9-2
車がすっと静かに止まった。来たことはないが、覚えのある土地だった。
(東京から出ていない……帰れる距離だ……)
駅まで逃げれば、交番まで行けば帰れるだろう。叔母ひとりなら、わたしでも振り切れる。
(隙を狙って……)
震えそうになる体を叱咤しながら、状況を見ていると運転手の男が降りて助手席のドアを開いた。叔母が先に出て、わたしにナイフを向ける。
「は、はやくっ」
かすれ声で言われ、叔母は、誰かに言われてやっているのだろうと思った。叔父なのか。それを推察している時間はもったいない。急いで逃げないと。
運転手の男と叔母と一緒に、細い路地を入っていく。
繁華街で飲み屋が多く、店は閉まっていて人けはなかった。
雑居ビルの前に立つ人影を見た瞬間、はらわたが煮えくり返った。
(叔父さん!)
叔父はわたしの姿を見ると、転がるようにこちらに向かう。
「おまえっ」
「あ、あなたっ……つ、連れてきたわよっ。わ、私たちこれでっ」
興奮まじりで叔母が言う中、運転手の男が飄々と言う。
「仕事はしたぜ。しつこいのがいたが、気づいたらいなくなってた。報酬は」
叔父は懐から封筒を取り出すと、運転手の男に押し付けた。それを男はにやりと笑って受け取り、そのままふたりを置いて歩き出してしまう。
「初音、くるんだっ!」
叔父に腕を掴まれ、わたしは思いっきり腕を引っ張った。
「離して!」
「こいつっ!」
「う、動かないで‼」
叔母が狂気じみてナイフを振り回す。叔父にあたりそうになり、叔父が「やめんかっ」と慌てて言う。叔母は震えながら、わたしにナイフを向けた。
「は、はやくっ、はやくっ」
その異常さに体が強張り、叔父に乱暴に引っ張られた。
雑居ビルの三階に引っ張られていく。途中で物騒な顔の男たちがいて、叔父はその人たちにぺこぺこ頭を下げていた。
「こっちだ! 早く入れ!」
叔父が一室のドアを開き、投げるようにわたしを中に入れた。
その拍子に転がるように倒れ、すぐに体を持ち上げて見えた人にぞっとした。背筋が凍り、息が詰まる。
「久しぶりやのお、初音」
湿っぽい声でわたしの名前を呼んだのは、黒川だった。
青葉の家でされた数々が蘇り、全身が震えだす。恐怖で目を見張っていると、黒川はわたしの前で股を開いてしゃがみこんだ。
「ずいぶんといい女になったやんか。日向の若造に可愛がってもらったんか?」
太い指がわたしの顎をしゃくりあげ、無理やり上を向かせられる。
(嫌っ……!)
拒否が目に宿り、黒川を睨む。黒川は愉快そうに目を細めた。
「ほお……そないな目、儂にすんか。ずいぶんと強気になったもんやなあ」
にやりと口の端を吊り上げて言われ、わたしの顎を乱暴に振り払った。その拍子に、床に手がつく。
「た、黒川様! 初音は連れてきました! 私たちを海外に逃がしてくれるんですよね⁉」
叔父が半狂乱で叫び、どこまでも身勝手さに腹が立った。
「叔父さん、叔母さん……わたしを売ったの……?」
振り返りながらふたりに言うと、叔父は猛然と言った。
「おまえが、おまえが悪いんじゃないか! おまえが情報を漏らすからっ!」
「だからといってこれは誘拐よ!」
悔しかった。腹立たしかった。自分の身内が、こんなにも醜いことが悲しかった。泣きそうになるのを堪えて叔父を睨みつけると、叔父がわたしに向かって手を振り上げた。
「今まで育ててもらった恩も忘れよって!」
「あなたに育ててもらった覚えはないわ!」
「こいつっ!」
その手がわたしの頬に向かおうとした、その時。
「なんや、青葉。儂のもんに手を出すんか」
地を這うような低い声が聞こえ、叔父が止まった。空気が凍りついたのを感じて、おそるおそる振り返ると、黒川がつかつかと歩み寄りその大きな手を握って、叔父の顔面を殴りつけた。
その凶悪さに、「ひぃっ」と叔母は声をあげ、壁際に寄る。叔父はだらだらと鼻血を出しながら、痛みにのたうち回っていた。
「むしけらは黙っておきな。なあ、初音?」
ロックオンされた。
次は――わたしだ。
「初音。おまえ、儂の何かを盗みだしたやろ? 日向の若造が儂に抵抗してきたんや。儂なあ、奪うのは好きでも、奪われるのは好かんのや」
黒川がゆっくりとわたしの元に来る。
「せやから、おまえを奪おうと思ったんや」
その宣告に、頭が真っ白になった。
「ここにはベッドもあるしのお。ふたりで楽しめるで」
吊り上がった口の端を見て、これから起こることに戦慄した。
(……助けて、忍さん……)
リン、とネックレスの鈴が鳴った。
――初音。
鈴の音にまじって、彼の声が聞こえるような気がした。
(帰らなきゃ……彼のところに帰らなきゃっ)
そう思った瞬間、無我夢中だった。入ってきたドアをこじ開け、転がるように廊下に出る。階段を降りようとしたのに、そこは先ほどの男たちがいる。しかたなく上の階段へ向かう。
「なんやー! かくれんぼかあ! ええでえ。ゆっくり楽しませたってやあ」
わたしを追いかけてくるように廊下に響いた声に、涙がこみ上げた。
今まで、わたしは恵まれていたんだ。
忍さんがセキュリティを万全にしてくれて、何もかも彼が助けてくれて。
わたしはただ、ぬくぬくと優しさに甘えているだけでよかった。
それがどんなに幸せだったことか。
(帰りたい……忍さんっ)
声から逃げて、屋上に出た。四階建てのビルでもう逃げ場がない。それでも小屋みたいな場所が見え、その中に立てこもる。
(ドアをふさぐものっ)
ここが突破されないように、わたしは床に倒れていた椅子をドアの前に置く。机も引っ張って、ドアの前に置く。
「わたしがここにいるって、しらせないとっ」
スマートフォンを探す。だけど、持っていたはずの鞄がどこにもなかった。




