第六十七話 「堤、 立つ」
――天は、なおも試す
堤の輪郭がはっきりと見え始めた頃、
南部領の空は、再び不穏な色を帯びた。
朝から湿った風が吹き、
山の稜線は雲に呑まれ、
阿武隈川は静かに、しかし不気味に水位を上げていた。
石川宗昭は堤の上で空を睨み、低く言った。
「……来るな。」
その予感は、夕刻に現実となる。
雷鳴。
叩きつけるような豪雨。
山からの水が一斉に流れ込み、
分水路は唸り声を上げた。
「水位、急上昇――!」
「上流からの流木だ! 堤に当たるぞ!」
完成間近の堤が、
初めて“本気の水”に晒された。
――逆流の恐怖
最大の問題は、
新設した分水路の合流点だった。
阿武隈川本流が増水すると、
支流へ逆流し、
堤の内側から破壊する恐れがある。
「逆流が始まれば……
堤は内側から崩れる。」
人足達の声は震えていた。
宗昭は即座に叫ぶ。
「逆流防止の仮締切を急げ!
杭と土嚢を――!」
だが、水は速い。
人の手を嘲笑うかのように、
濁流は迫ってくる。
そのとき、宗高が前へ出た。
「宗昭殿。
今こそ“閘門”だ。」
宗昭が目を見開く。
「だが、完成は三日後の予定……!」
「仮でもよい。
今ある材で“閉じる”ことができれば、
流れは必ず抑えられる。」
宗高は蔵王会の者たちへ声を張った。
「木材!
鉄具!
舟を寄せろ!」
雨の中、
人足、蔵王会、角田の民までが集まった。
「今日、ここを越えねば、
すべてが水泡に帰す!」
宗昭の声に、
誰一人、退かなかった。
木材が組まれ、
蝶番代わりの鉄具が打ち込まれる。
「締めろ!
もっと下だ!」
「押さえろ、逆流が来るぞ!」
水に胸まで浸かりながら、
人々は必死に手を伸ばした。
結姫と女衆は、
温かい薬草茶を配り続けた。
「戻ってきたら、必ず飲んでください!」
――祈りと技の狭間で
水位が限界に達したその瞬間、
宗高は堤の中央に立った。
雨に打たれ、
衣は重く張り付く。
(――今だ)
宗高は静かに手を合わせた。
目立つ祈祷ではない。
ただ、蔵王山で培った“水を鎮める呼吸”。
不思議と、
渦立っていた流れが、
わずかに、ほんのわずかに緩んだ。
「今だ! 閉じろ!」
宗昭の号令と同時に、
仮設の閘門が下ろされた。
――堤、立つ
濁流は閘門にぶつかり、
唸り声を上げた。
だが――
越えない。
堤は、震えながらも、
確かに持ちこたえた。
夜半。
雨脚は徐々に弱まり、
川の水位も、ゆっくりと下がっていく。
誰かが、呟いた。
「……守った……」
宗昭はその場に膝をつき、
泥の上に手をついた。
「……耐えたぞ……」
三日後。
晴れ渡る空の下、
正式な逆流防止閘門が据え付けられた。
重厚な木扉と鉄具。
水位に応じて閉じ、
逆流のみを防ぐ構造。
宗昭は宗高に並び、
静かに言った。
「これで……
阿武隈は、暴れぬ。」
宗高は川面を見つめ、うなずいた。
「いや。
暴れても、受け止められる。」
堤は、
川を縛るためではなく、
人と水が共に生きる“境”として、
そこに立っていた。
人足たちが、
泥だらけの顔で笑う。
「終わったな……」
「生きて、やり遂げたな。」
風が吹き、
川面がきらりと光った。
それはまるで、
阿武隈川が、
人の知と心を認めたかのようであった。




