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最後の春 20歳

 雪は完全になりを潜め、春の風が森を渡っていく。


 淡い桜色と若葉の緑が入り混じる中、ひよりは花束を胸に抱えて歩いていた。

 20歳になった彼女の背筋は伸び、歩みは凛としていたが、その瞳の奥には子どものころから変わらない優しい光が宿っていた。


 森の奥深く、陽光がやわらかく差し込む聖域へたどり着くと、そこには変わらぬ姿で聖剣が立っていた。

 苔むした岩の台座に深々と突き立ち、風に吹かれても、雨に打たれても、そこに在り続けてきた存在。

 ひよりの胸の奥に、懐かしいものが一気に押し寄せてくる。


「……来たよ、聖剣さん」


 ひよりは花束を抱きしめたまま、小さく息を吐いた。その声には、別れを意識したわずかな震えが混じっていた。


 彼女は聖剣の前に立つと、少し迷うように唇を噛んでから、静かに語りかけ始めた。


「ねえ、聖剣さん。……ついに、私の書いたお話、本になったんだよ。街の人が読んでくれて、褒めてくれて……。それで、私、街に行くことになったの」


 声に出した瞬間、胸がちくりと痛む。

 夢だった。ずっと憧れていた。

 けれど、ここを離れるのだと改めて思うと、嬉しさと同じくらい寂しさが押し寄せてくる。


「やっと夢に近づけた。でも……離れるのは怖いな。あなたに、もう会えなくなるのかなって思うと……」


 そう呟いたあと、ひよりは小さく笑った。

 ここに来た理由は、報告だけじゃない。

 どうしても、伝えたいことがあった。


「覚えてる? 最初にここに来たのは、私が6歳の春だったよね」


 その言葉とともに、ひよりの表情に淡い微笑みが浮かぶ。

 ……迷子になって、泣きながら『ママ』と呼んでいた幼い自分。森の奥で見つけた日だまりに光る聖剣の姿。あの時の安堵と驚きが、今も胸の奥で鮮やかに蘇る。

 彼女は小さく肩をすくめて笑った。


「泣き虫だった私が、聖剣さんを見て、涙を止めちゃったんだ。……変だよね。誰も答えてくれないのに、どうしてか安心できて」


 ひよりは花束を片手に持ち直し、そっと台座へ視線を落とした。


「それから、梅雨のときは……ずぶ濡れになりながらここに来たっけ」


 声に苦笑が混じる。

 ……しとしとと降る雨。水滴に濡れた草木。聖剣の刃を滑り落ちるしずくを、幼いひよりは飽きもせず眺めていた。冷たい雨に凍えながらも、ただそこにいるだけで安心できたあの時間。


「ママに怒られちゃったんだよ。靴も服もびしょ濡れで。でもね、どうしても来たかったんだ。聖剣さんに会いたくて」


 言葉を紡ぐたび、ひよりの胸に思い出の情景が浮かんでは消えていく。


「それから……10歳の夏には、蝉の声を聞きながらここに座ってたよね」


 ひよりは目を細め、森の木漏れ日を見上げた。

 ……強い陽射しの下、背中をじりじりと焼くような暑さ。蝉が鳴き止まない森の中で、ただ聖剣の影に身を寄せていた幼い自分。汗をぬぐいながら、草の上に寝転んで空を見上げ、どうでもいい話を一方的にしゃべっていた。


「暑くて暑くて……でも、ここだと風が吹いて涼しかったんだ。聖剣さんが守ってくれてる気がして」


 彼女は唇に小さな笑みを浮かべた。


「12歳の秋には、本を持ってきて、隣で読んだよね」


 彼女はふっと笑みを深める。

 ……落ち葉が舞う季節、聖剣のそばに腰を下ろし、ノートに拙い文字で物語を書き綴っていた。聖剣を抜いて世界を救う。そんな子どもらしい夢想を楽しげに語っていた自分。


「それだけじゃ足りなくて、木の実までお供えしたっけ。おやつだよって。聖剣さん、食べられないのにね」


 言いながら、思わず吹き出しそうになって肩を揺らす。頬に浮かぶ赤みは、あの日の無邪気さを思い出してのものだった。


 けれど次の思い出に触れたとき、ひよりの声色は少し沈む。


「14歳の冬……初雪の夜。家出して、泣きながらここに来た」


 視線がわずかに揺れ、唇が硬く結ばれる。

 ……親と衝突し、自分の夢を笑われた悔しさ。吐き出す場所もなく駆け込んだ聖域で、白い雪が降り積もる中、ただただ聖剣に語りかけた夜。


「聖剣さんは何も言わなかったけど、雪が……『大丈夫』って言ってくれてるみたいで。だから、あの夜を越えられたんだ」


 胸の奥からせり上がる熱に耐えるように、ひよりは深く息を吐く。その瞳は濡れ、光を宿していた。


「それから16歳の冬……帽子や手袋を無理やり被せて遊んだよね」


 彼女の声が柔らかくほどける。

 ……雪を払って、「寒いね」と笑っていた自分。大人びた外見になりながらも、聖剣の前では子どもに戻れた時間。


「今思うと、すごく恥ずかしいな。でも……聖剣さんが喜んでくれた気がして」


 ひよりは花束をそっと台座の前に置いた。森を渡る春風が花弁を揺らし、香りが淡く漂う。


「18歳の雪解けの頃には、本格的に小説を書き始めてた」


 彼女は花束を見下ろし、瞳を細める。

 ……聖剣との出会いを物語に変える日々。街への憧れと不安を語りながら、「でも聖剣さんがいるから大丈夫」と心の中でつぶやいていた。


「あのとき言ったよね。この小説がうまくいったら街に行くかもって」


 ひよりは両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。そして、正面の聖剣を真っ直ぐに見据えた。


「……その夢、叶ったんだ」


 言葉を重ねるたび、涙が頬を伝った。

 けれど、もう止めることはできなかった。


「『聖剣さんと、私の物語』が本になって、たくさんの人に読んでもらえて。街で続きが書けることになったの」


 彼女は一歩近づき、花束に手を添えた。


「……だから、あっちでも頑張るからね。街の人たちに、私の物語を届けるんだ」


 声は震えていたが、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。


「ここにいてくれて、ありがとう……」


 震える声でそう告げると、涙がぽろぽろと落ちて花びらを濡らした。幼いころからすべてを受け止めてくれた存在への感謝と、これから歩む道への決意がその言葉に込められていた。


 長い沈黙ののち、ひよりは涙を拭い、静かに微笑む。


「またね……私の聖剣さん」


 振り返る声は、子どものころの無邪気さと、大人になった彼女の強さの両方を帯びていた。


 ひよりは振り返らずに森の道へと歩き出す。その背を春風がやさしく押し、木漏れ日がその姿を照らす。

 聖剣はただ黙して、そこに在り続けた。だが、彼女の言葉と涙は確かに刻まれ、静かな森の奥で光となっていつまでも漂っていた。

作者の一言

こんにちは、シエルです。

『聖剣さんと、私の物語』はこれで完結となります!

正直、私も泣きながら書いていました……

別の作品で会えたら嬉しいです!ということで、ごきげんよう。



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