9-1 前世を飛び越える日
忍さんと改めて結婚の約束をして数日後、わたしたちは穏やかな日々を過ごしていた。
わたしに雅姫の記憶があり、忍さんに景虎の記憶があるけれども、ふたりで「あの時はどうだった、この時はどうだった」と話すことはなかった。
あの記憶は雅姫と景虎のものだし、わたしたちはその記憶を外側から見ているに過ぎない。彼女らの感情は、彼女らのものだ。
そんな話になり、忍さんとわたしは、ふたりの記憶を無理に掘り起こさずに、そっとしておこうという話になった。
そして少しずつ結婚の日取りや、忍さんのご両親にご挨拶する日を決めている。
忍さんのご両親は年の三分の二は海外にいるから、そもそも会える日が限られている。その分、時間をかけて結婚式のプランを考えようという話になった。
忍さんの過保護さは変わらずで、出かけるときは、必ずカナちゃんに付き添ってもらうよう、口酸っぱく言われていた。
わたしもカナちゃんと一緒にいるのは楽しいし、どこに出かけるにも付き合ってもらっている。
忍さんと結婚の話は、若林さんやカナちゃんにも報告して、カナちゃんには手放しで喜ばれた。
「へぇ、じゃあ初音ちゃんと日向、結婚するんだな! よかったじゃん。おめでとう!」
「カナちゃん、ありがとう」
「初音ちゃんと日向は結婚するって思ってたけどな。だって、ほら、お互い夢の相手だったんだろ?」
きょとんとしながら言われて、ぴしりと思考が固まった。
(ど、どうしてカナちゃんが夢の話を知っているの⁉)
「あ、あの、カナちゃん? 夢の話ってどこから」
「兄貴から聞いた。日向って、昔っから忍者だったとかマジで言ってたしさ」
「……そうだったんだ」
あっさりと受け入れられて拍子抜けしてしまった。
「……夢は夢なんだけど、わたしはわたしで忍さんが好きだから」
へんに思われたくなくて、つい言い訳めいた言葉が口をついた。
カナちゃんはこてんと首をひねって「そうだよねあ」と肯定する。
「でもさ。夢の相手と結ばれるってすげえよな」
「……そうだね」
「運命が進化しているって感じだな!」
明るく言われて、ふふっと笑った。
「カナちゃんの考え方、素敵です」
「へへっ。そう? あ、今日はさ。どこ行く?」
「わたし、図書スペースに行きたいです。レシピをもっと覚えたくて」
「いいね! じゃ、いっこー!」
わたしはカナちゃんと並んで、笑顔のまま家を出た。
電車に乗って、隣の駅に行くと、そこには公園と一体型になった図書スペースがある。リニューアルされたばかりの木目調の建物は、落ち着きのあるウッドスペースがあり、そこで自由に本が読めた。
目の前には、手入れの行き届いた芝生の庭が広がって、わたしのお気に入りの場所だ。そこへ向かっていく道は並木道でどことなく異国感があるレンガ模様の石畳になっている。
カナちゃんとお話ししながら歩いていると、大通りに出た。
車が行き交う場所に、古めかしい横断歩道橋がかかっていた。
「あ、ここ。日向と兄貴と一緒に来たんだよなー。ここから見る景色がいいんだよ」
「そうなんですね」
カナちゃんがぴょんぴょんと弾むように横断歩道橋を登っていく。途中で降り返って、にこっとわたしに笑いかけた。そして、あっという間に登ってしまい、上からわたしに向かって手を振る。
「初音ちゃんもおいでよ!」
それに目を細め、一歩、踏み出そうとした時だった。
ふらふらとしていたつばの広い帽子を被った女性とぶつかってしまう。
慌てて、女性の方を向いて「すみません」と声を出し、相手の姿を見て息を呑んだ。
(……叔母、さん? どうして、ここに……)
青葉家にいた頃、いつもオロオロして泣いていた叔母が、清楚な服装を着て立っていた。
忘れかけていたあの頃が蘇り、わたしの意識は凍りつく。
立ちすくむわたしに叔母は薄く微笑みかけた。
「初音さん……一緒にきてちょうだい」
亡霊のように青白い顔で、叔母は果物ナイフをわたしに向けていた。
震える切っ先が、ただならぬ気配を漂わせ、ぞわっと背筋が凍った。
「一緒に……ね」
叔母がそう呟くと同時に、わたしの背後に黒塗りの車が止まる。その音に振り返ると、助手席のドアが開かれた。叔母に突き飛ばされ、わたしは車内に転がり込む。
「初音ちゃん!」
カナちゃんの声を遠くに聞きながら、顔を上げると車が急発進した。
助手席に乗り込んできた叔母が荒い息を吐き出しながら、果物ナイフをわたしに向けている。
「う、動かないで……」
小刻みに震え、狙いが定まらないナイフがかえって恐ろしく、わたしは口を引き結んだ。
(何が、起こったの……?)
意味が分からなかった。なぜ、叔母がここにいるのかも。どこに連れて行かれるのかも。どくどくと心臓の音が大きくなり、恐怖に呑まれそうになる。
(カナちゃん……忍さんっ!)
固いシートを触るばかりで、どこにも逃げられなかった。
泣きそうな気持ちになりながら、静かに叔母に問いかける。へたに刺激すると何をするか分からなそうだ。
「わたしをどこへ連れていくんですか……」
叔母は荒い息を出すばかりで答えない。代わりに、運転手が答えた。
「黙って連れてくりゃあ、いいんだよ」
荒い口調の男だった。ミラー越しに見えた顔はサングラスをかけていて、一見すると普通の三十代ぐらいの男だった。
わたしは小刻みに体を震わせながら、それでも車窓の風景を見た。
(大きな幹線道路を走っている……この先は……)
周囲の地図は、すでに頭に入っている。パニックになりかけているけど、わたしはここがどこか分かる。
(大丈夫……大丈夫だからっ。必ず帰れるんだからっ!)
必死に自分に言い聞かせ、わたし道を記憶することに集中した。




