第28話 「繁殖、か」
懐かしい、薬品と鉄錆の匂いが鼻腔をくすぐる。
絶海の孤島、『アムニオン』。
この地獄の島だけが、今の俺にとっては、羽を休められる「本当の故郷」となった。
その島の中央に聳える『ヘリックス山』の頂上付近。
謁見の間とも呼ぶべき広大な執務室で、俺たちはこの島の支配者――エイニヒツ・クラド所長と対峙していた。
「――報告は以上だ。キジルは処分した。スクーティア王国は、立て直しを迫られるだろう」
俺は淡々と報告を終えると、背後に控えていた「手土産」を前に突き出した。
鎖に繋がれ、猿ぐつわを噛まされた十数名の男たち。
かつてキジルの私兵として、王都で俺たちを包囲した精鋭騎士たちだ。彼らは今や、恐怖に顔を歪め、ガタガタと震えながら床に額を擦り付けている。
「それと、こいつらはキジル直属の兵士だ。そこそこの能力がある。……島の『検体』として献上する」
俺の言葉に、騎士の一人が小さく悲鳴を上げた。
彼らはまだ、この島がどのような場所か、分からないだろう。「人体実験の地獄」。これからその身をもってその恐怖を知ることとなる。
「ほう……」
エイニヒツが書類から顔を上げ、氷のような瞳で捕虜たちを見下ろした。
その視線だけで、騎士たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「悪くない素材だ。最近は消耗が激しかったからな。……ビスマス、連れて行け。無駄遣いはするなよ」
「はっ!直ちに」
控えていた白衣の男、ビスマスが嗜虐的な笑みを浮かべ、騎士たちを引きずっていく。
断末魔のような絶叫が扉の向こうへ遠ざかると、部屋には再び静寂が戻った。
エイニヒツが椅子に深く座り直し、興味深そうに俺たち――正確には、俺の両隣にぴったりと張り付いている二人の女を見た。
「任務ご苦労だった、ロッシ。……ところで」
所長の視線が、俺の右腕に抱きつくネオンと、左腕にしがみつくサメトナを行き来する。
「お前たち、そんなに仲が良かったか?」
その一言で、場の空気が凍りついた。
特に反応したのはネオンだ。
彼女にとってエイニヒツは崇拝する神であり、絶対的な主。その主の前で、他の男にデレデレしている姿を見られるのは、信仰への背信行為に等しいらしい。
「えっ!?あ、いや、その!?」
ネオンがバッと俺から飛び退き、直立不動の姿勢をとった。顔が真っ赤だ。
「ち、違いますエイニヒツ様!ボクはエイニヒツ様一筋です!誰がこんな……こんな陰気でムッツリで顔が怖い男となんか!」
「……おい」
酷い言われようだ。さっきまで「強いオス大好きぃ」と言って胸を押し付けていたのはどこのどいつだ。
必死に弁解するネオンの横で、サメトナが不思議そうに首を傾げた。
「ネオン、何言ってるのー?さっきまで『ロッシと遺伝子交換したいッ』って言ってた」
「ッ!?ば、馬鹿ァ!?余計なこと言うな!」
ネオンが青ざめてサメトナの口を塞ごうとするが、天然の怪物は止まらない。
サメトナはエイニヒツに向き直り、真顔で尋ねた。
「ねぇ所長。ネオン、いつになったらロッシと繁殖するのー?」
「ぶっっ!!!!」
俺は盛大に咳き込んだ。
喉が、気管が、変な音を立てて痙攣する。
この静粛な執務室で、よりによって「繁殖」という単語が響き渡るとは。
「は、はんしょ……ッ!?」
ネオンが酸欠の魚のように口をパクパクさせた後、沸騰したヤカンのように顔を真っ赤にして絶叫した。
「ば、馬鹿!ホント馬鹿すぎ!!殺すよ!?今すぐ殺して海に沈めるよ!?」
「ん?怒ってる?ネオン、情緒不安定?」
「お前のせいだァァッ!!」
ネオンが飛びかかろうとして、俺が必死に羽交い締めにして止める。
カオスだ。王都での死闘よりも、今のこの状況の方がよほど対処不能だ。
そんな惨状を眺め、エイニヒツは「ふむ」と顎を撫でた。
「繁殖、か」
所長の目が、知的探究者のそれに変わる。
「……興味深い。金神経の適合者であるロッシと、ネオン、あるいは未知の君との交配。そこから生まれる個体がどのような形質を受け継ぐか……次世代の生物兵器開発において、重要なデータになる」
「所長!?」
俺とネオンの声が重なった。この人、本気だ。
「いろいろあったようだが、個人の感情に干渉するつもりはない。……私の島の反映に貢献することは良いことだ。期待しているぞ、ロッシ」
「ご、誤解です!というか勘弁してください!」
俺は必死に頭を下げ、逃げるように執務室を後にした。
背後でサメトナが「期待されたー」と嬉しそうに呟き、ネオンが「違うもん……ボクの心は所長のものだもん……でも……うぅ」と葛藤しているのが聞こえた。
そんなこんなで、心臓がいくつあっても足りない報告を終えた俺たちは、ようやく解放された。
「ボクは所長に個別の報告(という名の懺悔)があるから!じゃあね」
ネオンはそう言い残し、まだ未練がましそうに、執務室に向かって走っていく。
「……はぁ」
嵐が去った。
俺は深くため息をつき、隣に立つサメトナを見た。
「よし、俺たちも戻るぞ。特務部の居住区へ」
「ん。ロッシの部屋」
「いや、お前の部屋はタコ部屋だろ。間違えるなよ」
俺はサメトナを連れ、ヘリックス山の中腹にある特務部の居住エリアへと足を運んだ。
久しぶりの我が家。
殺風景で、硬いベッドしかない個室だが、今の俺には何よりも恋しい場所だ。
(ようやく一人になれる)
シャワーを浴びて、泥のように眠ろう。
そう思った自分が、愚かだった。
「お帰りィィィッ!!私の可愛いモルモット君んんんッ!!」
自室のドアを開けた瞬間、鼓膜をつんざくような甲高い声が炸裂した。
部屋の中にいたのは、白衣を纏った長身痩躯の男。
死人のように白い肌に、目の周りだけが裂け目のようにどす黒く変色した、狂気の錬金術師。開発院長のクロムだ。
「……なぜ俺の部屋にいる。不法侵入だぞ」
俺が剣の柄に手をかけると、クロムは奇妙な踊りのような動作で両手を広げた。
「ノンノン!不法じゃないヨ!私はこの部屋の『管理者』だからネ!君がいない間に、ちょっとした改装をしておいたのサ!」
「改装……?」
嫌な予感がして部屋の中を見渡す。
一見すると変化はない。だが、部屋の奥。本来なら壁があるはずの場所に、真新しいガラス張りの区画が増設されていた。
まるで、動物園の展示スペースのように。
「キミの部屋に、彼女の個室を作っておいたヨォォォォ!!」
クロムがビシッと、俺の背後にいるサメトナを指差した。
「報告は聞いているヨ!その娘、すごいらしいネ!神秘の殻!絶対防御!あぁん、科学者としての血が騒ぐヨォ!彼女はとてつもなく興味深い研究対象ダ!」
クロムが興奮して身をよじらせる。
「だが、彼女は常識がない!目を離すと何をするか分からない!そこでだ!保護者であるキミと同じ部屋に住まわせつつ、私の監視下にも置ける『観察ルーム』を設置したわけサ!!」
クロムが得意げにガラスの部屋を叩く。
「このガラスは特殊構造になっているから、中は丸見え!データ収集もバッチリ!そこのところヨロシクゥ!!」
一方的な宣告。
俺が抗議する間もなく、サメトナがトテトテとガラス部屋に入っていった。
「わぁ。透明。綺麗」
彼女は気に入ったのか、ガラスに頬をすりすりとしている。
「やったぁー。ロッシと同じ部屋だ」
「……はぁ」
俺は天を仰いだ。
プライバシーなど、この島には存在しなかった。忘れていた俺が悪いのだ。
「いいかサメトナ。そこはお前の部屋だが、壁はないも同然だ。……頼むから、俺の視界に入る前には服を着てくれよ」
ガラスの向こうで、早速上着を脱ごうとしていたサメトナに釘を刺す。
「んーー。わかった。繁殖の時だけ脱ぐ」
「その単語も禁止だ!」
俺が叫ぶと、クロムが「ヒョー!若いネェ!」と奇声を上げてメモを取り始めた。
これから毎日、この変態科学者の監視と、天然娘の誘惑に耐えなければならないのか。
チッ。
その時、窓の外から、誰かの不機嫌そうな舌打ちが聞こえた気がした。
誰かの殺気が、ガラス越しにビリビリと伝わってくる。
「……休まらない」
俺はベッドに倒れ込んだ。
肉体的な疲労よりも、精神的な摩耗の方が激しい。
だが、そんな俺に、休息など一秒たりとも与えられなかった。
一息つこうとした、その瞬間。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――――ッ!!!!
居住区全体を揺らすような、不吉なサイレンの音が鳴り響いた。
『――緊急警報!緊急警報!』
『西の空より、未確認の反応多数!その数、およそ三十!飛竜級の編隊と推測される!』
西。
俺たちが帰ってきた方角。つまりは……
「……来たか」
俺は弾かれたように身を起こした。
クロムのふざけた表情が消え、サメトナの目がランランと輝く。
『繰り返す!これは訓練ではない!夕食前の運動だ、クズども!島の防空圏に入った羽虫を、一匹残らず叩き落とせ!』
俺は、再び降ろしたばかりの剣を手に取った。
休息は無い。
どうやら「魔王軍」のお客様は、俺たちが考えるよりもずっと気が短いらしい。
俺は獰猛な笑みを浮かべ、サメトナと共に部屋を飛び出した。
地獄の釜の蓋が、再び開く。




