6-4 side 忍
『……わたしの景虎』
そう囁きながら、雅姫はいらずらに景虎に抱きつくこともあった。そんな秘め事を誰かに知られたらふたりとも打ち首になってしまう。そんな掟だった。
だから景虎は雅姫を諫めようとした。姫を、死なせたくなかったからだ。
『姫様、おやめください』
口だけはそう言っていたが、彼女の抱擁を突き放すことはしなかった。景虎もまた、雅姫に触れ合いたかったからだ。
その時の雅姫は愛しそうに自分を見つめていて、まるで夫婦にでもなれたようだった。叶わぬ未来を、見た気がした。
景虎は雅姫が、自分以上に大切な存在だった。
だから、景虎は雅姫の願いを叶えるために、彼女を置いていった。
必死な思いで密書を届け、それを見た雅姫の父は激怒した。
雅姫の叔父を打つべく出陣する。その準備中、景虎は主君から最大の名誉を賜った。
『よくやった』
主君の役に立てた。それは最大の誉れであるはずなのに、景虎はそれが正しいこととは思えなかった。自分は姫を置いて生き延びた。彼女はもう――。
自分は彼女の命と引き換えに生きたようなものだ。
使命を全うしたはずなのに、景虎は己を許せなかった。
――――その景虎の後悔は、深く俺の中に残っていた。
もはや俺の一部となっていて、だから余計、初音の叔父の件については早めに処理したかった。
初音の悲願を叶えるため、彼女の叔父を会長の座から下ろした。反社会的組織に融資していたことが発覚して、青葉信用組合は上層部が一斉に退陣したのだ。
それでも青葉信用組合は地元の融資先だ、なくなってしまっては困る存在。だから彼女が信頼している人々を呼び戻した。
彼女と俺をつないだ伊藤さんもそのひとりだ。
彼は批判と不興が多い青葉信用組合でも、率先して立て直しを請け負ってくれた。
「全力を尽くします。本当にありがとうございます!」
そう涙ながらに言ってくれた伊藤さんがいるならば大丈夫だろう。
俺は場を整えただけだったが、自分でもうまくやったと思う。
それなのに、なぜ景虎の後悔の夢ばかり見るのだろう。
車内でうたた寝をして、目を覚ますと、頭がぼんやりしてひどくだるかった。
「社長、お目覚めですか?」
若林の声も遠くに感じて、思わず髪の毛をかきむしる。
「悪い。……寝てたか」
「十分ぐらいですけど」
「……そうか」
「いくら初音さんのためとはいえ、根詰めて働きすぎですよ」
「だが、最短でできた」
「人脈も金も使って、ですけどね」
若林の小言を聞き流しながら、座席に体重を預ける。まだ夢の中にいるようなぼんやりした頭で「はっ」と笑った。
「そのために稼いでいるんだ。文句はないだろ」
「私は文句がありますよ。いつもこき使われて」
「優秀で助かっているよ」
そんな軽口を叩き合って、体を起こす。
「黒川の方も攻撃プログラムを回避できるようになったな」
「社長の解析と的確な部下への指示のおかげで」
「初音が記憶していたのが、ヒントになったんだ。あれがなければ苦戦していた」
「まあ、そうですね」
「優秀な部下が多くて、助かっている」
ふあっとあくびをしているうちに家の前に着いた。
「明日はいつもの時間にお迎えにあがりますから」
「ああ、おやすみ」
運転手にも「ご苦労様」と言い、俺は家の中に入った。腕時計を見ると、午前ゼロ時だった。
(初音は寝ているだろうな……)
あくびをかみ殺し、廊下を歩く。居間に灯りが付いていて、まさかを思いながら急いで向かった。
眠そうに船をこいでいる初音がいた。
(俺を待っていてくれたのか……ご褒美だな)
近づいて顔を覗き込み、声をかける。
「まだ、起きていたのか……眠そうだな」
そう言うと、彼女はうっとりと目を細めた。
彼女にしては珍しく手を伸ばして、甘えるように首に絡まる。
リン――。
彼女に贈った鈴が小さく鳴った。
「あの場所を元に戻してくれて、ありがとう」
そして、夢の続きのようなことを言われた。
現実と夢の境界があいまいになっていく。
「信じていました。……景虎」
その一言で、俺の理性は剥がれ落ちた。
夢と現実が接続し、俺の中の景虎が暴れ出す。
一番欲しかった言葉を与えられ、目の前には自分より大事な女がいる。
その存在を確かめたくなったのか。気が付けば、魂に触れるように彼女に口づけた。その行為にふけ、彼女のすべてが欲しくなった。
(――馬鹿が。今じゃないっ!)
なんのためにここまでやってきたんだ。
初音が取り巻くものを全て潰したら彼女に――。
今度こそ結婚を申し込もう、と決めていた。
これでもう安全だ。何も心配はいらない。
そうなれば、初音も俺だけに気持ちを向けるだろう
だからこれまでずいぶん我慢してきたんだ。
不可侵だった彼女と、今度こそ未来を。
そう頭では理性がささやくのに、彼女に口づけるのをやめられなかった。
俺自身の欲と景虎の欲が交じり合い、彼女にぶつけていた。
「……ダメだ、初音! このままでは抱いてしまう」
そう言ったのに、彼女は全てを受け入れるように微笑んだ。
そして熱に浮かされただけの俺に向かって「抱いてください」と言った。
その瞬間、ぷつんと理性が切れた音がした。
いや、あらゆる束縛から解放されたのかもしれない。
俺は彼女を横抱きにし、自分の住処に連れていった。
誰にも奪われないように。
彼女が消えていなくなってしまわないように。
今は、この腕に閉じ込めなければ――。
その晩、俺は後戻りできなかった。
彼女が腕の中にいる実感が欲しかった。




