第11話 「サメトナ……逃げろ……ッ!」
ネオンとの模擬戦から数週間。
その代償は確実に俺の肉体を蝕んでいた。
「……くっ、ぅ……」
深夜、俺は床に突っ伏し、胃液を吐いた。
頭が割れるように痛い。
視界が赤く明滅し、理由のない激しい不安と、衝動的な破壊欲求が交互に押し寄せてくる。
『金神経化』の副作用。
黄金と融合した神経が、俺の自我を焼き尽くそうとする反動だ。
俺は震える手で、懐から小瓶を取り出した。
《青の鎮静剤》。
以前は一日一粒で済んでいたものが、今では三粒飲まなければ震えが止まらない。
消費量が早すぎる。
クロムから支給される量は決まっている。このままでは、次の支給日まで持たないかもしれない。
「はぁ……はぁ……」
薬を水で流し込む。
冷たい感覚が脳に広がり、ようやく発狂寸前の神経が鎮まった。
鏡を見る。
目の下のクマが濃くなっている。瞳の奥の金色の光は、以前よりも強く、禍々しく輝いていた。
(まだだ……まだ足りない……)
こんな身体で、あのネオンや、ビスマスたちと渡り合えるのか?
サメトナを守り抜けるのか?
『――緊急警報!開発院第三区画にて実験体が脱走!特務部は直ちに鎮圧せよ!』
思考を遮るように、無機質な警報音が鳴り響いた。
休む暇などない。それが、魂を売った代償だ。
■ ■ ■
現場は、島の食料生産を担う「資源管理区域」の一角、畜舎エリアだった。
「ひ、ひぃぃ……!助けてくれぇ!」
飼育員たちの悲鳴。
そして、木造の畜舎を紙細工のように粉砕して現れたのは、絶望そのものだった。
「シャアアアアッ!!」
全長十メートルを超える長大な体躯。
以前戦ったサハギンの王をベースに、さらに「猛毒の大蛇」の因子を掛け合わせた最悪のキメラだ。
王級の怪力と鱗の硬度を持ちながら、その動きは蛇のように滑らかで俊敏。
そして何より――
「グォォォォ……ッ!」
奴が吐き出す紫色の呼気が触れた瞬間、逃げ遅れた飼育員の身体がドロリと溶解した。
猛毒の霧。
触れるだけで肉を腐らせる、死の結界だ。
(誰だこんな奴を造ったのは)
心の中で悪態をつきながら、戦場を見据える。
「総員、散開しろ!霧に触れるな!」
俺は叫びながら、部下たちを下がらせた。
これは俺が出るしかない。
――金神経・掌握
バチチッ!
首筋の紋様が発光し、世界が極限遅延する。
俺は毒の霧を裂くように疾走した。
(速い……だが!)
奴の尻尾が鞭のようにしなる。
俺はそれを紙一重で回避し、懐へと潜り込む。
狙うは逆鱗、あるいは心臓部。
「――『穿ち』ッ!」
渾身の刺突。
だが。
ガギィィン!!
硬い。あまりにも硬すぎる。
サハギン王の比ではない。蛇の柔軟性を持った鱗が、衝撃を逃がしたのだ。
剣が弾かれ、俺の体勢が崩れる。
「ガッ……!?」
そこへ、丸太のような腕が叩きつけられた。
反応速度で視えてはいても、身体がついていかない。
直前の薬の過剰摂取で、神経伝達の作用が鈍くなっている。
ドゴォォォン!!
俺は小石のように吹き飛ばされ、畜舎の壁を突き破って転がった。
全身の骨が悲鳴を上げ、口から血が溢れる。
意識が飛びかける。
「ロッシ!」
サメトナの声。
薄れゆく視界の中で、信じられない光景が見えた。
俺を追撃しようとしたキメラの前に、サメトナがふらりと立ちはだかったのだ。
武器も持たず、無防備な姿で。
「サメトナ……逃げろ……ッ!」
叫ぼうとしたが、喉から血の泡が出るだけだ。
キメラがサメトナを見下ろす。
格好の餌だ。
奴は巨大な爪を振り上げた。
「おー、強そう」
サメトナは、散歩中に水溜りを避けるような動作で、ひょいと身体を逸らした。
豪速の爪が、彼女の鼻先を掠めて地面をえぐる。
当たらない。
彼女は「おっとっと」と足を滑らせたように見せかけ、次の尻尾の一撃も、ふらつきながら回避する。
運か?いや、違う。
あの動きには殺気がない。だからこそ、獣の勘が捉えきれないのか?
「シャアアアアッ!!」
業を煮やしたキメラが、大口を開けて突進した。
回避不能の全方位捕食攻撃。
「あっ」
サメトナが足を滑らせ、尻餅をつく。
そこへ、キメラの顎が迫る。
バクンッ!!
鈍い音が響いた。
サメトナの姿が、キメラの口内へと消えた。
「――ァ、ア……」
俺の目の前で、彼女が喰われた。
守ると誓ったのに。
俺が不甲斐ないばかりに。
「あ……あぁ……」
俺は絶望の咆哮を上げ、折れた剣を握りしめて立ち上がろうとした。
助けなければ。引きずり出さなければ。
だが、その必要はなかった。
「グ……? ギ、ギィ……ッ!?」
サメトナを飲み込んだ直後。
キメラの動きがピタリと止まった。
次の瞬間――。
バキバキバキッ……!!
キメラの腹部から、硬質で不気味な音が響き渡る。
それは骨が砕ける音ではない。何かが急速に「固まって」いく音だ。
キメラの紫色の鱗が、見る見るうちに色を失い、白く濁っていく。
柔軟だった蛇の胴体が、まるで石膏像のようにカチカチに硬直していく。
「ギ……ガ……」
キメラは苦悶の声を上げようとして、顎が固まり、声すら出せなくなった。
その眼球までもが、白濁した真珠のような光沢を帯びて凝固する。
ドスンッ!!
巨大な彫像と化したキメラが、重々しい音を立てて地面に倒れた。
生体反応は完全に消失している。
「……は?」
俺は痛む体を忘れ、呆然とその光景を見つめた。
何が起きた?
パリ…パリンッ!
静寂の中、硬化したキメラの腹部が、陶器のようにひび割れた。
破片がキラキラと光を散らしながら崩れ落ちる。
その中から。
「んー。狭かったー」
サメトナが、伸びをしながら現れた。
身体には傷一つない。消化液による汚れすらない。
まるで、硬い殻に守られていたかのように、彼女だけが潔白なままそこにいた。
「あ、ロッシだ 」
サメトナが、無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。
俺は言葉を失った。
目の前に転がる、白く美しい彫像と化したキメラの死骸。
そして、その原因であろう、あどけない少女。
俺の知識では、この現象を説明できない。
毒? 魔法? いや、もっと根源的で、異質なナニカだ。
(……俺は、何を守ろうとしていたんだ?)
ただ、一つだけ確かなことがある。彼女は……俺たちの理の外にいる。
だが、そんなことは問題じゃない。
俺の胸に残ったのは、安堵よりも深い、焼け付くような「惨めさ」だった。
彼女が喰われるのを、ただ見ていた。
彼女自身の異常性に助けられただけだ。
もし、彼女がこの不可解な力を持っていなかったら?
もし、次に来る敵が、この力さえ通じない相手だったら?
俺は震える手で、サメトナの無垢な頬に触れた。
温かい。柔らかい。
だが、今の俺の手は、彼女を守るにはあまりに脆く、頼りない。
「……ごめん。次は、絶対にさせない」
「ん? 何がー?」
俺は彼女の問いには答えず、自分の掌を強く握りしめた。
今の俺では、決定的に足りない。
『金神経化』による反応速度。それは確かに強力だ。
だが、それを扱う俺自身の「肉体」が、あまりに貧弱すぎる。
所詮は人間の器だ。
俺は、人間という枠組みそのものを超えなければならない。
脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。
ネオンの腕を繋げた、この島の支配者。底知れぬ力を持つ所長、クラド。
彼ならば、知っているかもしれない。
そして、彼ならば――俺を更なる「怪物」へと作り変えることができるかもしれない。
(……会いに行くしかない)
俺は血の味と共に、新たな覚悟を飲み込んだ。
この身を完全に人の枠から外してでも、俺はさらなる力を手に入れる。
この、美しくも恐ろしい少女の隣に立ち続けるために。




