夏 10歳
森に夏が訪れると、その景色は一気に色濃く、そして賑やかになった。
葉の一枚一枚が青々と繁り、重なり合って木漏れ日を複雑な模様に変える。
枝先では鳥たちが声を競うようにさえずり、蝉の鳴き声が空気を振るわせ、昼の森を圧倒する音の壁にしていた。
湿った土の匂いはどこか甘く、草いきれと混じり合って、息を吸うたびに夏の重さを胸いっぱいに抱え込む。
ときおり風が吹けば、ざわざわと葉の海が揺れ、光がちらちらと流れるように地面を走った。
ひよりは、夏の日差しに照らされながら森を駆けていた。10歳の体は小さく、まだ頼りなげだが、その足取りは驚くほど軽やかだ。
裸足で草を踏みしめると、指の間から土のぬくもりが伝わり、彼女は「きゃっ」と笑い声を上げる。汗で額に張りついた前髪を手で払いのける仕草も、あどけない。
「セミ、いっぱい!」
両手を大きく広げて、ひよりは木々に向かって叫んだ。樹の幹にしがみつくようにとまっている蝉たちが、びっくりしたように一斉に飛び立ち、バサバサと羽音を立てる。
ひよりは目をまるくして追いかけたが、小さな手で捕まえられるわけもなく、ただ笑い転げるだけだった。
そして、やがて足を止める。目の前に広がるのは、あの日迷い込んで見つけた聖域だ。
木々が自然に道をつくり、陽光を集めるように開けた一角。中心には、夏の日差しを浴びて輝く一本の聖剣があった。
剣は地面に深く突き立ち、まるでこの場所の守り神のように佇んでいる。
梅雨の雨を浴びたはずの刃は曇ることなく、むしろ透明な光を吸い込んだかのように澄んでいる。
柄に刻まれた模様は、太陽の角度で金色や青白い光を返し、ひよりの目を引きつけてやまない。
「せいけんさん!」
まだ舌足らずな声で、ひよりは呼びかけた。
前まではただ「せいけん」と呼んでいたが、気がつけば自然と「さん」がついていた。
自分でも不思議そうに、けれど嬉しそうに笑い、もう一度言ってみる。
「せいけんさん!」
森に響く声に鳥がぱっと飛び立ち、またざわめきが生まれる。剣はもちろん応えはしない。
ただ、真夏の光を反射し、ひよりの小さな体にきらきらとした影を投げかけていた。
ひよりは剣のまわりをぐるぐると駆けまわった。
草の上に倒れ込み、空を仰ぐと、頭上には大きな入道雲がもくもくと湧いている。白い雲が青空をゆっくりと流れ、その影が森に差し掛かると、木漏れ日の模様が淡く変わる。
ひよりは小さな指で雲の形をなぞり、「あれ、うさぎみたい」「あれはパンみたい」と勝手に名前をつけて楽しんだ。
やがて、ひよりは起き上がり、剣のそばに腰を下ろした。
柄に触れようと手を伸ばし、けれど寸前で止める。
これまで何度もそうしてきた。触れてはいけない、と直感しているのだろう。代わりに両手をひざに置き、剣に向かってぺこりと頭を下げた。
「今日も、遊びにきました!」
小さな声は蝉時雨に飲み込まれそうだったが、確かに剣の前に届いていた。
森を吹き抜ける風がひよりの髪を揺らし、草の匂いをまとわせる。
剣の周りには淡い光が差し込み、草花がその光を浴びてわずかに揺れた。ひよりはそれを見て「せいけんさんが、わらったみたい」と呟く。
ひよりはやがて、剣の根元に両腕を回して抱きつくように座り込んだ。
背中にはじっとりと夏の熱気がまとわりつくが、不思議と嫌ではない。
剣が放つ静かな存在感が、暑さを忘れさせてくれる。
「せいけんさん、いつもここにいて、寂しくない?」
答えはない。それでも彼女は笑って続ける。
「ひよりが、いっぱいお話しするからね!」
その言葉どおり、ひよりは花の名前を教えるように語りかけ、虫の動きを実況中継し、自分の小さな秘密……昨夜、ママに叱られたことや、好きな食べ物のことまで口にした。
まるで友だちに話すように、途切れなく言葉が溢れ出る。
その日、夕立が来た。
空がにわかに暗くなり、雷鳴が遠くで低く唸っていた。大粒の雨が葉を打ち、音を立てて聖域に降り注ぐ。
ひよりはびっくりして剣の根元に走り寄り、両手を広げるようにして「わあっ」と声を上げた。
冷たい雨粒が肌を叩く。草は一瞬で濡れ、香りを強めて立ちのぼる。
聖剣は雨に濡れてなお、いっそう鮮やかに光を返していた。水滴が刃をつたうたびに、光は七色に砕ける。
ひよりはその輝きに目を見張り、口を開けてぽかんと見上げた。
「……きれい」
その言葉はかすかに震えていた。
けれど、次の瞬間にはぱっと笑顔になり、両手で水をすくってぱしゃぱしゃと遊び始めた。
「せいけんさんも、雨のシャワー!」
雨音が強まる中、ひよりの笑い声が混じり合う。
怖さよりも楽しさが勝ち、雨に打たれながらも無邪気に跳ねまわった。
やがてずぶ濡れになった体を剣に寄せて座り込み、「あったかい……」と呟く。剣は冷たいはずなのに、彼女にとっては安心そのものだった。
夕立が去り、空が茜色に染まるころ。
濡れた草がきらきらと光を放ち、森のあちこちから再び鳥の声が響いた。
ひよりは剣の前に立ち、両手を腰に当てて胸を張る。
「また明日も、遊びにくるからね! せいけんさん!」
夏の森に小さな約束が響いた。
作者の一言
こんにちは、シエルです。
10歳、12歳前後の子が特に書きにくい気がしますね……その個体によっては大人ぶり始めたり、まだまだ子どものままでいたいと思ったり…
ひよりはまだ考えが子どもっぽく、習った語彙や表現、漢字を使えることで少しは成長している、みたいな感じにしていますね。