第15話 「さあ、舌を出して――」
所長室への道すがら、ベルドールの不平不満は止まらなかった。
「おい、歩くのが速いぞ、欠陥品。これだから知性のないバカどもは困る」
彼は足元の泥を気にして、わざとらしく立ち止まる。
俺は無言で歩調を緩めた。
仮面の下で、奥歯が砕けそうなほど噛み締める。
この男は、俺たちを人間だと思っていない。言葉を話す家畜か、あるいは泥人形程度にしか認識していないのだ。
「申し訳ありません。……こちらの空気が肌に合わないご様子で」
「当たり前だ!カビと鉄錆と、獣の臭い……。都の芳しい空気が恋しいわ」
ベルドールはハンカチで鼻を覆いながら、チラリと俺の背後に目を向けた。
そこには、興味本位でついてきているサメトナとネオンがいる。
「……む?」
ベルドールの足が止まった。
その視線が、サメトナに釘付けになる。
泥濘の中でも汚れることを知らない白磁の肌。サファイアのような双眸。
この殺伐とした島には不釣り合いな、圧倒的な美貌。
「おい、案内人。……そこの銀髪の女」
ベルドールがステッキの先で、無遠慮にサメトナを指した。
「あれも『商品』か?顔だけは《美の神ヴェネラ》のように美しいが……所作が野性的で。いかにも頭が弱そうだな」
ピクリ、と俺の眉が跳ねた。
だが、サメトナ本人は「んー?」と小首をかしげているだけだ。
「ちょうどいい。キジル様への献上品を探していたのだ。あの御方は、ああいう無垢で壊れやすそうな玩具がお好きだからな」
ベルドールは下卑た笑みを浮かべ、護衛の騎士たちに目配せをした。
騎士たちもまた、ニタニタと笑いながらサメトナを品定めするような視線を送る。
「おい、女。こっちへ来い」
ベルドールが手招きする。
サメトナは俺の顔を見た。俺が止める間もなく、彼女はトテトテとベルドールに近づいてしまった。
好奇心か、それとも単に何も考えていないのか。
「……何?」
「ほう、近くで見るとますます上玉だ。だが、礼儀がなっておらんな」
ベルドールは右足を一歩前に出し、泥で汚れた革靴のつま先をコンコンと鳴らした。
「おい、ほら。跪いて、俺の靴を舐めて掃除しろ」
「……は?」
俺は耳を疑った。
だが、ベルドールは本気だった。嗜虐的な愉悦に顔を歪めている。
「聞こえなかったか?商品としての価値があるか、従順さを確かめてやる。……舐めろと言っているんだ」
空気が凍りついた。
背後で、隊員達が殺気を放とうとする気配がした。
サメトナは、ベルドールの靴と、彼の顔を交互に見比べた。
そして、キョトンとした顔で言った。
「?……舐めればいいのか?」
屈辱も、怒りもない。
まるで「ここにある林檎を食べればいいのか?」と聞くような、純粋すぎる問い。
彼女には、人間の社会的な尊厳や、羞恥心といった概念が欠落している。
彼女はその場にしゃがみ込み、無防備に顔を近づけようとした。
「ブハハハハハッ!!」
騎士たちが爆笑した。
「見ろよ団長!こいつ、本当に頭が弱いな!本気にするとは傑作だ!」
「何だ、身体に奴隷根性が染み込んでやがる!」
「頭の中身まで『商品』として調教済みってわけか!」
嘲笑が響く。
ベルドールも満足げに鼻を鳴らした。
「いい心がけだ。さあ、舌を出して――」
一人の騎士が、調子に乗って手を伸ばした。
「ほらよ、もっと顔を近づけろ!」
騎士の手が、サメトナの美しい銀髪を乱暴に掴み、彼女の頭を無理やり押し下げた。
――ブチッ。
俺の中で、何かが切れる音がした。
理性の糸か、あるいは人としての最後の一線か。
世界の色が反転する。
思考が一瞬で加速し、黄金の怒りが全身の血管を駆け巡る。
「――失せろ」
ドンッ!!
俺は地面を蹴った。
騎士たちが瞬きをするよりも速く、俺はサメトナの髪を掴んでいた男の懐に割り込んでいた。
「あ?」
男が間の抜けた声を上げる。
俺は、サメトナに触れているその腕を掴み――
バキボキィッ!!!
逆方向へと、枯れ枝のようにへし折った。
「ギャアアアアアアアアッ!?」
男の絶叫が峡谷に木霊する。
肘から先がありえない方向に曲がり、白骨が皮膚を突き破って露出した。
「なッ……!?」
ベルドールが目を見開き、後ずさる。
俺はサメトナを抱き寄せ、優しく背後に下がらせた。
「何をする貴様!!狂ったか!!」
ベルドールが顔を真っ赤にして怒鳴る。
騎士たちが剣を抜こうとするが、遅い。あまりにも遅い。
「狂っているのは……貴様らのその腐った性根だ」
俺は静かに、顔を覆っていた白い仮面に手をかけた。
カチリ、と留め具が外れる音。
「……貴様、まさか……」
ベルドールが、俺の声に聞き覚えがあることに気づいたのか、表情を強張らせる。
俺は仮面を剥ぎ取り、地面に投げ捨てた。
露わになった素顔。
かつて彼が見下した、泥臭い勇者の顔。
だがその瞳だけは、人間離れした黄金色に輝き、禍々しい紋様が頬を浸食している。
ベルドールの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
口がパクパクと開閉し、言葉にならない音を漏らす。
「あ、あ……あ、ありえな……」
俺は笑った。
心の底からの、再会の歓びを込めて。
「久しぶりだな、クソ団長殿」




