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「い、いらっしゃいませ……!」
わたしがぼんやりしている間に、伊藤さんが上ずった声で挨拶する。
日向様は目を丸くして、わたしをじっと見ていた。
(頭巾が気になっているのかしら……変な人だと思われてないかしら……)
あまりにじっと見られて、わたしは気恥ずかしくて視線を落とした。日向様が近づいてきて、伊藤さんに声をかける。
「はじめまして。日向です。あなたは、伊藤様ですか?」
「へっ! そ、そうです」
「前会長の右腕だった方ですね」
滑らかな声に心を惹かれ、顔を上げると、日向様は親愛の眼差しを向けて伊藤さんを見ていた。伊藤さんは驚いて、口を開いたままだ。
「青葉信用組合は、十二年前の災害の際、地域の復興を支えていましたね。あなたも中心だったんじゃないですか?」
「古い話を覚えている方がいるとは……ええ、そうです」
「青葉信用組合は、あの災害で地域を支えた存在だと聞いています」
伊藤さんは一瞬、言葉を失った。
「あの時の話ができる人と会えるとは……」
「わたしも覚えています……」
すっと声を出すと、日向様がこちらを見た。わたしは深々と礼をする。
「青葉初音です。日向様、来ていただいてありがとうございました」
日向様の目が優しく細くなった。その瞳があまりにもきれいで惹き込まれる。
「はじめまして、あなたが初音さん……」
声が低くて心地よかった。
「あなたの話を詳しく聞きにきました。時間は大丈夫ですか?」
「……はい。端的にお話をします」
伊藤さんが事務所を貸してくれ、わたしは日向様にすべてを話した。黒川ホールディングスと青葉信用組合の黒い取引を。
「なるほど……資金源が不明だったが、青葉を通っていたんだな……」
日向様の話では、黒川が個人情報を盗もうと不正アクセスを繰り返しているそうだ。
(そんな……じゃあ、叔父は犯罪者に資金を出しているの……!)
叔父は、父が築いてきたものを壊していた。
「青葉は地元の人のためのものだったんです……それなのに、真逆のことをするなんて!」
感情が抑えきれず、叫んでしまうと、彼がわたしの顔を覗き込んだ。
「なら、俺と手を組もう。青葉も、君も守れる」
右手を差し出され、その頼もしい指を見た。
(……泣いたって、解決しないわよ。わたしは青葉を元に戻したい)
わたしは目頭に溜まった涙を乱暴に擦った。
「お願いします」
握手をすると、力強く握り返された。
「契約成立だな」
余裕を滲ませるように微笑まれ、黒い瞳に惹き込まれた。彼は握手をほどくと、足を組んで尋ねてきた。
「あなたのことを、もう少し詳しく聞かせてもらえるか? 例えば、黒川が他に何を言っていたか、とか」
思い出そうとして、あの湿っぽい声と蛇のような眼差しを思い出し、指先が震えだした。
「初音さん?」
日向様が心配そうに前かがみになる。わたしはあいまいに笑いながら説明した。
「家では家政婦をしていますから、晩酌のお手伝いを……」
「――晩酌?」
一瞬にして、日向様の声色が低くなった。空気が豹変し、わたしは息を呑んだ。
「隣でお酒を注ぐようなこともしていたりして……」
「ほお……」
日向様は不意に立ち上がり、わたしの隣へ来た。
椅子の背もたれに手をかけ、顔を覗き込んでくる。
(ちょっと待って、距離が近いっ)
「どんな風にされていたのですか? 距離感はこのぐらい?」
端正な顔がぐいぐい近づいてきて、わたしは顎をそらした。その拍子にスカーフがほどけ、はらりと床へ落ちた。
(あ! ……ダメっ!)
切られた髪を見られ、体が固まる。
日向様はいびつに切られた髪を見て、眉根を寄せた。わたしの髪を手で優しくすくいあげ、腹の底に響く低い声で言った。
「この髪……誰にやられた?」
声が凍りついたようで、何も言えなくなった。わたしはうつむきながら、首を横に振る。
「言いたくない?」
今度は優しい声で、問いかけられた。わたしが頷くと、日向様の瞳が真剣なものに変わった。
「あなたはあまりに危険な場所にいるようだ」
一拍置いて、彼ははっきりと言った。
「初音さん。俺と結婚しよう」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
返事をしようと思ったけれど、唇がかすかに動くのみ。息が漏れるだけで声にはならない。
ただ、逃げ場のない距離で、黒い瞳が静かにこちらを見つめている。
「……なぜ、そこまで」
短く問いかけると、日向様はしばらくわたしを見つめた後、口角を上げた。
「もちろんこの結婚はあなたを保護するための契約だ。あなたを連れ出し、あなたが持つ情報を、俺が独占する」
突拍子もない提案に、理解が追いつかなかった。
情報を渡すだけなら、結婚のふりなんて必要ないはずだ。それにわたしは情報しか持っていない。この地を出たら、生活から何までお世話になってしまう。
「で、でも……それでは日向様にご迷惑がかかります」
「なぜ? 婚約者と名乗った方が、色々と都合がいい」
自信に満ちた声で言われ、わたしは両肩をすくめた。叔父の家から抜け出せるというのは願ってもないことだった。
(でも、そこまで頼っていいものかしら……だって、結婚よ……)
やはりお断りしておこう。
「来ていただけて充分です。結婚は憐れみで、口になさることではないでしょう……」
「憐れみか……確かに、あなたに同情はしている。だが、それ以上に人を人とも思わない所業に腹が立ってしかたないんだ」
憤りを隠さず、日向様は冷酷に言った。
「あなたのされたことは、自尊心をとことん奪い、人以下に扱うものだ。そんな場所、あなたに不要だ」
鋭く言い切られ、思わず息を呑んだ。日向様は穏やかにまなじりを下げて、わたしに微笑む。
「初音さん、俺を信じてください。一緒に行きましょう」
手を差し出され、きゅっと胸が痛んだ。
(……わたしにはもう、日向様しか頼れる人がいない)
この手を取らないと、何も変わらない。
震えながら手を添えると、流れるように日向様が立ち上がった。見つめ合ったまま、わたしも自然と立ち上がる。
「保護とはいえ、周りを騙せるくらいには、親密になろうか。初音、と呼んでも?」
「えっ……はい」
お芝居だと分かっていても熱っぽく見られると、どうしても意識してしまう。
(顔が良すぎるって罪だわ……)
日向様は景虎に雰囲気が似ていると思ったが、実際に会ってみると彼とは違う。日向様の方が物腰やきれいな立ち振る舞いで、余裕と自信が伝わってくる。
「これから宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しく。俺の婚約者殿」
うっとりと見つめられ、言葉に詰まる。
(本当に契約、だよね……?)
もう一度、確かめたくなるほど彼はわたしを婚約者扱いしているように思えた。




