第六十六話 「父の病」
仙台城の奥御殿。
晩秋の冷えが石畳から忍び寄る頃、政宗の咳が増え始めていた。
「……ごほん」
控えの者が一瞬、視線を交わす。
政宗自身は気にも留めぬ様子で、扇子を広げた。
「どうした、そんな顔をして。
老いたと思うたか?」
家臣は慌てて頭を下げる。
「い、いえ……ただ、夜更けに咳が続くと聞き及びまして……」
政宗は鼻で笑った。
「この程度で参る儂ではない。」
だが、宗高は違った。
評定の席で、政宗の顔色を見た瞬間、胸に小さなざわめきが走った。
(目の下の影が濃い……声も、少し掠れている)
さらに、
食事の席で酒の杯が進まぬのを見て、確信に変わる。
「父上……」
政宗は宗高を一瞥した。
「何だ。」
「近頃、夜半に目覚めることはございませんか。
胸苦しさや、寒気は。」
政宗は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、ふっと笑う。
「……さすがは蔵王の子よ。
気づいたか。」
扇子を閉じ、低く言った。
「夜に、息が浅くなることがある。
身体が、思うように温まらぬ。」
宗高は深く頭を下げた。
「恐れながら……
それは“気血の巡り”が衰えてきた兆し。
今、手を打たねば、重くなります。」
政宗は宗高を見つめ、静かに頷いた。
「申してみよ。
そなたの策を。」
宗高は即座に動いた。
仙台城奥に、蔵王会の薬草箱が運び込まれる。
結姫も呼ばれ、女衆とともに下準備に当たった。
宗高は処方を告げる。
「第一は“温補”。
身体を内から温め、血の巡りを戻す。」
蔵王山麓の黄耆
軽く焙じた当帰
乾燥させたなつめ
仙台近郊の鶏で取った澄んだ出汁
仕上げに少量の生姜
香りが立ちのぼり、
部屋の冷えた空気が和らぐ。
政宗は椀を手に取り、鼻を近づけた。
「ほう……。
これは、良い香りだな。」
「修験の折、山で用いられる処方です。
強い薬ではなく、日々を支えるもの。」
政宗は一口、静かに啜った。
「……うむ。」
そして、ふっと目を細める。
「不思議なものだ。
胸の奥が、ゆるりと解ける。」
宗高は安堵の息をついた。
その夜、政宗は珍しく早く床に就いた。
宗高は脇の間で、灯を落とさず控える。
夜半。
障子の向こうから、政宗の声がした。
「宗高……いるか。」
「はい。」
宗高が寄ると、
政宗は横になったまま、天井を見つめていた。
「人はな……
病を得て、初めて己の歳を知る。」
宗高は黙って耳を傾ける。
「わしは、死を恐れぬと思っておった。
だが……まだ、見届けたいものがある。」
政宗は宗高へ視線を移した。
「そなたの行く先だ。」
宗高は胸が締めつけられ、深く頭を下げた。
「父上が築かれた礎あってこそ、
我らは進めます。」
政宗は微かに笑った。
「だからこそ、倒れるわけにはいかぬな。」
数日後。
政宗の咳は減り、顔色も明らかに良くなった。
忠宗が報告を受け、安堵の声を漏らす。
「父上の顔に、血の気が戻った。」
政宗は機嫌よく言った。
「蔵王の薬膳、なかなか侮れぬぞ。」
宗高は念を押す。
「油物と酒は、しばらく控えられませ。
代わりに、
麦飯、根菜、白身魚を。」
政宗は渋い顔をしたが、すぐに笑った。
「……わしを生かすためと思えば、我慢するか。」
夜、仙台城の天守から城下を眺め、
政宗は独り言のように呟いた。
「宗高……。
そなたは、刀ではなく“命”で国を治める男だ。」
その言葉を、宗高は背後で聞いた。
「父上……。」
政宗は振り返らず、ただ言った。
「わしが倒れる日が来ても、
伊達は揺るがぬ。
そう思えるのは、そなたがいるからだ。」
冷たい風が吹く。
だが、政宗の背は、まだ強かった。
宗高は深く一礼し、
心に誓う。
(この命、
父のため、領のため、
そして未来のために使おう)
仙台城の夜は静かに更けていった。




