第16話 「ただ汚れを払ったにすぎない」
「ロ……ロッシ……?」
ベルドールの喉から、空気が漏れるような掠れた声が出た。
彼は目の前の男――かつて自分たちがゴミのように北の海へ捨てた男の顔を凝視し、ガタガタと震え出した。
「馬鹿な……ありえん……。貴様は、反逆罪で流刑に……いや、あの海で生きていられるはずが……!」
「幽霊だとでも思ったか?残念だったな。地獄は満員で、追い返されたんだよ」
俺は口端を吊り上げ、一歩踏み出した。
「ひッ……!?」
ベルドールが大きく後ずさる。
その恐怖をかき消すように、彼は裏返った声で叫んだ。
「こ、殺せ!こいつは脱獄囚だ!処刑されたはずの反逆者だ!ここで息の根を止めろ!!」
その悲痛な号令に、硬直していた護衛の騎士たちが弾かれたように動いた。
「罪人風情がァ!!」
「団長から離れろ!」
数人の騎士が、剣と槍を構えて殺到する。
彼らは王国の精鋭だ。その動きに淀みはない。
……常人の基準で言えば、だが。
ドクンッ。
俺の胸の奥で、『魔族の心臓』が鳴動した。
膨大な血と魔力が爆発的押し出され、全身の金神経へと行き渡る。
「――遅い」
カッ!
世界が凪いだ。
騎士たちの剣先が、槍の穂先が、俺の鼻先数センチのところでピタリと止まる。
彼らの顔に浮かぶ「殺った」という確信に満ちた表情。
飛び散る汗の粒。
すべてが凍りついた時間の牢獄。
俺はその中を、散歩でもするように歩いた。
一人目の剣を素手で掴み、握力だけで刀身をへし折る。
二人目の腹部に、魔力を込めた膝蹴りを叩き込む。
三人目の顎を、裏拳で粉砕する。
バキィッ!ドゴォッ!グシャッ!
硬質な破壊音が、重なって一つに聞こえた。
「――解除」
時間の流れが戻る。
「ガ、ア……!?」
「ごフッ……!?」
騎士たちは、自分が何をされたのかも分からず、血を吐いて吹き飛んだ。
ミスリルの鎧ごと胴体がひしゃげ、顎が砕け、手足がありえない方向に曲がっている。
一瞬。
瞬き一つの間に、王国の精鋭部隊が、ただの鉄屑と肉塊の山へと変わった。
「な……」
ベルドールが腰を抜かし、泥の中に尻餅をついた。
目の前で起きた惨劇が理解できず、魚のように口をパクパクさせている。
「な、何だ……貴様……何をした……!?」
「何も。ただ汚れを払ったにすぎない」
俺は倒れた騎士たちの間を抜け、ベルドールの前で立ち止まった。
そして、彼がサメトナにさせたかったこと――見下ろすという行為を、今度は俺が彼にしてやった。
「ひ、ひいぃッ……!」
ベルドールは半狂乱になりながら、腰のサーベルを抜き放った。
魔導具としての機能を持つ、国宝級の剣だ。
「く、来るな!近寄るな化け物め!!《雷撃》ッ……!!」
剣先から放たれようとした雷撃魔法。
だが、その発動よりも速く、俺の手が動いた。
ガギィンッ!!
「あ゛ッ……!?」
俺はサーベルの刀身を素手で掴み、ビスケットのように粉々に握り砕いた。
魔力の光が霧散する。
「お前たちが頼りにしている魔術も、剣技も、もはやそよ風にも満たない」
俺は残った柄を握りしめているベルドールの手首を掴み、ギリギリと締め上げた。
「ぎ、ギャアアアアアッ!?」
「痛いか?だが、俺たちが北の海で味わった絶望に比べれば、この程度」
「や、やめろ……頼む……!金か!?金ならいくらでもやる!地位も、名誉も、元に戻してやるから……!!」
ベルドールが涙と鼻水を垂れ流し、見苦しく命乞いをする。
かつての傲慢さは見る影もない。
これが、俺を見下していた男の正体だ。
俺は興醒めしたように手を離し、彼の胸倉を掴んで顔を近づけた。
至近距離。
俺の瞳の奥で揺らめく、人外の金色の光を、その網膜に焼き付ける。
「ベルドール。お前は殺さない」
「ほ、本当か……!?」
「ああ。……死ぬより辛い役目を与えてやる」
俺は昏い笑みを浮かべ、彼の耳元で囁いた。
地獄の底から響くような、呪いの言葉を。
「国へ帰れ。そして、飼い主のキジルに伝えろ」
ドクン、ドクン。
魔神の心臓の音を、彼の鼓膜に直接響かせる。
「――『地獄の底から、迎えに行く』とな」
ベルドールは恐怖のあまり白目を剥き、失禁した。
その股間から温かい液体が広がり、泥と混じり合う。
「あ、あう……あぁ……」
「行け。脱兎のごとく」
俺はゴミを捨てるように彼を突き飛ばした。
ベルドールは泥まみれになりながら、這うようにして逃げ出した。
護衛の騎士たちを置き去りにして、停泊していた船へと雪崩れ込む。
「出せッ!船を出せぇぇぇ!!」
彼の絶叫が、霧の向こうへと遠ざかっていく。
俺はその様を、冷ややかな目で見送った。
「いいのー?逃しちゃって」
いつの間にか、サメトナが隣に来ていた。
彼女の手には、先ほどへし折った騎士の剣が握られている。
「ああ。あいつは恐怖を伝染させる『病魔』になる」
俺は仮面を拾い上げ、泥を払った。
「奴が帰れば、王国中に噂が広まる。『死んだはずの勇者が、悪魔になって帰ってくる』とな。……その恐怖こそが、奴らへの最初の復讐だ」




