第26話 「なんで、生きてるんですか?」
視界が歪む。
色が溶け出し、紫色の煙が世界を塗り潰していく。
足元の感覚がない。
俺は泥沼のような闇の中へ、頭から真っ逆さまに沈んでいった。
(……なんだ、これは……)
思考が千切れる。
現在が消え、過去が、吐き気を催すほど鮮明に浮上する。
……。
………。
「おい、見ろよあれ」
遠くで声がする。
セピア色に褪せた、故郷の村の風景。
夕暮れ時の広場。子供たちが遊んでいる。その輪の外側に、一人の少年――幼い俺が立っていた。
「あいつの親父、人殺しなんだってさ」
「げぇ、マジかよ」
「顔見ればわかるだろ?あの目つき。完全に犯罪者のそれじゃん」
違う。
父さんは騎士だった。冤罪で処刑されただけだ。
俺は何もしていない。ただ、父さんに似て目つきが鋭いだけだ。
言い返そうとしたが、声が出ない。
「きゃぁぁぁッ!!」
場面が飛ぶ。
路地裏。転んだ少女に手を差し伸べた時のことだ。
「こ、こっち来ないでよッ!!」
少女は俺の手を振り払い、腰を抜かしたまま後ずさった。
その目にあるのは、純粋培養された恐怖。
「……汚らわしい!近寄るな、この悪党顔!」
俺は自分の手を見つめた。
ただ、助けようとしただけなのに。
俺の手は、そんなに汚れているのか?俺の顔は、そんなに恐ろしいのか?
(ああ……そうだ。俺は昔からそうだった)
世界は、俺の「中身」なんて見てくれない。
いつだって、この呪われた「皮」しか見ていないんだ。
ドロリと景色が溶ける。
「おいロッシ!盾になれ!!」
次に現れたのは、鬱蒼とした森の中。
駆け出しの冒険者だった頃の記憶だ。
目の前にはオーガの群れ。背後には、同じパーティの仲間たち。
「お前、強いんだから、俺たちを守るのは当然だろ!!」
リーダー格の男が叫ぶ。
俺は一人で前に出た。剣を振るい、血にまみれながらオーガを食い止める。
仲間が逃げる時間を稼ぐために。
だが、彼らは戻ってこなかった。
「……あいつ、囮にして逃げようぜ」
「だね。どうせあんな顔だし、死んでも誰も悲しまないっしょ」
「むしろ魔物の方がお似合いだわ」
遠ざかる背中。嘲笑うようなひそひそ話。
俺は血反吐を吐きながら、一人でオーガを殲滅した。
ボロボロの体で街に戻ると、酒場で彼らが武勇伝を語っていた。
俺を「魔物に食われて死んだ間抜け」として笑い者にしながら。
(俺は……認められたかっただけだ)
誰かに「ありがとう」と言ってほしかった。
ただの一度でいい。俺を人間として扱ってほしかった。
場面は闘技場へ。
「勝負ありィィィッ!!」
司会の絶叫。
俺は立っていた。大国、レクイウム連合王国の闘技場の中心に。
俺はその決勝戦で、名家の騎士を打ち倒したのだ。
これで、誰もが俺を認めるはずだ。
実力で、この凶悪な顔への偏見を覆したんだ。
「――なんだよ、今の」
だが、観客席から降ってきたのは、歓声ではなく罵声だった。
「あいつ、絶対なんかやってるぞ」
「剣に毒でも塗ったんじゃないか?」
「怖い目しやがって。どうせインチキだろ」
「騎士様があんな下民に負けるわけがない!」
石つぶてが飛んでくる。
対戦相手の騎士が、悔し紛れに叫ぶ。
「そうだ!貴様、ドーピングをしているな!?審判、コイツの身体を調べろ!!」
違う。俺は鍛えたんだ。
誰よりも剣を振った。血を吐くような努力をした。
なのに。
どうして誰も、俺を見ない?
どうして「悪役」というレッテルだけで、俺の全てを否定するんだ?
(ああ、そうだ……。俺は、ずっと怯えていたんだ)
悪者扱いされたくない。
誰かに必要とされたい。
その飢えが、俺の目を曇らせた。
「――素晴らしい腕前だ、ロッシ君」
豪奢な執務室。
目の前に立つのは、魔導騎士団長ベルドールと、宮廷魔術師キジル。
「闘技場で勝ち抜いた『勇者様』。我々の国を北の魔の手から救うべく、北伐隊の隊長に推薦しておいたぞ」
ベルドールが、値踏みするように俺を見る。
「戦うことしか能が無かろう。存分にその力を国のために使うがいい」
「ひひひ、ゴミ……おっと失礼。生え抜きの精鋭たちを従えて、かの『魔王リムガンド』の本拠を攻めよ!!」
キジルが慇懃無礼な笑みを浮かべて、地図を広げた。
「これは名誉なことなのだよ?歴史に名を残す『人知の平原の真の勇者』となるための試練だ!」
嘘だ。
今ならわかる。彼らの目には、俺など捨て駒にしか映っていなかった。
だが、当時の俺はそれに縋った。
国のために戦えば、今度こそ英雄になれると信じて。
それが、仲間たちを地獄へ連れて行くことになるとも知らずに。
景色が一変する。
そこは、極寒の北の大地。
白い雪原は、見渡す限り赤く染まっていた。
「ギャアアアアアッ!!」
「助け……隊長、助けてぇぇッ!!」
魔王軍の圧倒的な戦力。
俺が率いた「生え抜きの精鋭」と呼ばれた若者たちが、紙切れのように引き裂かれていく。
「お前らっ!!くそぉッ!!」
俺は剣を振るった。
斬っても斬っても、敵は湧いてくる。
キジルが約束した援軍など来ない。ベルドールが保証した補給物資など届かない。
俺たちは、最初から捨てられていたのだ。
「――ほう?」
戦場に、冷たい声が響いた。
吹雪の向こうから現れたのは、魔王リムガンド――ですらなかった。
ただの一将軍。魔王軍の幹部に過ぎない男。
「これが人間たちが送ってきた『勇者』か?笑わせる」
将軍は、俺の剣を指一本で受け止め、鼻で笑った。
「我一人とて倒せぬ凡愚。……魔王様に謁見するなど百年早いわ」
圧倒的な実力差。
俺は地面に這いつくばり、泥水をすすった。
「だが、処分に困る程度には強いな。……だからと言って、この地にまで寄こすなど。人間とはつくづく愚かな生き物よ」
将軍は興味を失ったように背を向けた。
殺す価値すらない、と。
俺は生き残ってしまった。
数百の部下を死なせて、俺だけが、その醜い命を永らえてしまった。
「……隊長」
足元から声がした。
見ると、雪の中から、死んだはずの部下の顔が浮かび上がっていた。
「ロッシ隊長……」
「なんで、生きてるんですか?」
「お前が進めといったから、みんな死んだんだ!!」
一人の顔が、十人になり、百人になる。
内臓をぶちまけた者。首のない者。凍りついた者。
彼らが一斉に、虚ろな瞳で俺を睨みつける。
『お前のせいだ』
『お前が功名心に駆られたから』
『英雄になりたいなんて、おこがましい』
『人殺し』
『詐欺師』
『偽善者』
「や……やめろ……」
俺は耳を塞いだ。だが、声は脳内に直接響いてくる。
『お前が悪かったんだ』
『お前が弱かったから』
『お前さえいなければ』
「やめてくれ!俺は……俺はっ!!!」
俺は頭を抱えて絶叫した。
そうだ。俺が悪い。
俺が、自分のコンプレックスを埋めるために、彼らを利用したんだ。
俺が「英雄」という甘い言葉に酔わなければ、彼らは死なずに済んだ。
俺は被害者じゃない。加害者だ。
ただの醜い、人殺しの怪物だ。
『死ね』
『死んで償え』
『今すぐ消えろ』
幻聴が、大合唱となって脳髄を揺さぶる。
そうだ。
こんなゴミのような命、生きている価値なんてない。
俺は、ここで死ぬべきだったんだ。
(殺さなければ)
俺は震える手で、自分の剣を握りしめた。
敵を斬るための刃ではない。
この、愚かで罪深い「俺」という存在を、世界から抹消するための刃。
(楽になりたい……)
俺は剣先を逆手に持ち替え、自分の喉元へと切っ先を向けた。
キジルの高笑いが聞こえる気がする。
だが、もうどうでもいい。
この苦しみから解放されるなら。
この罪悪感から逃げられるなら。
俺は渾身の力で、腕を引き絞った。
「クッ!!」
刃が、皮膚を突き破る直前。
ガシッ。
冷たく、硬い感触が、俺の破滅を止めた。




