第37話 「断る」
一年ほど前。北の魔王リムガルドの領地、極寒の地『ノーストラム』。その白銀の雪原で、俺たちは地獄を見ていた。
道中の、嘘のような静けさは罠だったのだ。俺たち北伐隊がこのお膝元まで進軍できたのは、俺たちの力が通じたからではない。魔王にとって、それはただの遊びであり、獲物を巣の奥まで招き入れてから無残に殺すための演出に過ぎなかった。
一体ですら厄介な蟲竜が、昼間の太陽を覆い隠すほどに空を埋め尽くしている。俺たちは逃げ場のない雪原で、徐々にその餌食となっていった。
一人が空へ連れ去られ、二人が生きたまま咀嚼される。
国を想い勇敢に志願した者、喰いぶちを稼ぐために剣を取った者、故郷の家族や愛する者を守ろうと必死だった者。ノーストラムまでの過酷な道中、苦楽を共にした仲間たちは、それぞれの事情や想いなど関係なく、何の感情もなく等しく肉塊として喰い殺されていく。
自らの、そして人間の脆弱さに打ちひしがれる俺の前に現れたのは、奴、『ヴェスピッド』だった。
「我が子、ヴェスピッド。私にも養分を届けるのだ」
遥か彼方、氷で作られた高台の王座。そこに幹部らとともに鎮座する黄金の魔族の女。他の将軍たちと比較しても魔力量が桁違いだ。奴こそが、北の魔王リムガルド。その指示を受け、女の傍らにいた一体が、高台から落下するように飛び出した。地面擦れ擦れを滑空し、爆音のような羽音を立てて俺達の目の前へと飛来する。
生き残ったわずかな北伐隊の頭上に静止し、ゴミを見るかのように見下ろすヴェスピッド。
圧倒的な存在感。それまで襲いかかっていた蟲竜達の攻撃がピタリと止み、空中の群れの渦の中へと戻っていく。そこから始まったのは、あまりにも一方的な蹂躙だった。
空中からの視認できない刺突と、風の刃による斬撃。そして、空高く舞いあげてからの落下死。こちらの攻撃も魔法も、奴の甲殻には傷一つつけられない。
「ロッシ!!たすけっ!!」
面倒を見ていた弟分が上空に連れ去られ、悲鳴と共に落下して氷の大地の赤い染みとなる。
「くそがぁぁぁ!!!」
隊一番の巨躯を誇る勇猛なタンクの仲間が、毒針の一撃を受け、身体をボコボコと不気味に変形させながら弾け飛ぶ。
「来ないで!!来ないッ!!」
紅一点の魔術師の首が、鋭利な羽の斬撃を受けて雪原に転がった。
「……他はリムガルド様の養分にもならん。お前くらいか」
そうして奴は、なすすべもなく震える剣を構えていた俺を、最後の標的としたのだった。
■ ■ ■
ヴェスピッドが、あの時と同じように巨大な毒針を向けて急降下してくる。そのプレッシャーは、かつての俺なら恐怖で足がすくんでいただろう。
だが。
「……遅いな」
今の俺には、その絶望的な死の突撃が、止まって見えた。
「サメトナ!」
「ん!わかった!」
俺の合図と共に、蟲竜と戯れていたサメトナが、矢のような速度でヴェスピッドの背後に飛びついた。
「特大の虫取りー!」
パカァッ!彼女の小さな両腕がメキメキと音を立てて膨張し、瞬く間に巨大な二枚貝の殻へと変質し、巨大な顎となったその腕が、ヴェスピッドの巨体を左右から挟み込んだ。
「な、なんだこれは!?ガキが!!離せッ!!」
ヴェスピッドが必死に藻掻く。だが、絶対防御を誇るサメトナの貝殻の万力は、魔将軍の怪力程度ではビクともしない。完全に動きを封じられた将軍の目前に、俺は真正面から突っ込んだ。《金神経》と《魔族の心臓》により、世界が極限まで遅延し筋肉が躍動する。
「これで終わりだ。……過去の亡霊!」
今、この瞬間に考えた即興の処刑技。
「真珠閉棺ッ!!」
ズパァァァァァンッ!!
サメトナによる絶対拘束と、俺の神速の居合いが交差する。銀閃が奔り、一瞬の静寂が訪れた。
直後、魔将軍ヴェスピッドの身体は、脳天から股下まで鮮やかに両断された。左右に分かれた肉塊が地面に落ちる――その寸前。
「いただきまーす」
パクッ。
サメトナの両腕の殻が、空中でその両方をキャッチし、完全に閉じた。
ズドォォォォン……!
サメトナ入りの巨大な二枚貝が、重量感たっぷりに広場の中央へ落下し、土煙を上げる。閉ざされた殻の中からは、「バリッ、ボリッ、グチャ」という、硬い甲殻と肉をすり潰す咀嚼音だけが漏れ聞こえてきた。
俺は血振るいをして、カチンと剣を納めた。
「…………」
広場が静まり返る。圧倒的な静寂。だが、それはすぐに爆発的な熱狂へと変わった。
「う、うおおおおおおッ!!」
「勝った……!魔王軍の将軍を、一撃で!?」
「勇者ロッシ万歳!聖女(?)サメトナ万歳!」
「ロッシ様について行けば助かるんだ!!」
熱狂。崇拝。依存。魔王軍の将軍をゴミのように葬り去った、圧倒的な武力と暴食。極限状態にあった民衆の目には、俺たちが神の使いか、あるいはそれ以上の超越者に見えているのだろう。
「俺に従えば助かる」
その事実が視覚的に、これ以上ない形で証明された瞬間だった。広場を埋め尽くす民衆の瞳から理性の光が消え、代わりに狂信的な色が宿る。国全体が、俺という絶対者を崇める一種の「ロッシ教」へと染め上げられた瞬間だった。
■ ■ ■
戦闘終了後。王城の一室で、国王が俺の手を両手で握りしめ、目を潤ませていた。
「素晴らしい……!まさに救国の英雄だ!」
国王は、かつての俺の戦いぶりと、今の隔絶した強さを比較し、極限状態の中で完全に思考を書き換えていた。この男こそが、この国に必要な絶対的な統治者なのだと。
「ロッシよ!頼む!この国の王になってくれ!儂は喜んで王位を譲ろう!」
「そうだ!ロッシ様こそ王にふさわしい!」
側近たちも同意し、玉座を明け渡そうとする。だが、俺は冷めた目で彼らを見下ろし、その手を払いのけた。
「断る」
「な、なぜだ!?」
「行政に興味はない。書類仕事や税の計算など、退屈すぎて反吐が出る」
俺は玉座に座る代わりに、その背もたれに足をかけ、傲然と言い放った。
「面倒な仕事はお前や貴族共で全部やれ。俺は『管理』をするだけだ。……精々、俺たちの資源を無駄にしないよう、懸命に働けよ?」
俺の言葉に、王は呆然としながらも、どこか安堵したように何度も頷いた。こうして、スクーティア王国は名実ともに、アムニオン島の「植民地」として生まれ変わることになったのだった。




