第9話 「あんた……雰囲気変わったな」
クロムの実験室を後にした俺は、深夜の回廊を歩いていた。
足取りは軽い。軽すぎるほどだ。
意識せずとも、足裏が石畳の微細な凹凸を捉え、最適な重心移動を勝手に行う。
かつて北伐隊で極限まで鍛え上げた肉体が、まるで錆びついた鎧だったかのように思えるほど、今の身体は別次元の性能へと昇華されていた。
首筋に触れる。
熱を帯びていた『金色の紋様』は、今は皮膚の下に潜り込み、鳴りを潜めている。
だが、体内に張り巡らされた『液状魔金』の疼きが、俺がもう人間ではないことを絶えず告げていた。
(……腹が減ったな)
猛烈な飢餓感。
脳と神経の高速駆動は、体力・精神力を湯水のように消費するらしい。
俺は懐にねじ込んだ『青の鎮静剤』の小瓶を服の上から握りしめ、あてがわれた兵舎の大扉を押し開けた。
ギィィィ……。
錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
むっとするような男臭さと、湿った藁の匂い。
数日前までは、ただ不快でしかなかったその空気が、今の鋭敏すぎる嗅覚には暴力的な悪臭として突き刺さる。
部屋の中は静まり返っていた。
深夜だ。大半の兵士は眠っている。
俺は足音を殺し、自分のベッドへと向かおうとした。
「――ロッシ!」
暗がりから、銀色の影が飛び出してくる。
「っ!?」
反射的に迎撃の構えを取りかけ――寸前で踏みとどまる。
飛びついてきたのは、サメトナだった。
彼女は俺の胸に勢いよく衝突すると、そのまま俺の服をギュッと握りしめて見上げてきた。
「ロッシ!生きてたー!」
「お、おい……声がでかい」
「だって、全然帰ってこないしー!!」
こんな感情的な彼女は初めて見たかもしれない。彼女の瞳が、月明かりを受けて潤んでいる。
本気で心配していたのか。
無防備に近い距離。ふわりと漂う、彼女特有の甘い香り。
そして、俺の胸に押し付けられる柔らかい感触。
「う……」
カッと顔が熱くなるのが分かった。
俺はとっさに視線を逸らし、彼女の肩を軽く押し戻す。
「死んでない。……ちょっとした、強化手術を受けていただけだ」
「強化?…ま、ロッシが無事なら何でもいーや」
サメトナは破顔一笑、花が咲くように笑った。
その笑顔の破壊力に、俺の心臓は『金神経化』の副作用とは別の理由で早鐘を打った。
昔からそうだ。戦場の殺気には慣れていても、女性からの純粋な好意には、どう対応していいか分からない。
「そ、それより」
俺は誤魔化すように咳払いを一つし、部屋の奥へと視線を巡らせた。
同部屋の荒くれ者たちが、騒ぎに気づいて起き出し、こちらを窺っている。
中には、初日にサメトナへ下卑た視線を送っていたあの男もいた。
俺の目がすっと細まる。
「俺がいない間……彼女に、何もしてないだろうな?」
声のトーンを落とす。
それだけで、室内の温度が数度下がったような錯覚が生まれた。
男たちが一斉に青ざめ、首を横に振った。
「し、してねェよ!指一本触れてねェ!」
初日に絡んできたリーダー格の男が、震える声で答える。
「……本当か?」
「本当だ!信じてくれ!……あんたがあのサハギンの王とやり合って生き残ったって聞いて、手出しなんかできるわけねェだろ!」
「そうだ。俺たちゃ強ぇ奴には従うんだよ!」
男たちの目に浮かんでいるのは、明確な「畏怖」だった。
新入りへの侮りなど微塵もない。
猛獣の檻に放り込まれた小動物のような、生存本能に基づく恐怖。
「……なら、いい」
俺は威圧を解き、自分のベッドへと歩き出した。
男たちが、左右へ退いて道を開ける。
その時だ。
「……ロッシ」
リーダー格の男が、恐る恐る声をかけてきた。
「なんだ」
「あんた……雰囲気変わったな」
男は俺の顔ではなく、首筋のあたりを凝視している。
暗がりでも分かるのだろうか。皮膚の下で微かに脈動する、黄金の光が。
「……それが金神経化なんだな……」
男は言葉を選びあぐね、ごくりと喉を鳴らした。
「隣に立つだけで、肌がチリチリしやがる。……まるで、あのネオンの嬢ちゃんを見てるみてェだ」
俺は立ち止まり、男を見下ろした。
「地獄の底を見てきた。彼女の高みにはまだ至らない」
彼らは、俺に明らかに恐怖を滲ませている。それは人間に対する感情ではない。明らかに化け物に向けられたそれだった。
(それでいい)
俺は彼らの反応に満足し、サメトナの隣のベッドに腰を下ろした。
この力が、俺の方が復讐を成就させ、彼女を害する者への抑止力になるなら、俺は喜んで化け物でいよう。
「ロッシ、瞳がキラキラしてキレー」
張り詰めた空気を読まないサメトナだけが、無邪気に俺の瞳を覗き込んでくる。
誰も視線を合わせようとない。俺の目を。
俺は小恥ずかしくなり、目を逸らすと、軋むベッドに身を横たえた。
「も……もう寝ろ。明日は早い」
「はーい。おやすみ、ロッシ」
すぐに聞こえてくる彼女の寝息。
その安らかな音を聞きながら、俺は天井を見上げた。
視界の隅で、微細な塵がゆっくりと舞っている。
ここが俺の新しい日常。
0.01秒の世界で生きる、人外としての第一夜が更けていった。




