第29話 「さようなら」
上空を覆い尽くす、神経に障る羽音の共鳴。耳障りな咆哮が、警報音をかき消して島中に響き渡る。
「……やはりな」
俺は眼下に広がるその光景を睨みつけた。
ガラス細工のような四枚の翅に、毒々しい紫色の甲殻。そして、獲物を引き裂く鋭利な顎と、尾に備わった太い毒針。
「あれは北伐隊として俺が戦った、北の魔王『リムガルド』軍の尖兵……蟲竜だ」
かつて俺が所属していた騎士団を壊滅寸前まで追いやった、空の殺戮者たち。それが雲霞の如く押し寄せている。
「へぇ。あれが噂の羽虫?思ったより脆そうだね」
隣でネオンが、指の骨を鳴らした。恐怖など微塵もない。あるのは、獲物を前にした捕食者の歓喜だけだ。
「じゃあロッシ、半分ずつね。競争しよ?」
「……勝手にしろ。遅れるなよ」
俺とネオンは、同時に地面を蹴った。ドォォォンッ!!爆発的な加速。俺たちは重力を無視するかのように、垂直な岸壁を駆け上がり、空中の敵陣へと突っ込んだ。
「ギチチチチッ!?」
先頭のワイバーンが反応する間もなかった。ネオンの姿がブレた瞬間、ワイバーンの首が物理法則を無視した角度でスライスされ、宙を舞う。
「あははッ!柔らかーい!」
ネオンが体液の雨の中を舞う。一閃、また一閃。彼女が通った後には、切り刻まれた肉片だけが残る。俺も負けてはいられない。迫りくる二体のワイバーン。
俺は正面から突っ込み、すれ違いざまに剣を一閃させた。ズパァンッ!!硬質な甲殻ごと、胴体が両断される。
圧倒的だ。
(……呆気ないな)
奴らの体液を払いながら、俺はふと過去を想起した。
あの頃。俺がまだ、ただの「人間」だった頃。ワイバーンは絶望の象徴だった。
硬い外骨格は刃を通さず、吐き出す溶解液は鎧を溶かす。北伐隊の精鋭が十人がかりで囲み、犠牲を払いながらようやく一体を仕留める……それが現実だった。
実際、眼下では特務部の一般兵たちが苦戦している。改造手術を受けている彼らでさえ、数人がかりでネットを張り、魔法を乱射してようやく一体を墜落させている状況だ。
だが、今の俺はどうだ。《金神経》による超加速。《魔族の心臓》による筋力増加。かつての強敵が、もはやただの羽虫のように感じられる。
「グッ……」
不意に、胸の奥が軋んだ。過剰な出力に、生身の血管が悲鳴を上げているのだ。魔族の心臓が暴れ出しそうになるのを、俺は懐から取り出した「蒼い丸薬」を噛み砕くことで強引に抑え込んだ。苦い味が口に広がり、心拍が安定する。
「……まだだ。まだやれる」
俺が剣を構え直した、その時だった。
ブォォォォォッ!!
一際巨大な影が、戦場を覆った。通常の個体の倍はある、漆黒のワイバーン。指揮官級の個体だ。それが一直線に、広場の端に佇む「彼女」の元へと急降下していく。
「――サメトナ!」
俺は叫んだ。サメトナは戦わず、ただ空を見上げていた。逃げろ、と声を張り上げようとして、俺は息を呑んだ。
「……サメトナ?」
彼女の雰囲気が、変わっていた。いつもの天然で抜けた空気ではない。彼女の身体から、透き通るような蒼いオーラが立ち上り、周囲の空間を歪ませている。
巨大ワイバーンが、その爪をサメトナに突き立てようとした瞬間。彼女は、涼しげにこちらを振り向いた。その瞳は、俺を見ていなかった。もっと遠く、遥か高みの「何か」を見つめていた。
「いま、イル様に……呼ばれたの」
凪の海のような、美しい声だった。戦場の喧騒も、ワイバーンの咆哮も、すべてが遠のいていくような静寂。だが、その穏やかすぎる響きこそが、決定的な別れの言葉だった。
「さようなら」
パァン……。
サメトナの身体が、弾けた。血肉が飛び散ったのではない。まるで深海の泡沫が水面で弾けるように、彼女という存在の輪郭がほどけ、無数の蒼い光の粒子へと還っていく。
「――っ、サメトナ!」
俺は、咄嗟に手を伸ばした。だが、指先が掴んだのは虚空だけ。彼女だったものは、冷たくも温かい燐光となって俺の頬を撫で、南の空へと吸い込まれていく。
「……嘘だろ」
俺はその場に立ち尽くした。ついさっきまで。ほんの数秒前まで、ここにいたのだ。『繁殖』なんてふざけたことを真顔で口にして、俺を困らせていたあの無垢な笑顔。神の雷すら弾き返し、「守ることなら神にも負けない」と豪語した絶対の殻。
それが、あまりにも唐突に、煙のように消え失せた。
手のひらに残る、微かな熱。隣にぽっかりと空いた空間が、やけに寒々しい。心臓の一部を抉り取られたような喪失感が、遅れて胸の奥からせり上がってくる。俺は空を見上げたまま、動くことができなかった。彼女が去っていった南の空を、ただ目で追うことしか――。
だが。その感傷さえも、世界は許さなかった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォッ……!!
直後、世界が軋む音がした。俺が浸っていた余韻を塗り潰すように、晴れ渡っていた空が一瞬にして黒鉛のような雲に覆い尽くされる。雲は生き物のように渦を巻き、島の上空に巨大な「穴」を穿った。
そして。南の彼方、彼女が消えていった水平線の向こうから――「それ」は通過した。
音すらなかった。あまりのエネルギー密度に、大気の振動さえ殺されたのだ。神が天から振り下ろした鉄槌のような、極大の蒼い光線。直径数キロメートルにも及ぶその光の柱は、島の外縁をわずかに掠め、そのまま海面を叩いた。
ジュッ。
爆発音はない。ただ、存在の「消滅」を示す乾いた音が響いただけだ。
海が、割れた。
比喩ではない。光線が通過した軌跡上の海水が、蒸発する暇もなく対消滅し、抉り取られたのだ。眼下に広がるのは、本来あるはずのない暗黒の海底。そこにあるのは、神ごときが戯れにスプーンで海を掬い取ったような、理不尽な欠落だった。
「な……んだ、これは……!?」
俺は本能的な恐怖に震え上がった。天変地異。いや、そんな言葉では生温い。これは人の手が届く領域ではない。魔王軍の攻撃ですらない。もっと根源的で、圧倒的で、触れてはならない「ナニカ」の力。
そして、物理法則は遅れて襲来する。無理やり抉じ開けられた空間を埋めようと、世界中の海水が殺到したのだ。
ザパァァァァァンッ!!
海鳴りが、世界の悲鳴となって鼓膜を破る。発生したのは、山脈そのものが液体となって押し寄せるような、規格外の津波。
空を飛んでいたワイバーンの群れが、巻き起こった突風と水しぶきに叩き落とされる。鋼鉄の甲殻を持つ魔獣さえ、この暴力の前では羽虫に過ぎない。岸壁で防衛線を張っていた特務部の兵士たちが、悲鳴を上げる間もなく波に飲まれ、海中へと消えていく。
「総員退避ィッ!!高台へ走れッ!!」
俺は喉が裂けんばかりに叫んだ。サメトナを失った悲しみも、魔王軍への敵対心も、すべてが「生存本能」という原初の恐怖に上書きされる。
あれには勝てない。あれは、俺たちが戦うべき敵ではない。
俺は呆然と立ち尽くすネオンの腕を強引に掴み、崩れ落ちる足場を蹴って走り出した。背後で、全てを無に帰す蒼い破壊の音が、いつまでも轟いていた。
数十分後。俺たちは島の最高峰、ヘリックス山の頂上付近から、変わり果てた海を見下ろしていた。
黒い雲は徐々に晴れ、異常な潮位も引き始めている。だが、海には巨大な「傷跡」が刻まれたままだ。そして、その傷の中心にいたはずのサメトナは、跡形もなく消えていた。
「サメトナ……」
俺の手は、まだ微かに震えていた。恐怖など忘れたはずの《金神経》が、制御不能な痙攣を起こしている。
全く理解できない。だが、俺の脳裏には、消える直前の彼女の言葉がこびりついて離れなかった。
『イル様』。
この破壊は、その『イル様』とやらが、たった一人の眷属――サメトナを連れ戻すために振るった、ほんの軽い"手招き"だったとでもいうのか?
だとしたら……俺たちは一体、何だというのだ。
魔王の軍勢を屠り、最強の改造人間になったと自惚れていた。だが、そんなものは児戯に過ぎなかった。この世界には、魔王や勇者といった物差しでは測れない、もっとデタラメで、理不尽な「神域」の怪物が君臨していたのだ。
(上には上がいる……ということか)
人間がアリを踏み潰すように、その存在はただ"そこを通っただけ"で、俺たちを蹂躙した。その圧倒的な隔絶。底知れぬ畏怖に、俺の胸に埋め込まれた不滅の魔族心臓さえもが、恐怖で凍りつくようだった。
「…………」
俺の少し先で、エイニヒツ所長が、静かに海を見つめていた。その横顔には、焦りも恐怖もない。ただ、自らの理論の外側にある現象を目撃し、それを冷徹に観察する科学者の瞳だけがあった。
「……蒼が……帰っていったか」
その呟きは、風に溶けて消えた。俺たちの「楽園」を守る最強の盾を失い、俺たちは身の程を知らされた。
対魔王戦争。それは、俺たちが考えていたよりも遥かに巨大で、絶望的な世界の深淵へと繋がっているのかもしれない。俺は握りしめた拳の震えを止めることができないまま、ただ凪いでいく海を見つめ続けた。




