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春 6歳

 森の中は、やさしいざわめきに包まれていた。


若葉が風に揺れるたび、まだ柔らかい葉同士がこすれ合い、ささやくような音を立てる。

枝の間から射し込む陽の光は、淡い金色となって地面に模様を描き、小鳥たちはその光の隙間を行き来しては短く鳴いた。

湿った土の匂いと、咲き始めた花の甘さが入り混じり、まるで森そのものが息をしているかのようだった。


 その中に、不釣り合いな声が混じっていた。


「……ママぁ……ママぁ……」


 しゃくりあげる声。泣き疲れてかすれた呼び声は、風に溶けて木々の奥へ消えていく。


 小さな女の子が一人、森をさまよっていた。

桜木ひより、六歳。まだまだ幼い彼女には、森は広大すぎて、どこも同じ景色にしか見えない。

さっきまで遊んでいた道は、ほんの少し脇に入っただけで跡形もなくなっていた。


 心臓はどきどきと早鐘を打ち、涙はあとからあとからこぼれてくる。足取りは重く、何度も草の茂みに足を取られ、そのたびに「いたい……」と鼻をすすった。


「ママぁ……どこ……」


 声は小さく弱々しく、呼んでも誰も返事をしてはくれない。あたりには鳥の鳴き声と葉ずれの音しかない。胸の奥を締めつけるような寂しさと怖さに、ひよりはもう立ち止まりかけていた。


 そのとき……ふいに、視界がひらけた。


 木々の壁が途切れ、円を描くようにぽっかりと空いた空間が広がっている。頭上には他より広く空が見え、春の陽射しが惜しみなく降り注いでいた。

草はやわらかく一面に広がり、小さな白い花や黄色い花が群れ咲き、蝶がゆらゆらと舞っている。

外の世界から切り離されたように、そこだけが特別に穏やかで、あたたかな光に守られていた。


 ひよりは涙で曇った目をこすりながら、思わず足を止めた。


「……わぁ……」


 驚きと、ほんの少しの安堵。その瞳は次第に大きく開かれていく。


 そして、その中心にあるものに気づいた。


 一本の剣が、土に突き立っていた。


 けれどそれは、絵本に描かれたような輝かしい剣ではない。錆び、欠け、柄は苔むし、刃は風化して原型をとどめていない。石の台座はひび割れ、刻まれていたはずの文字もすっかり摩耗して読めなくなっていた。


 それでも、ひよりの目には強く焼きついた。

 まるでそこにあること自体が奇跡であるかのように、陽射しの中で静かに立ち続けていた。


 涙声は止まっていた。

 ひよりは草を踏み分け、小さな足でおそるおそる近づいていく。


「なに……これ」


 声はまだ心細さを帯びていたけれど、恐怖よりも好奇心が勝っていた。


 剣の前に立つと、彼女はしばらく見上げたまま動けなかった。自分の背丈とほとんど変わらない高さ。柄に手を伸ばそうとしたが、指先は空気をなぞるばかりで触れることができなかった。


 ひよりの胸の中で、さっきまでの寂しさが少しずつ薄れていく。剣は動かない。ただそこにいるだけ。けれど、その静けさが不思議と心を落ち着けてくれた。


 やがて彼女は、涙で濡れた頬を袖でごしごし拭き、剣の周りをぐるぐる回りはじめた。


「これ、ほんとに剣なのかな……」


 小首をかしげながら、柄の苔をつんと突いてみる。指先が少し緑に染まり、「うへぇ」と顔をしかめる。それでももう泣いてはいなかった。


 石の台座に刻まれた浅い溝を小さな指でなぞってみたり、剣の影を自分の影と重ねて飛び跳ねてみたり。遊び心がむくむくと顔を出し、足取りは軽くなる。


 近くにはたんぽぽが咲いていた。ひよりはしゃがみこみ、ひとつを摘んで剣の根元に置いた。お供えの真似事のつもりだったのかもしれないが、彼女は「かわいいでしょ」と言うように笑っていた。やがて白い花も黄色い花も次々に集め、剣の足元は小さな花壇のようになった。


 蝶を追いかけて走り出し、草に足を取られて転びかける。両手を地面について「いたた」と呟くが、泣きはしない。むしろ「つかまえた!」と両手をぱっと閉じてみせ、空っぽだと分かってけらけら笑った。


 その笑い声は、森の中に澄んで響いた。

 鳥が応えるように鳴き、木の葉がさらさらと揺れた。


 どれほど遊んでいただろう。ふと気づけば、光は傾き、影は長く伸びていた。ひよりは小さな肩で息を弾ませながら、空を見上げる。


「あれ……そろそろ帰らなきゃ……」


 けれど、足はすぐには動かなかった。胸の奥で、剣を離れたくない気持ちが芽生えていたからだ。


 振り返ると、剣はやはり黙って立っているだけだった。それでも、ひよりの心には確かに何かを伝えている気がした。寂しさを紛らわせてくれる存在。友だちのような、不思議な安心感。


「……また来るね」


 誰に聞かせるでもない小さなつぶやき。


 その声に応えるように、一陣の風が木立を揺らし、葉のざわめきがやさしく広がった。

 春の森は微笑むように少女を包み込み、朽ちた剣は静かに光を浴びていた。

作者の一言

こんにちは、シエルです。

今回から新しい物語が始まりました。

いつまでもそこにある聖剣と、少女ひよりの成長……

感動系です。よろしければ、最後まで見てくれると嬉しいです!

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