第8話 「それでこそ可愛い飼い犬だ」
……。
…………。
意識が、泥沼の底から急浮上する。
目を開けた瞬間、俺は世界が「壊れた」のかと思った。
視界に映るすべてのものが、奇妙なほど緩慢だったからだ。
天窓の隙間から差し込む光の中で舞う塵。それが、まるで水飴の中に閉じ込められたかのように、一粒一粒、軌跡を描いてゆっくりと浮遊している。
遠くで聞こえる羽虫の羽音。ブゥゥン……という低い音が、引き伸ばされたように間延びして鼓膜を打つ。
違う。世界が遅くなったんじゃない。
俺の知覚が、異常なほど加速しているんだ。
「――ッ」
身体を起こそうとした。
ほんの少し、指先に力を込めたつもりだった。
だが次の瞬間、俺の視界は90度回転し、背中が硬い石畳に叩きつけられていた。
ドガンッ!!
派手な音が響き、俺が寝かされていた石の寝台から、拘束用の革ベルトが引きちぎれて宙を舞っている。
「……は?」
俺は状況が飲み込めず、床に手をついた。
たった今の動作。俺はただ「起き上がろう」としただけだ。
脳が指令を出した瞬間に、筋肉が爆発的に反応し、俺の思考速度すら置き去りにして肉体が動いたのだ。
ズレがない。いや、なさすぎる。
「ヒャハッ!お目覚めかネェ、実験体くゥン!」
耳障りな甲高い声。
開発院長、クロムだ。
奴は部屋の隅で、破壊された拘束具を見て恍惚の表情を浮かべている。
「素晴らしい!術後すぐの覚醒でその反応速度!神経の定着率は予想以上だヨ!」
クロムが煤けた白衣の袖をまくりながら、獲物を見る目で近づいてくる。
「さァて、意識がハッキリしたところで品定め(テスト)といこうかァ!」
奴の手がブレた。
何の前触れもなく、懐から銀色の何かを取り出し、全力で俺の眉間めがけて投げつけてきたのだ。
殺す気か。
だが――
(……なんだ、これ)
俺の目には、その投擲が、まるで子供の石投げ遊びのように見えた。
回転しながら迫る銀色の物体。
解剖用の小刀だ。
刃先についた僅かな血痕。柄に刻まれた滑り止めの溝。錆びついた鉄の質感。
それらが、鮮明な「絵画」の連続として脳裏に焼き付けられる。
俺はゆっくりと右手を上げた。
指を開き、小刀の軌道を予測し、柄の部分を掴む。
パシッ。
乾いた音が、一拍遅れて聞こえた。
「……危ないだろうが」
俺は指に挟んだ小刀を、無造作に投げ返した。
手首のスナップだけで放たれたそれは、空気を切り裂く鋭い音と共に、クロムの頬をかすめ、背後の分厚い石壁に深々と突き刺さった。
「アヒャッ……!」
クロムの頬から、遅れてツー……と血が流れる。
だが、この狂った錬金術師は、恐怖するどころか、裂けた口を耳まで吊り上げて笑った。
「ヒヒッ……ヒャハハハハ!見えたのかい!?今のが!!」
「あくびが出るほど遅かったぞ」
「最高だ!思考加速による主観時間の拡張!運動神経への超高速伝達!まさに『金神経化』の真髄だァ!」
クロムは踊るように手を叩く。
「じゃあ次は、魔法に対する反応速度を試させてもらおうかネェ!」
クロムが白衣の下から、短い杖を取り出した。
先端に赤い魔石が埋め込まれた、軍用の魔導杖。
「行くぞォ!《火球》ッ!」
詠唱破棄。至近距離からの即時発動。
本来なら、見てから避けることなど不可能なタイミング。
だが、今の俺には「視え」ていた。
クロムが杖を構えた瞬間、大気中の魔素が杖の先端に収束していく流れが。
黄金の粒子のような光が渦を巻き、熱量へと変換されるプロセス。
その全てが、手に取るように分かる。
(来る――)
俺の首筋から右頬にかけて、皮膚の下を走る『金色の紋様』が、カッと熱く脈動した。
バチチッ!!
脳髄で何かが弾ける音。
俺の意識が、肉体の限界を超えて加速する。
床を蹴る。
石畳が踏み込みの衝撃で砕け散る感触。
ドォォォォンッ!!
クロムが放った火球が、俺のいた場所に着弾し、爆炎を上げた。
狭い実験室が煙に包まれる。
「あれェ~?やりすぎちゃったかナァ?貴重な成功例だったのに」
クロムが煙を払いながら、煤けた顔で俺の死体を探す。
俺は、奴の背後に音もなく着地していた。
「……何を探している」
「オホォ!?」
クロムが驚きのあまり飛び上がり、振り返る。
俺は奴の鼻先に、人差し指を突きつけていた。
(魔法の発動より、俺の足の方が速かった)
爆風が届くよりも早く、俺は奴の背後に回り込んでいたのだ。
刹那の世界。
瞬き一つが永遠に感じるほどの知覚領域。
これなら、あのサハギンの王だろうが、ネオンだろうが――対等に渡り合える。
圧倒的な全能感。
俺は自分の手を見つめ、震えるほどの歓喜に打ち震えた。
力が溢れてくる。人間というちっぽけな器から、何かが溢れ出しそうだ。
「く、ククク……化け物だネェ……。まさか初期段階で『魔力視』まで開眼するとは……」
クロムが感極まった声で呟く。
「素晴らしい……実に素晴らしいヨ、ロッシ君。君は最高傑作の一つダ」
「ああ。礼を言うぞ、院長。これで俺は――」
戦える。そう言いかけた時だった。
ドクンッ。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「ガッ……!?」
唐突に、視界が真っ赤に染まった。
頭蓋骨の内側から、焼き火箸を突き刺されたような激痛が走る。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!」
俺はその場に膝をつき、頭を抱えて絶叫した。
熱い。熱い!
全身の血管に流し込まれた『液状魔金』が、俺の神経を食い荒らしている。
力が制御できない。
金色の紋様が暴走し、バチバチと音を立てて周囲の空気を焦がす。
脳が沸騰する。
思考が溶ける。
自我が、金色の濁流に飲み込まれて消滅していく恐怖。
「おやおや、熱暴走かい?早いネェ」
苦痛にのたうち回る俺を見下ろし、クロムは愉悦に満ちた声で言った。
奴はポケットから小さな小瓶を取り出し、チャリチャリと振ってみせる。
「言っただろォ?代償はあるって」
クロムが小瓶から取り出したのは、鮮やかな青色の丸薬。
《青の鎮静剤》。
「ほラ、餌だヨ。これを飲まないと、君の脳みそは煮崩れた麦粥になっちゃうからネェ」
奴は丸薬を床に放り投げた。
俺は這いつくばり、犬のようにそれに飛びついた。
プライドも何もない。ただ、この地獄のような苦痛から逃れたい一心で、震える手で丸薬を拾い、口に放り込む。
ガリッ。
噛み砕いた瞬間、苦味と共に、冷水のような清涼感が脳髄に広がっていった。
暴れ狂っていた黄金の熱が、急速に沈静化していく。
呼吸が整い、視界がクリアになる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
俺は汗だくになりながら、冷たい石床に大の字になった。
生きている。
だが、分かってしまった。
俺が得たこの神ごとき力は、この小さな青い薬がなければ維持できない、借り物の力なのだと。
この薬を握られている限り、俺はこの狂った院長と、島の支配者に飼われ続けるしかない。
「ヒヒッ……いいザマだネェ。それでこそ可愛い飼い犬だ」
クロムが俺の顔を覗き込み、頭を撫でる。
屈辱で奥歯が砕けそうだ。
だが。
俺は拳を握りしめ、手のひらに残る小刀の感触を確かめた。
(……構わない)
飼い犬で上等だ。
薬漬けの改造人間で結構だ。
あの刹那の世界。
人間を辞めなければ届かない高み。
その領域に立てるなら、俺は魂だって悪魔に売り渡してやる。




