第44話 「よく来たわね。……私の愛しい『種馬』」
「……」
「…………」
「……き……。き……ろ」
遠くで、誰かが呼んでいる。
波の音ではない。風の音でもない。
もっと平坦で、感情の希薄な、けれど聞き覚えのある幼い声。
「起きろー」
サメトナだ。
ガバ、と体を起こした瞬間、鉛のような倦怠感が全身を襲った。
視界がぐらりと揺れる。平衡感覚がない。
頭の奥でガンガンと鐘が鳴っているような頭痛。以前、アムニオンに拉致された時にも似たようなことがあった気がする。
「……ッ、ここは」
俺を見下ろすサメトナの背後に見えたのは、あの吹雪く空でも、テントの布地でもない。
冷たく湿った、石造りの天井だった。
壁も、床も、黒ずんだ石と、何かの粘液で固められている。
石造りの天井?
このパターン。まさか……。
「捕まったよ。ボクたち」
部屋の隅で、ネオンが壁にもたれかかり、悔しそうに顔をゆがめていた。
彼女の手首は、白く太い糸で幾重にも巻かれている。
「……捕まった?」
「魔王領で捕まった。つまりそれは、魔王リムガルドに捕縛されたということ」
ネオンが吐き捨てるように言う。
俺は周囲を見渡した。
そこは巨大な地下牢だった。
俺とネオン、サメトナ、ドロレスの四人のほか、同じ牢屋の奥には、今回の再結成された『北伐隊』の面々も押し込められている。
「……あ、目が覚めましたか、隊長」
「昨晩は、さぞかしお楽しみでしたねぇ」
兵士の一人が、諦めと若干の皮肉、そして絶望の入り混じった表情で俺を見た。
「……まさかあのロッシ殿まで、女に現を抜かした挙句に捕まるとは」
彼らの視線は冷ややかだ。
無理もない。俺のテントには、サメトナ、ネオン、そしてドロレスが居た。
そこでドロレスが一晩中「ああんっ♥」「もっと踏んでぇ!」「熱い、熱いですわぁ!」などという変な声を上げていたのだ。
何か決定的な勘違いをされている気がする。
(違う……。あれはただの暖房器具だ……)
俺は弁解しようとして、口を閉じた。
真実を話したところで、「人間をストーブにして暖を取っていました」などと説明すれば、それはそれで倫理観を疑われるだけだ。
それにしても、なぜ捕まったのか。
記憶を辿る。
唯一の熱源だった俺達のテント。外はマイナス数十度の極寒。
最初は交代でドロレスを殴って発熱させていたのだが、心地よい蒸気と疲労で、俺を含め、馬鹿を殴る係が全員寝落ちしてしまったのだ。
燃料供給(暴力)を絶たれたストーブは停止し、俺たちはそのまま凍えて意識を失い――気付けばここ、というわけか。
「あぁっ!!こんなところに押し込めて!拘束して、何をするの!?」
突然、隣で身をよじらせる音がした。
ドロレスだ。
彼女だけが、全身を蜘蛛の糸で亀甲縛りのように拘束され、床に転がされている。
「薄暗い地下牢……湿った空気……そして自由を奪う粘着質の糸……ッ!これから私に、何をしてくれるのかしらっ!?期待で胸が張り裂けそうですわぁぁンッ♥」
こんな絶望的な状況でも相変わらず、うるさい馬鹿が一人。
その頬は紅潮し、恐怖ではなく期待に打ち震えている。
「はー、アイツまじ殺したい。癇に障る」
ネオンが殺意のこもった目でドロレスを睨む。もし手が自由なら、即座に喉を搔き切っていただろう。
「だめ」
サメトナがぼんやりと口を挟んだ。
「なんでよサメトナ。あんなの生かしておいても恥なだけじゃん」
「でも、帰りも寒いから必要。ストーブないと凍っちゃう。……帰ったら、食べよ」
恐ろしいことを二人で語り合っている。
俺の頭痛が悪化した、その時だった。
カサカサカサカサッ……。
無数の足音が廊下に響き渡り、牢屋の前に巨大な影が現れた。
上半身は黒い甲冑を纏ったような女、下半身は巨大な蜘蛛。
魔将軍アラクネ。
「ギチチ……目覚めたか、哀れな獲物たちよ」
アラクネは複眼をギラつかせ、蜘蛛の糸でできた格子を何らかの方法で歪め、中へと入ってきた。
そして、その長い脚を伸ばし、奥にいた北伐隊の兵士の一人を、まるで人形のように掴み上げた。
「う、うわああああッ!?やめろ!離せ!!」
「ロッシ隊長!助けてくれぇぇ!!」
兵士が泣き叫ぶ。
だが、俺は拘束され、武器もなく、身動きが取れない。
「騒ぐな。……女王陛下の子供たちが、お腹を空かせているのでな」
アラクネは無慈悲に兵士を引きずり出し、廊下の向こうへと放り投げた。
直後。
ギャアアアアアアッ――!!
グチャッ、バキッ、ムシャムシャムシャ……。
断末魔の叫びと、何かが硬いもので砕かれ、咀嚼される生々しい音が響き渡る。
隣の区画は、孵化したばかりの幼虫たちの巣になっているのだろう。
「ひっ……!」
「た、助けて……」
残された兵士たちが顔面蒼白になり、震え上がる。
かつての悪夢が蘇る。部下が、仲間が、ただの餌として消費されていく光景。
「やめろ!!」
俺は声を張り上げ、鉄格子に体を叩きつけた。
「俺にしてくれ!その男は痩せっぽちだ、食ってもうまくはない!俺を連れて行け!」
勇者としての矜持か、それとも管理者としての責任感か。
俺は叫んでいた。
だが、アラクネは俺を見て、侮蔑と興味の混じった笑みを浮かべた。
「ギチチ……殊勝な心がけだ。だが安心しろ。お前は『餌』ではない」
アラクネの腕から放たれた糸が、俺の首に巻き付き、強引に引き寄せられる。
「お前は……リムガルド様がお呼びだ」
「なっ……!」
蜘蛛の糸の格子が開かれ、俺だけが外へと引きずり出される。
「ロッシ!!」
ネオンが悲鳴のような声を上げた。
血管が切れそうなほど力を込め、拘束された糸を引きちぎろうと暴れる。
「離せ!ロッシはボクの獲物だ!その汚い脚で勝手に触るなァァァ!!」
「ロッシ、ロッシ……!」
サメトナもまた、糸で巻かれたまま蜘蛛の糸の格子に噛みつき、ガリガリと凄まじい音を立てて齧っている。しかし、魔力強化されたアラクネの糸の檻は、全く食い破れない。
「あら!?私は!?私は呼んでらっしゃらないの!?こんなに準備万端ですのにーッ!?」
ドロレスだけが、自分がないがしろにされたことに絶望して叫んでいる。
「待っていろ。すぐに戻る」
俺はネオンたちに短く告げ、アラクネに連行された。
背後から聞こえる、咀嚼音と仲間のうめき声に、奥歯が砕けるほど噛み締めながら。
■ ■ ■
連れて行かれたのは、城の最奥。広大な『玉座の間』。
重厚な扉が開かれる。
甘い、むせ返るような香りが鼻をついた。
「よく来たわね。……私の愛しい『種馬』」
正面の玉座。
そこに、彼女はいた。
靭やかな黄金の肌を持つ、妖艶な肢体を組んで座る、北の支配者。
魔王リムガルド。
その周囲には、数名の幹部魔族たちが、殺気を放ちながら控えている。
だが、リムガルドの瞳は、それら全てを無視して、ただ一点。
縛られ、引きずられてきた俺だけを、ねっとりとした熱視線で見つめていた。




