初雪 14歳
冷たい風が、頬を切るように吹き抜けた。
吐き出した息は白く、すぐに夜の闇に溶けていく。
「……もういや」
桜木ひよりは、マフラーをきつく巻き直しながら森の小道を歩いていた。
家を飛び出してきたのは、ついさっきのこと。居間での言い争いの余韻は、まだ胸の奥で生々しく疼いている。
「そんなもの書いてどうするんだ、将来のことを真剣に考えろ」
父の低い声。
「好きなことだけじゃ生きていけないんだよ」
母のため息まじりの声。
返す言葉は、わかっていた。きっと正しいのは親の方だ。
それでも、ひよりの胸に積もった思いは抑えきれなかった。
「でも、わたしは……書きたいんだよ!」
机の引き出しに隠していた原稿用紙。そこに並んだ稚拙な文字たちは、ひよりにとっては宝物だった。
聖剣さんと自分の物語。小さな頃から胸の中で育ててきた、大事な夢。
否定されるのが、たまらなくつらかった。
だから、気づいたら飛び出していた。
森の入口に差しかかると、冷気がさらに濃くなった。
足元の落ち葉はすでに霜に縁どられ、踏みしめるたびにぱり、と音を立てる。
木々の枝は黒々と空に突き立ち、その隙間からは鉛色の空がのぞいていた。
ひよりは、知っている。この先に、あの場所がある。
子どもの頃、泣きながら迷い込んだときから、いつも自分を受け入れてくれた聖域。朽ちかけた石の台座と、そこに突き立つ聖剣。
「……聖剣さん」
小さく名前を呼ぶと、胸の奥の張りつめた糸がふっと緩む気がした。
ひよりは凍りついた空気を吸い込みながら、森の奥へと歩を進める。
やがて、木々の合間から淡い光が差し込む。
それは太陽の光ではなく、白い雪の反射だった。
空から、最初のひとひらが舞い降りてきたのだ。
「……雪」
手を差し出す。小さな結晶はすぐに溶けて消えた。
初雪だった。
森の奥へと進むにつれ、白いものは次第に増えていった。ひよりの肩に、髪に、指先に。冷たく触れては、すぐに消える。
けれど足元の地面には、うっすらと白が積もりはじめていた。
しんとした冷たい空気のなかで、雪の降る音だけが聞こえるようだった。
実際には音などしないはずなのに、耳を澄ませば「さらさら」と囁くような響きが胸に届く。
やがて木々の切れ間から、石の台座が見えた。
そこに聖剣は、いつものように静かに佇んでいる。錆び、欠け、かつての輝きを失ったその姿は、雪を受けて淡く光を帯びていた。
「……聖剣さん」
その一言を口にした途端、堪えていたものが決壊した。
ひよりは駆け寄り、石の台座に膝をつき、声を震わせた。
「……もういやだよ。どうして、わかってくれないの」
返事はない。
けれど、返事を求めているわけではなかった。ひよりはただ、目の前にいてくれる存在に向かって心を吐き出したかった。
「お父さんもお母さんも、間違ってないのはわかってる。でも……わたし、書きたいの。ここに来て、聖剣さんのことを見てると、いくらでもお話が浮かんでくるんだよ」
両手で台座の冷たい石を抱くようにして、額をつける。
冷え切った石の感触が、涙に濡れた頬にひんやりと伝わる。
「……でも、そんなの意味ないって言われちゃった。役に立たないって。……そんなこと、ないよね?」
かすれた声は、雪に吸い込まれて消えていった。
聖剣は黙ったまま立っている。けれどその沈黙は、拒絶でも否定でもなかった。ひよりには、それがわかった。
小さな頃からずっと、泣くたびにここに来て、慰められてきたのだ。言葉はなくても、ここにいてくれる。それだけで十分だった。
ふと、ひよりのまつ毛に雪がとまった。白く細かな結晶が、涙の粒と並んで震えている。目を閉じると、そのまま頬を滑り落ちて消えた。
「……大丈夫、って言ってるみたい」
ぽつりと呟いた言葉に、自分で少し笑ってしまった。胸の奥に張りついていた重苦しい氷が、少しだけ溶けていく。
ひよりは石の台座に背を預けて、ゆっくり座り込んだ。吐く息は白く、冷たいはずの空気が、どこかやさしく感じられる。
空から降る雪は、次第に勢いを増していた。ひよりの肩も髪も、やがて白に覆われていく。世界は音を失い、ただ雪と自分と聖剣だけの静寂に満たされた。
「……ねぇ、聖剣さん。もし本当に物語のなかみたいに、わたしがあなたを抜けたら……」
言いかけて、口をつぐむ。
そんなこと、できるわけがない。けれど幼い頃から書いてきた夢の断片は、まだ胸の中に息づいている。
「それでも……たとえ抜けなくても、わたし、書き続けるよ。だって、それが好きだから」
声にすると、不思議とすっきりした。
聖剣は相変わらず無言で、けれど雪の光を受けて、まるで微笑んでいるように見えた。
その夜、ひよりは長いことそこで雪を浴びながら過ごした。
冷たさのなかで、少しずつ胸の痛みが和らいでいくのを感じながら。
雪は絶え間なく降り続けていた。
聖剣の刃に積もった白は、静かな灯火のように闇を照らしていた。
ひよりは聖剣の前で、ずっとしゃべり続けていた。
言葉はとぎれとぎれで、時には涙に濡れ、時には子どもじみた拗ねた響きを含みながらも、途切れることはなかった。
森を包む雪はしんしんと降り続け、そのすべてを静かに受け止めてくれるようだった。
「……だって、わたしが書きたいんだもん。小説。誰に笑われたって、誰にバカにされたって、わたしは……」
その声は夜の帳に溶け込み、冷たい空気を震わせる。吐息は白く浮かび、淡い光に照らされて淡雪のように散った。
やがて言葉は自分自身に向かっていく。まるで聖剣を前にした独白が、彼女の心の奥に鏡を差し出すかのように。
「……ほんとは、怖いんだ。書いてもダメだったらどうしようって。読んでもらえなかったら、笑われたら、何も残らなかったら……。そう思うと、胸の中がぎゅうってなって、息がつまって……」
指先で雪をすくい、聖剣の台座にぱらぱらと落とす。溶けてすぐ消えるその冷たさが、少しだけ心地よかった。
森の奥からは、かすかな梟の声が響いた。夜の訪れを告げるような低い鳴き声。その合間を縫って、雪が音もなく降り積もる。ひよりは耳を澄ませるように目を閉じ、そしてまた語りだした。
「でも、聖剣さんにだけは、笑われてもいい。わたし、ずっとここでしゃべってきたんだもんね。小さいときから……。泣いたときも、笑ったときも、ここに来て、あなたに話すと落ち着いたんだ。……今日も、やっぱりそうみたい」
唇にかすかな笑みが浮かんだ。
涙で濡れて赤くなった目尻を指でぬぐい、雪の冷たさでひやりとする。
もう、声が震えるほどには泣いていなかった。言葉にするほど、胸の奥で固まっていたものが少しずつ溶けていく。
……夜が深まっていく。
森は雪に閉ざされ、あたりは蒼白い光の世界となった。月明かりさえ雲に隠れ、ただ舞い降りる雪がわずかな明るさを運んでいる。
その中で、聖剣はいつも通りの姿で佇んでいた。
苔むし、欠けた刃先。けれど、雪をいただくその姿はどこか神聖で、まるで少女のすべてを受け止める器のようだった。
「……ごめんね。こんなに長く、わたしのことばっかりしゃべって」
ひよりは小さく息をついた。
「でも、聖剣さんが黙って聞いてくれるから、わたし……ちょっと元気になった。さっきまで、もうどうしようもなくて、ずっと泣いてたのに。いまは……胸が、少し軽い」
膝に積もった雪を払う。指先は冷たくかじかんでいたが、その痛みさえ今は心地よく感じられる。
ふと、聖剣の柄に積もった雪をそっと手で払い落とした。幼いころと同じように……「寒いでしょ」と、冗談のように呟きながら。
返事は、もちろん返ってこない。けれど彼女は、その沈黙を心地よく受け止めることができた。沈黙こそが、この場所の答えなのだと思えたから。
やがて、森の向こうに犬の遠吠えが響いた。村の夜の気配が、わずかに届く。
ひよりは顔を上げ、深く息を吐いた。白い吐息が夜空に昇り、すぐに溶けて消える。その消えゆくさまを眺めながら、静かに立ち上がった。
「……帰らなきゃね。心配してるだろうし。……でも、ありがとう、聖剣さん。今日も聞いてくれて」
雪を踏みしめる足音が、夜の森に小さく残る。きゅっ、きゅっ、と新雪を踏み割る音。
彼女の背はすらりと伸び、14歳の少女らしい輪郭をまとっていた。それでも振り返ったときの表情には、まだ幼いころの名残があった。聖剣に向けるそのまなざしは、信頼と感謝に満ちていた。
「また来るから。……だから、待っててね」
そう言い残し、ひよりは雪明かりの森を抜けていった。
聖剣はただ黙して、彼女の背を見送る。
降り続く雪が、彼女の足跡をすぐに覆い隠していく。けれどその記憶だけは、確かにこの聖域に刻まれていった。
……心の重荷を置き、胸を軽くして帰ることができた夜。
それはひよりがまた一歩、大人に近づいた瞬間でもあった。
作者の一言
こんにちは、シエルです。
思ったより文の量が多くなってしまいました。
まぁ、この出来事を通して少し大人に近づいていくという節目となる話なのでね……
まだまだ成長していくひよりをよろしくお願いします!