第47話 「……交渉といこうか、魔王」
そこは、死闘の果てにあるべき静寂ではなく、おぞましい羽音の嵐に包まれていた。
追い詰められた魔王リムガルド。彼女が玉座の間で高らかに指を鳴らした、その瞬間のことだ。
ズズズ、ゴゴゴゴゴゴ……。
地鳴りのような振動と共に、玉座の間の壁、天井、そして床に至るまで、視界を埋め尽くしていた幾何学的な六角形の模様――ハニカム構造の蓋が、一斉に開いたのである。
「ギチチチチ……」
「キシャァァァ……」
「ブブブブブブブ……」
現れたのは、数千、いや数万を超える蟲の群れだった。孵化したばかりの白く蠢く幼虫から、外骨格が固まり始めた兵隊アリのような成虫、さらには自爆袋を抱えた羽虫まで。この魔王城『ハイヴ』そのものが、巨大な一つの巣であり、壁の一枚一枚が彼らの寝床だったのだ。壁一面が波打つように蠢き、無数の複眼が、侵入者である俺たちを一斉に睨みつけている。
その殺気の密度は、空気すらも粘りつくように変質させていた。
「さぁ、これ以上やるつもり?!」
リムガルドが叫んだ。その表情は必死であり、同時に狂気的な母性に満ちている。ハイヴ・アウェイクニング(蜂の巣の覚醒)。それは、魔王城戦を総力で決する女王の切り札だった。
「……ッ」
俺は拳を構えたまま、動きを止めた。隣では、殺意の塊となっていたネオンも、ピタリと動きを止めている。サメトナも、噛み砕きかけていたムカデ将軍の頭をポロリと落とした。
物理的な「詰み」だ。俺たちは強い。個々の戦闘力なら、魔王を除く、この場の誰よりも強いだろう。だが、この閉鎖空間で数万匹の特攻を受ければ、流石に命は無いだろう。サメトナの殻に逃げ込んだとしても、今度は出る機会を永遠に失うだろう。
戦況は膠着し、強制的な停戦へと持ち込まれた。静まり返る玉座の間。聞こえるのは、無数の蟲たちの羽擦れの音と、俺たちの荒い呼吸音だけ。
「……交渉といこうか、魔王」
俺は両手を挙げると、リムガルドもまた、荒い息を整えながら睨み返してきた。彼女の美しい金色の肌が、汗と血で汚れている。だが、その瞳に宿る光は、戦闘中の殺意とはまた別の、ねっとりとした光へと変質し始めていた。
「……貴様らのせいで、優秀な将軍や子供たちが減ってしまったわ。私の自慢のコレクションが台無しよ」
彼女は周囲に転がる将軍たちの残骸――サメトナに食い荒らされ、ネオンに切り刻まれた肉塊――を見渡し、忌々しげに唇を噛んだ。
「この損失、どう埋め合わせるつもり?」
リムガルドは鋭い爪の先を、ビシッと俺の鼻先に向けた。
「減った分は、また産まねばならない。それも、以前より強く、優秀な個体を。……そのためには、強い遺伝子を持つ『父親』が必要なのよ」
彼女の視線が、俺の身体をねめ回す。それは捕食者の目であり、同時に発情した雌の目でもあった。
「だから、貴様の種をよこしなさい」
直球すぎる要求だった。要するに、「私の子供を産ませてやるから、大人しく私の寝室へ来い」ということだ。俺を殺すのではなく、生かして飼い殺しにし、死ぬまで搾取し続けるという宣言。
「……」
俺は思考を巡らせた。本来なら断固拒否だ。誰が好き好んで、蟲の女王の苗床にならねばならないのか。だが、ふと、アムニオンを出発する際の、エイニヒツ所長の冷徹な顔と言葉が脳裏をよぎった。
――『今回の目的は、魔王領に住まう魔族達の身柄、あるいは希少な高位魔族を「生きたサンプル」として手に入れることだ。手段は問わん』
任務。俺の脳内で弾き出した答えは「是」だった。
この状況下で戦闘を再開すれば、全滅のリスクは極めて高い。だが、もし俺が彼女の要求を呑めばどうなる?彼女は俺の種を使って、強力な「子供」を産むことになる。それをアムニオンへ「養育費」代わりとして送れば、任務達成ではないか?俺一人の貞操と引き換えに、国の借金返済と任務達成、さらにはこの場からの生還が約束されるのなら……。
管財人としての俺が囁く。安いものだ、と。
「……いいだろう」
俺は覚悟を決めて頷いた。その言葉に、リムガルドが驚いたように目を瞬かせる。
「ただし条件がある。生まれた子供……希少な高位魔族を、アムニオンへの『検体』として提供してくれるなら、その要求を呑もう」
「はぁ!?」
真っ先に金切り声を上げたのは、隣にいたネオンだった。彼女は血走った目で俺の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。
「何言ってんのロッシ!?死にたいの!?頭おかしくなったの!?ボクというものがありながら、あんな蟲女に……ッ!」
嫉妬と独占欲で狂乱するネオン。だが、俺はそれを片手で制し、冷静さを保つ。これはビジネスだ。しかし、他のメンバーの反応は、俺の予想の斜め上を行っていた。
「んー」
サメトナが指を咥えて、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、その次にワタシと繁殖しよ」
「二番手の女!?」
ネオンが反射的にツッコむ。サメトナにとって、繁殖とは食事の延長のようなものらしい。順番待ちができるあたり、妙に理性的で腹が立つ。そして、もう一人の狂人はといえば。
「わ、私はっ……見てるだけで……いえ、実況解説を……ッ!ああっ、想像しただけでイッてしまうわ!!」
ドロレスは顔を真っ赤にし、両手で頬を押さえてくねくねと身悶えしていた。
「強制的なまぐわい……種族を超えた愛……そして搾り取られる勇者の種……!なんて背徳的!なんてエロティック!!ああっ、私の鼻から、鼻から生命の赤き泉が……ッ!」
ブフォッ!!ドロレスは鼻血を噴水のように吹き出し、その場に崩れ落ちて痙攣し始めた。相変わらず役に立たない上に、場の空気をカオスに叩き落とす天才だ。
「フン、なんだ……貴様らもコイツの種が欲しいのか。浅ましいメス共め」
その様子を見て、リムガルドがサディスティックに笑った。勝ち誇ったような笑み。だが、その瞳はどこか潤み、頬は紅潮し、足は小刻みに震えている。彼女もまた、限界だったのだ。自身を追い詰め、屈服させかけた「強いオス」を手に入れられるという事実に、女王としての威厳とメスとしての本能がせめぎ合っている。
パチン。
彼女が指を鳴らすと、玉座の裏にある巨大な隠し扉が、重々しい音を立てて左右に開かれた。
漏れ出してくるのは、戦場には不釣り合いな、淫靡なピンク色の光。そして、脳を直接揺さぶるような、甘ったるいフェロモンの香り。そこは、魔王の寝室。数多のオスが吸い込まれ、二度と戻ってこなかった禁断の閨。
「いいだろう。貴様らは……余興だ」
リムガルドは妖艶に手招きをした。その背後には、天蓋付きの巨大なベッドが鎮座しているのが見える。
それは、甘い夜の誘いなどではない。性欲と独占欲、そして食欲が入り乱れる、仁義なき『王の寵愛争奪戦』の開幕の合図だった。
「私の寝室を開放してやる。……そこで誰が一番最初にコイツの『一番』になれるか、競うとしようじゃないか」
瞬間。ネオンの目の色が変わった。サメトナが口元の涎を拭った。ドロレスが奇跡的な速度で復活し、這いつくばる体勢を取った。
俺は、青ざめた。ハイヴ・アウェイクニングの脅威は去ったかもしれない。だが、代わりに始まったのは、もっとタチの悪い地獄だった。
「……待て、話が違」
俺の静止の声は、女たちの咆哮にかき消された。
「どけ蟲女ェェェェッ!!ロッシは私のものだァァァッ!!」
「巣に一番乗りー!」
「ボロ雑巾にしてくださいましぃぃぃ!!!」
雪崩れ込む狂気。視界が、淫靡なピンク色の闇へと塗りつぶされていく。俺は抵抗する間もなく、巨大な天蓋付きベッドという名の処刑台へと引きずり込まれた。
バタンッ!!
扉が閉まる音。それが、俺の人間としての尊厳が閉ざされる音だった。




