第六十二話 「阿武隈川氾濫」
角田の治水工事が始まってまもない初夏。
空は夕方から、湿った風が田畑を撫でていた。
日が変わる頃になると、まるで天が裂けたかのような雨が降り始め、
朝方には川沿いの村々に避難の声が響き渡った。
「阿武隈川が増水しているぞ!
堤の南側が危ない、急げ!」
「子供たちを連れて高台へ! 早く――!」
宗高と石川宗昭は、角田城の見張り台から川を見つめた。
濁流は怒り狂う獣のようにうねり、
仮の堤防は今にも呑まれそうである。
宗昭が息を呑んだ。
「……間に合わぬかもしれませぬ。」
宗高は首を振った。
「いや、まだ出来ることはある。
すべての者を動かす。
人命第一だ。」
宗高は大音声で命じた。
「皆のものに告ぐ!
今より避難の先導と救助に当たる!
黒前掛け組は炊き出しと傷病者の世話、
蔵王会は物資運搬、
角田衆は高台への誘導だ!」
その言葉からほどなくして、
ついに南側の堤が砕けた。
轟音とともに茶色い波が田畑に流れ込み、
家々が揺れ、悲鳴が走る。
宗高は濁流に向かって走った。
「こちらだ! 手を離すな!
子供を先に!」
宗昭も泥水に足を取られながら必死に声を張り上げる。
「老人を担げ!急げ!」
蔵王会の面々が続いた。
福地右近の声が豪雨の中でもよく通る。
「炊き出し場を長泉寺に設けよ!
薬草茶の準備を急げ!」
赤坂兵部が水に濡れた髪を振り、叫ぶ。
「流されるな! 綱を張れ、こちらに!」
有見勘平は、家屋の屋根に取り残された者を救助した。
「掴まれ! 絶対に離すなよ!」
豪雨の中、蔵王会の女衆は迅速だった。
薬草茶を煮出し、
そら豆粥、乾物の汁物が大釜で煮えたぎる。
牟宇姫は女衆の中心に立ち、
濡れた子供たちを抱き寄せ、
優しく声を掛け続けた。
「大丈夫……もう心配はいりませんよ。
お母様もすぐに来られますよ。」
「風邪を引きます。
乾いた布を――。
煎じ薬は熱がある者から順に服させてください。」
宗高と宗昭は、避難所に戻ってくると
ほっとした顔を交わした。
宗昭が宗高に言った。
「……蔵王会の動き、見事です。
これなら角田の者たちも救われましょう。」
宗高はうなずき、泥だらけの手で火鉢にあたる子供の背をさすった。
「治水は間に合わなかったが……
今は命を繋ぐことが第一だ。」
雨脚はさらに強まり、
長泉寺の屋根を叩き、
外は濁流が唸りを上げていた。
赤坂兵部が報告に来る。
「宗高様、南の集落の避難は完了しました。しかし、被害の全容はこれからになります。」
宗高は濡れた髪を払って静かに言った。
「生きてさえいれば、また田を起こせる。
角田の地は、必ず立ち上がる。」
翌朝。
雨が少し弱まり、曙光が寺の柱を照らした。
寺の縁側には、温かい粥を食べる人々、
咳き込みながらも安堵の表情を見せる老人、
笑顔を取り戻した子供たちがいた。
宗昭が空を見上げながらつぶやいた。
「宗高殿……。
治水工事、必ずや完成させましょう。
角田の者たちのためにも。」
宗高は頷き、
泥に汚れた川のほうを見つめながら言った。
「この苦しみを、無駄にはせぬ。
阿武隈川を“恵みの川”へ変えてみせる。」
その言葉を、雨上がりの風が運んでいった。




