梅雨 8歳
森の奥へと続く小道は、しっとりと濡れていた。
空は重たく、灰色の雲が垂れ込めている。ぽつ、ぽつ、と頭上から降り落ちる水滴が、葉を伝って音を立てた。
大きな葉を持つ木々は、まるで傘のようにひよりの頭上を覆っているが、それでも隙間から冷たい雫が首筋へと滑り落ち、ひよりは「ひゃっ」と肩をすくめた。
雨の森は、春に見た時とはまるで違う表情を見せていた。
若草色の葉は深みを増し、つややかな緑をまとっている。地面に張りついた苔は雨を吸い、まるで柔らかい絨毯のようだ。白や薄紫の小さな花々が雨粒を弾きながら首を揺らし、湿った空気の中で甘い匂いを放つ。
鳥たちのさえずりは控えめで、代わりに雨粒が無数に葉を叩く音が、絶え間ない合奏のように森を満たしていた。
ひよりは、小さな足でぬかるむ道をとことこ進む。
水たまりを見つけては、長靴を持っていない素足で「ぴちゃっ」と踏み、はねた泥に顔をしかめたり笑ったりした。
濡れた頬に雨粒がつたうと、思わず手の甲でごしごしと拭い、それがかえって顔を泥だらけにしてしまう。そんなことには気づかず、ただ真剣に雨粒を追い払う仕草を見せるのだった。
森の奥、春の日にたどり着いた場所。
木々がひらけ、しんとした空気をまとった聖域が広がっている。そこには今も、一本の聖剣が突き立てられていた。
聖剣は、雨に濡れていた。
刃に落ちた雫は下へと流れ、鈍い光を帯びて地面へと落ちていく。
柄の部分には苔がじわりと広がり、雨露を吸った草が足元を覆い隠そうとしていた。
まるで長い年月を雨と共に過ごしてきたかのように、剣はそこにあるだけで、森の湿り気と一体になっていた。
「……あ」
ひよりの口から小さな声がこぼれる。
見覚えのある剣を見つけた瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。
両手で濡れたスカートを押さえながら駆け寄り、聖剣の前に立つ。
ひよりは、春の日に初めて聖剣に出会ったときの、不思議な気持ちを思い出していた。
大きくて、強そうで、けれど怖くはなくて。ひよりの涙を止めてくれた存在。
「また、いた……」
幼い声に安堵が混じる。
ひよりは小さな手を伸ばし、雨粒で冷たく濡れた柄にそっと触れた。指先がぴたりと冷たさに驚いて「つめたっ」と肩をすくめ、すぐに手を引っ込める。
それでも再び触れてみたくなる。何度も繰り返すうちに、冷たさが次第に安心の印のように思えてきた。
雨の音が強まる。ざあざあと耳を包み込み、聖域の中を満たしていく。
ひよりは剣の足元に座り込んだ。湿った草がスカートに張りつき、裾がじっとりと重たくなるが、気にも留めない。
傍にいる聖剣に身体を寄せるように、膝を抱えて小さく丸くなる。
「ここにいると……だいじょうぶ」
自分に言い聞かせるように呟き、雨空を見上げる。
雫がまつげに溜まり、瞬きをするとぱちりと落ちる。けれどもう泣いてはいない。
雨の冷たさや森の暗さよりも、この場所にある静けさと、剣が立っていることの確かさが、ひよりの心を落ち着かせていた。
やがてひよりは、雨に濡れた草花へと目を向ける。
傘のように広がった大きな葉の下には、小さなカタツムリがじっととまっていた。ひよりはそっと近づき、目のような触角をのばす様子に「ふふっ」と笑う。
ぬれた石の上を、蛙がぴょんと跳ねて逃げていくと、思わず「まって!」と追いかけ、泥の中に足をとられて尻もちをつく。
びしゃりと水しぶきがあがり、スカートはさらに泥だらけになる。それでも、ひよりはへへっと笑い、泥のついた手を雨で洗い流すようにぱしゃぱしゃ振った。
遊び疲れると、また聖剣のそばに戻ってくる。
剣に背を預け、頬杖をつきながら空を見上げる。雲の切れ間から、かすかに光が射した。雨に霞んだ森が、その一瞬だけ宝石のように輝いて見えた。
「……きれい」
幼い声で呟く。
その言葉は、聖剣に向けられたものでもあった。雨粒をまとい、ひっそりとそこに立ち続ける剣の姿は、ひよりの瞳に強く、やさしく映っていた。
そして彼女は思う。
「また会えた」ということが、ただうれしい。雨の冷たさも、濡れた服の不快さも、すべて忘れてしまえるほどに。
やがて雨は小降りになり、森に夕暮れが近づいてくる。ひよりは濡れた足で立ち上がり、名残惜しそうに剣を見上げた。
「また、くるね」
そう告げると、ぺこりと頭を下げて森の奥へと駆けていった。
濡れた草花が彼女の足を撫で、鳥たちが声をあげはじめる。雨に濡れた聖剣は、ひよりの小さな背中を黙って見送っていた。
作者の一言
こんにちは、シエルです。
子どもの成長途中って描写するのが難しいですね。幼い姿と大人になった姿、何に影響を受けて大人へと近づいていくのか。
そう考えると、自分で作ったキャラクターは子どもみたいなものなのかもですね(まだ二話目なのに何を言っているのだ)。