小さな手を包むように握られながら、創は頷いた。
兄の蓮も隣にいたけれど、祖母が強く見つめるのはいつも創だった。
「この子は目が違う」
その言葉を、創は何度も思い出してきた。
小学校でも、心のどこかで思っていた。
(俺は神様になる)
怖いとは思わなかった。むしろ誇らしかった。町を守る存在になる。祭りで白装束を着る。皆が頭を下げる。
想像すると、胸が少し熱くなった。
中学二年の冬。
祖母が亡くなった。
葬儀のあと、家の空気は妙に静かだった。線香の匂いが消えない。
年末。家族会議が開かれた。
座敷に父、母、兄、そして創。
創は正座していた。背筋を伸ばして。
(ついに、言われる)
心臓がうるさい。
父が言う。
「今年の御年玉の儀式だが」
創は顔を上げる。
「蓮を第一候補とする」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
第一候補?
蓮?
横を見る。
兄は驚いていない。静かに頷いた。
「はい」
その声は落ち着いていた。
創の頭の中が白くなる。
「……え?」
思わず声が出た。
父が続ける。
「長男だからだ」
それだけだった。
説明は、それだけ。
長男だから。
それだけで。
創の胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
「でも……」
言葉が震える。
「おばあちゃんは、俺が」
祖母の言葉を出そうとして、喉が詰まる。
父は困ったように言う。
「母さんは創を可愛がっていた。それは事実だ」
可愛がっていた。
選ばれていた、じゃなくて?
「でも、水守さまの依代は、長男が継ぐ。それが五條家の決まりだ」
決まり。
創は畳を見つめた。
(じゃあ俺は何だった?)
祖母の言葉は?
あの視線は?
あの手の温かさは?
全部、勘違い?
兄が静かに言う。
「創、ごめん」
その一言で、創の中の何かが爆発した。
「謝るなよ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「兄ちゃんは悪くないだろ!」
立ち上がる。
頭が熱い。
「なんで長男ってだけで決まるんだよ! 俺だって——」
言葉が続かない。
努力?
祈り?
何をしてきた?
自分は、何をしてきた?
神様になる前提で生きてきただけじゃないか。
兄は静かに立ち上がり、創の前に立つ。
怒らない。
責めない。
それが余計に苦しい。
「創」
兄は言う。
「俺も、今日知った」
創は目を見開く。
「……え?」
「母さんと父さんが決めたんだ。祖母ちゃんが亡くなってから」
静かな声。
「俺、なりたくてなったわけじゃない」
創は混乱する。
兄も、選ばれたわけじゃない?
でも。
それでも。
「……でも、兄ちゃんは長男だろ」
それが全てだ。
創は次男だ。
どれだけ祖母に言われても。
制度の前では意味がない。
その夜、布団の中で天井を見つめる。
(俺は特別じゃなかった)
胸がじわじわ痛む。
怒りよりも、虚しさが勝つ。
今までの自分は何だった?
神様になる前提で、ちょっと周りを見下していなかったか?
“自分は選ばれている”という前提で、どこか安心していなかったか?
全部、崩れる。
数日後。
兄は白装束の練習を始めた。
町の人が来て、頭を下げる。
「蓮くん、頼むよ」
創はその光景を遠くから見る。
兄は、似合っていた。
悔しいくらいに。
町の空気が、兄を神様にしていく。
創は耐えられなくなる。
(ここにいたら、ずっと“二番目”だ)
神様になれなかった弟。
それが自分の肩書きになる。
それだけは嫌だった。
夜、兄の部屋に入る。
「俺、出る」
兄は振り向く。
「どこに?」
「東京」
言ってしまった。
衝動だった。
でも、口に出した瞬間、少し楽になる。
「父さんに言う」
兄は少しだけ目を細める。
「逃げるのか?」
創は固まる。
逃げる。
その言葉は正しい。
でも、違うとも思う。
「……選ぶんだよ」
自分でも驚く言葉が出た。
「俺、神様じゃなくていい」
兄はしばらく黙る。
そして、ほんの少し笑った。
「そっか」
否定しない。
止めない。
「創」
兄は言う。
「東京、晴れてるらしいぞ」
それだけだった。
背中を押すでもなく、引き止めるでもなく。
ただ、空の話。
それが兄らしかった。
数週間後。
創は東京行きの電車に乗る。
窓の外、山が遠ざかる。
胸はまだ少し痛い。
祖母の言葉も、兄の背中も、町の空気も、全部置いていく。
(俺は特別じゃない)
その事実を、まだ完全には受け入れられない。
でも。
(じゃあ、どうする?)
神様になれなかった。
じゃあ、人間として何になる?
電車がトンネルを抜ける。
空が少し明るくなる。
創は小さく息を吐いた。
「東京で、決める」
自分で。
初めて。
そう呟いた。




