第30話 「スクーティア王国を掌握しろ」
サメトナを連れ去った『蒼い光』。その爪痕は、俺たちの想像以上に深く、そして致命的だった。
島を襲った未曾有の津波は、沿岸部に位置していた補完院の重要区画――『畜産部』と『農耕部』を根こそぎ海へと押し流したのだ。備蓄されていた食料庫は全壊。家畜は全滅し、畑は塩水に沈んだ。加えて、実験機材や資材の多くも流失。この島、アムニオンは今、設立以来最悪の食糧危機と物資不足に直面していた。
「――状況は理解したな、ロッシ」
管理棟の最上階。エイニヒツ所長は、眼下に広がる破壊された島の惨状を見下ろしながら、淡々と言った。
「島にはもう、我々の胃袋を満たすだけの『資源』がない。早急に外部から調達する必要がある」
「……調達、ですか」
「そうだ。だが、金で買うなどという悠長な手段は取らん。そもそも、この島は世界に存在しないはずの場所だ」
エイニヒツが振り返る。その瞳には、倫理など欠片もない、冷徹な計算だけが光っていた。
「キジルが死に、王都は混乱の極みにあるはずだ。……スクーティア王国を掌握しろ。そして、あの国にある物資、金、あるいは『人間(労働力)』を、この島へ供給するのだ」
国家の乗っ取り。あまりに壮大な命令…だが。
「……北からは、魔王リムガンドの軍勢が迫っています。国を奪ったところで、維持できる保証はありませんが」
「些末なことだ」
エイニヒツは鼻で笑った。
「魔王ごとき、私がいる限りこの島には手出しできん。お前はただ、私の庭を維持するための肥料を運んでくればいい」
圧倒的な自負。だが、俺は知っている。この男が言うなら、それは事実なのだと。
「……承知しました。直ちに準備を」
「待て」
俺が踵を返そうとした瞬間、空気が変わった。重力が数倍になったかのような圧迫感。
「ロッシ。……君は、優秀だ。サメトナを失い、ネオンが復興作業に追われている、君はこの島になくてはならない存在だよ」
エイニヒツが、空間を掴むようにゆっくりと右手を持ち上げた。
「だが、忘れるな。君という存在が誰によって生かされているのかを」
ギュッ。
エイニヒツが何もない空間を握りしめた。
「ぐ、あぁぁぁぁっ……!?」
激痛。胸の中央に埋め込まれた《魔族の心臓》が、見えない掌で締め上げられるような感覚。血管を流れる魔力が逆流し、全身の神経が焼き切れるほどの痛みが走る。
「が、はっ……しょ、ちょ……う……ッ!?」
俺は床に膝をついた。脂汗が噴き出す。視界が明滅する。殺される。心臓を、物理的にではなく、概念的に握り潰されている。
俺は本能的に剣へ手を伸ばし、殺気を放って抵抗しようとした。だが。
「ふむ。出力は安定しているな」
エイニヒツは、俺の抵抗などそよ風ほどにも感じていなかった。涼しい顔で、ただ検体を確認するように俺を見下ろしている。その姿は、あまりにも遠かった。魔王リムガンド。あるいは、サメトナを連れ去った『イル様』。この男もまた、それらと同等の……『神』に近い領域の怪物なのだろうか。
パッ。
エイニヒツが手を開くと、嘘のように激痛が引いた。
「その心臓を奪われたくなくば、期待に応えてみせろ。……行け」
「は、はぁ……はっ……!!」
俺は震える足で立ち上がり、深く頭を下げた。恐怖?いや、違う。俺の胸に去来したのは、奇妙な高揚感と感謝だった。これほどの力を持つ男が、俺を必要としている。俺にこの最強の身体を与え、居場所をくれた。ならば、その期待に応えるのが『作品』としての義務だ。
「……必ずや、吉報を」
俺は狂気的な忠誠を胸に、執務室を後にした。
■ ■ ■
港には、以前と同じボロ商船が停泊していた。
見送りはない。ネオンは瓦礫の撤去と防衛設備の修復に駆り出され、文字通り不眠不休で働いている。サメトナは……もういない。
今回は、たった一人での遠征だ。
潮風が頬を撫でる。監視役もついてこない。船に乗ってしまえば、俺は自由だ。その気になれば、スクーティア王国どころか、別の大陸へ逃亡することだってできる。
俺は自身の胸に手を当てた。ドクン、と脈打つ魔族の心臓。そして、定期的に摂取しなければ暴走する身体。確かに、俺はこの島なしでは生きられない。
だが、それ以上に――。
「……逃げる?馬鹿なことを」
俺は自嘲気味に笑った。人間としての尊厳を奪われ、怪物にされ、地獄を見た場所。だが、ここには俺を理解する狂人たちがいて、俺を必要とする主がいる。
「ここが、俺の『家』だ」
俺は迷うことなくタラップを上り、船上の人となった。目指すは故郷、スクーティア王国。だが、今回の俺は「復讐者」ではない。主のために国を食らい尽くす、「侵略者」として土を踏むのだ。
「出航だ。急げ」
俺の命に、船員たちが慌ただしく動き出す。遠ざかる島影を見つめながら、俺は仮面の奥で静かに目を細めた。
待っていろ、王都。地獄の続きを始めよう。




