6-1 後戻りできない夜
『景虎……景虎……』
『どうしましたか、姫様』
『なんでもないの。呼んでみたかっただけ』
『っ……姫様、このような触れ合いをしてはっ』
『抱擁しているだけよ。誰も見ていないわ』
『……しかし』
『今はいいの。景虎……わたしの景虎……』
深い夢に囚われながらも、わたしは目を開く。今日は頭がぼんやりしていて、まだ夢の中にいるようだ。無意識に手を伸ばし、抱き寄せていた彼を探した。そこでシーツを掻いていることに気づいて、視界が鮮明になった。
体を起こすと、まだ心臓がとくとく弾んでいる。雅姫が、まだ景虎を抱きしめているかのようだ。
「そっか、……そうだったわね」
姫と忍者という立場上、雅姫は景虎に思いを伝えることはできなかった。
(「わたしの景虎」は、「愛している」の代わりだったのよね……)
言えなかった慕情がこみ上げて、ちくりと胸が痛んだ。
忍さんを好きだと思ってから、ふしぎなことに雅姫の景虎への思いも強くなっている気がする。そんな夢ばかり見ている。
「ふたりは幸せになれればよかったのにね……」
その後にくる別離を思い出す。どうしようもないことなのに胸がざわついた。
***
割烹着を着てネックレスを付けて、朝食の用意をする。しばらくしてからスーツを着た忍さんが起きてきた。今日は早くから一泊二日の出張だそうだ。
「おはよう、初音」
「おはようございます。あ、今日はサンドイッチにしたんです。もう出られるんですよね?」
「手軽に食べられていいな」
忍さんは立ったままサンドイッチをつまみ、口に運んだ。ほうじ茶を差し出せばほほ笑みながら、わたしのひたいに軽くキスをする。
まるで触れていないと落ち着かないと言わんばかりに、相も変わらず彼はスキンシップが好きだ。
それをはにかみながら、わたしもごくごく自然に受け入れている。
彼はほうじ茶を飲むと、腕時計を見た。
「そろそろ出る。二日間、出張だが、カナタを呼んでいるからな。俺がいないからといって、ハメを外すなよ?」
憮然としながらしっかり釘を刺してきて、くすくす笑ってしまった。
「カナちゃんとお留守番しています」
「あいつは男だからな。分かっているな」
「はい。いってらっしゃいませ」
ぺこりと頭を下げると、忍さんはまだ心配そうな顔をしていた。
(……心配症なんだから)
そんなところが可愛く感じながら、わたしは忍さんに言う。
「お時間は大丈夫ですか?」
「あ、ああ……そうだな」
また時計を見て忍さんは嘆息する。
「いってくる」
「はい」
「ああ、――そうだ」
忍さんはふと、ニヤリと含みのある笑みを口元に浮かべた。目を丸くしていると上機嫌でわたしに言う。
「昼のニュースを見てくれ。初音の見たいものがやっている」
(なんだろう?)
尋ねる暇もなく忍さんは慌ただしく出ていってしまった。
入れ替わりでカナちゃんがやってきた。
「初音ちゃん! おっはよー!」
「カナちゃん、おはようございます」
「今日は何する? どこか出かける?」
「あ、今日はお昼にニュースを見る約束をしてまして」
「そっか。じゃあ、家にいる? ごろごろのんびりしよっか」
にっこり笑ったカナちゃんに、わたしも笑顔を返す。
「はい。お昼はカナちゃんの好きなオムライスを作りますね」
「やった! うえーい!」
それからわたしは本を読み、カナちゃんはスマートフォンをいじっていた。
「初音ちゃん、なんで地図を読んでいるの?」
「ああ……東京の土地を覚えようと思いまして」
「ふーん。この辺はもう覚えちゃってない? まだ覚えたいの?」
「ええ……そうですね。どこか分からないと不安ですし」
苦笑いを零しながら、地図帳に視線を落とす。
ぺらり、ぺらりとページをめくっていると、カナちゃんが目を丸くした。
「すっげ。初音ちゃん、速読できんだー」
「本とか文字だけですが」
「ふーん。あ、巣鴨! ここにさ、すっげえ、うまいどら焼きが売ってる場所!」
「どこですかっ」
「ここ! バターどら焼きなんだけどさ。超うまいのっ!」
「……そ、そんなにおいしいのですか」
「うんうん。サイコーだよ! 今度、日向と一緒に行っておいでよ!」
笑顔で言われ、期待で胸が膨らむ。
「誘ってみます」
そんな話をして、お昼になった。
オムライスを食べながらテレビをつけるとお昼の報道の時間がくる。
シンプルな背景にスーツを着たニュースキャスターが神妙な顔でニュースを読み上げた。
「東海道地方にある青葉信用組合で不正取引の疑いがあり、監査が入りました――」
淡々と読み上げられた事実に、息が止まるかと思った。
「初音ちゃんっ、これって。初音ちゃんの!」
カナちゃんの声も遠く、わたしは瞬きせずに情報を脳に焼きつけた。
叔父は会長職を解かれ、経営陣は刷新される。
「あああ! 日向!」
その特別調査委員のひとりに忍さんの姿があった。記者にマイクを向けられた。忍さんは自信に満ちた笑みで話していた。
「青葉信用組合は失態をおかしたことは紛れもない事実ですが、もともと地域に根差した信用組合です」
ふっ、と。忍さんの視線がカメラに向かう。わたしと目が合った。
「私は特別調査委員として、元の青葉信用組合に戻す努力を致します」
その強い眼差しに射抜かれ、全身が痺れた。
持っていたスプーンが手からすべり落ち、カランと音を立てる。無作法をしてしまったのに、わたしは惚けたままだった。
ドキドキと心臓の音が大きくなっていくが、喉から声が出てこない。思いがあふれて、言葉にならない。
(こんな、ことが……起きるなんて……)
忍さんを信じていなかったわけじゃない。だけどあまりに鮮やかに解決されて、理解が追いつかない。
「初音ちゃん? 大丈夫?」
カナちゃんが顔をのぞきこむ。わたしはか細く息を震わせながら、カナちゃんに言った。
「カナ、ちゃん……青葉が、青葉が……」
「うんうん。一緒に見てたよ! やったじゃん、初音ちゃん!」
カナちゃんがグッドのハンドサインを作る。その満面の笑顔に涙がこぼれ落ちた。
(この光景を見たかった……やっと、ここまできたんだっ)
わたしは泣きながらテレビを見た。次のニュースが流れていたけれど、ゆがんだ視界の奥に、忍さんの気配が残っていた。
「ありがとう、忍さん……っ」
この思いを早く彼に伝えたかった。




