第七十二話 「暗躍する者」
阿武隈川の水面に、朝靄が立ちこめていた。
「……妙だな」
阿武隈川の河岸で、舟番の男が眉をひそめた。
水位は安定している。堤も無事。
だが――流れが、わずかに乱れている。
「逆流防止の閘門が……半分、開いている?」
あり得ない。
昨夜、確かに閉じたはずだった。
同刻。
荒浜新港では、蔵王丸が出航準備を整えていた。
「荷が一俵足りぬぞ!」
「いや、帳面では揃っている!」
積荷の数が合わない。
しかし、騒ぎはそれだけでは終わらなかった。
昼過ぎ。
村田城に急報が相次ぐ。
「阿武隈川の閘門、意図的に操作された形跡あり!」
「荒浜新港で積荷が抜き取られ、
しかも“伊達米が横流しされた”との噂が立っております!」
「江戸では、
“伊達が裏で米を操っている証”として話が広がり始めています!」
宗高は、静かに報告を聞いていた。
福地右近が低く言う。
「偶然ではありません。
しかも、内部の仕組みを知っている者の手口です」
宗高は頷いた。
「……来たな」
蔵王会の内部で、密かに調査が始まった。
人足、舟番、勘定方、用水役――
一人ひとりの動きを洗い出す。
やがて、
不自然な一致が浮かび上がった。
妨害が起きた前日、必ず城下の酒屋に集まる数名の者ら
荒浜と白石、両方の情報に通じる立場
そして――伊達家中の末席に名を連ねる者たち
「殿……」
右近が、慎重に言葉を選ぶ。
「内通しているのは、
外様や町人ではありません」
「伊達家の家中、
それも――先祖が没落した家の者です」
宗高の目が、わずかに曇った。
内応者の中心は、
かつて戦で功を立てられず、
知行も伸びず、
近年は蔵王会の台頭でさらに立場を失った一派だった。
「宗高のやり方は、
武士を商人に落とすものだ」
「蔵王会など、
伊達の威を借りた町人組織に過ぎぬ」
彼らは、そう囁き合っていた。
そこへ――
反伊達勢力の密使が忍び寄る。
「伊達家を倒す必要はない」
「宗高一人が失脚すればよい」
「お前たちは“正義の諫言”をしたことになる」
金と、
将来の地位を餌に。
事件は、夜に起きた。
荒浜新港の倉が燃えた。
炎は小さい。
だが――狙いは明確だった。
「伊達米の不正隠蔽の証拠を、
焼き払おうとした形跡あり!」
さらに同時刻、
阿武隈川の堤で土嚢が抜かれ、
「伊達の治水は欠陥だ」という噂が流された。
宗高は、城の評定の間で静かに言った。
「これは、
“失敗”ではない」
「失脚させるための工作だ」
福地右近は、迷いなく動いた。
港、川、城下――
要所をすべて押さえ、
内応者たちを一斉に拘束する。
その中に、
宗高も見知った顔があった。
「……お前か」
男は、顔を伏せたまま言った。
「殿は、
武士の誇りを忘れさせた」
「商いなど、
刀を置いた敗北です」
宗高は、怒鳴らなかった。
「誇りとは、
民を飢えさせぬことだ」
「刀で守れぬなら、
知恵で守る」
沈黙が落ちた。
問題は、
すべてを明るみに出せないことだった。
家中の内応が露見すれば、
伊達家そのものが揺らぐ。
政宗、忠宗、成実、片倉家――
密議の末、決断が下された。
主犯は病死・失踪扱い
一部は辺境への転封
表向きは「不手際による処罰」
宗高は、歯を食いしばった。
「……私の名で、
家を守るということか」
政宗の言葉が、静かに落ちた。
「それが、
お前の役目だ」
事件は収束したように見えた。
だが、江戸ではすでに囁かれている。
「伊達家中、
内に火種あり」
反伊達勢力は、一歩退いただけだった。
宗高は、夜の城下を歩く。
(次は、
幕府が直接動く)
結姫の言葉が胸に残る。
「殿……
生きていてください」
宗高は空を見上げた。
蔵王の峰は、
静かに闇に沈んでいる。
――戦は、
まだ終わっていなかった。




