02.お嬢様と私の一度目
時間が戻っている。それだけは、はっきりしていた。
袖の綻びはなぜか直っていて、
閉店していた店が「近日開店」の看板をぶらさげていて、
死んだはずの老人が、ベンチで団子を食べていた。
季節からみて、おそらく1年前後、私は時間を遡ってしまったらしい。
「どうして……」
考えたところでわかるわけもなかった。
それよりも──あの令嬢のことが、どうにも気になって仕方がなかった。
数日が経ち、私は仕事の帰りに何度もルヴェル家の前を覗きに来ていた。
高台の通りにある、立派すぎる塀と鉄の門。
この城下町で、あそこだけ空気が違う。まるで“庶民立入禁止”って看板でも見えないところに出てそうな雰囲気だ。
でも、見に行く足は止まらない。
時間帯が合わないのか、あまり家から出ないのか、あれから彼女の姿を見ることはなかった。
なのに、なんとなく気になって、今日もつい立ち寄ってしまう。
(……本当に、あの人が死ぬなんて)
処刑台の上で民衆に笑ってたあの姿が、どうにも頭から離れない。
あの顔、あの目。私はあの人を知っていた。
* * *
10年ほど昔の話だ。私がまだ、小さくて、今みたいに口答えもできなかった頃。
私は孤児院育ちで、まあ、いわゆる“余った子”だった。
口に出して言われたわけじゃないけど、扱いを見てればわかる。
そういう子は、働くことで場所をもらう。
その日も、教会に手伝いに出されていた。
儀式の準備だかなんだかで、貴族の子供たちが大勢来るっていうんでね。床掃除と荷物運び、それと「目立たないように端にいろ」って言われて。
貴族の子どもたちはみんな、真っ白な礼服を着てはしゃいでいた。
神さまに捧げるとかいう、特別な刺繍が入ったやつ。汚したら大ごと、って話だったのに──
案の定、誰かがやらかした。
水桶を蹴っ飛ばして、泥水がぶしゃっとはねて。
男の子の礼服に、しっかりと黒い染みができた。
子どもたちが一斉に静かになって、次にざわっと私を見る。
いやな予感がして、視線を外そうとしたけど遅かった。
声がいくつも重なって、私に降ってくる。
気づけば、誰かが腕を掴んでいて、私は引きずられるように立たされていた。
目の前には、跳ねた泥の跡がついた礼服。
私のせいじゃないのに、誰もそうは思ってくれない空気が、もう出来上がっていた。
「この子、さっき足滑らせてたよ。危なかったもんね?」
「うんうん、さっきもなんかバケツひっくり返しそうになってたし」
子どもたちは口々に言いながら、互いに視線を交わして確認していた。
まるで、嘘の合わせをしてることに何のためらいもないみたいだった。
(あ、やばい)
脳の奥のほうが、じん、と冷えていく。
神官様に連れていかれたら、何をされるかわからない。
叱られるだけならいい。でも、あれは“神の衣”なんだって聞いた。
“穢したら罰を受ける”って、そう言ってた。
怒鳴られる? 叩かれる? 追い出される?
もしかして、それだけじゃ済まないんじゃないか。
怖くて、怖くて、声が出なかった。
喉の奥が固まって、言い訳すら浮かばなかった。
目の前が少しぐにゃりとした気がした。
それでも誰も、助けてなんてくれなかった。
だって、あっちには家がある。親がいる。
“良い子”として守ってくれる人がいる。
私には、いない。
何を言っても、「ああ、そう」で終わるのがオチだ。
(……ああ、もう終わった)
そんなふうに、ぐしゃぐしゃに胸が潰れそうになったそのときだった。
「ちょっと待って」
その声がして、視線を上げた。
立っていたのは、少し離れた場所で静かに子どもたちを見ていた金髪の少女。
金色の髪が光を反射して、絹みたいに見えた。
礼服もまったく汚れてなくて、正真正銘“お育ちのいい子”ってやつだった。
その子が、黙ってしゃがみ込んで、足元の泥を掬って、自分の礼服にぺたりと塗りつけた。
「私も神官様に叱られに行くわ。何が起こったかをすべて正直に申し上げないとね」
空気が変わった。
誰もが止めようとしなかったし、止められなかった。
“侯爵令嬢”って、そういう立場なんだって、そのとき私は初めて実感した。
でも、それよりも驚いたのは──
あの子が、私を見たことだ。私なんか、見ても仕方ない存在なのに。
動けずにいた私に、ちらりと目を向けてくる。
その髪にも泥が跳ねていた。思わず、小さな声で言った。
「……髪、汚れちゃってます」
あの子は、ほんの少しだけ眉を動かして、それから言った。
「どうでもいい。お父様が喜ぶから伸ばしてるだけよ。私はきらい」
たぶん、それが私にとっての“最初のマグノリア様”だった。
そのあと彼女は、神官にびしっと怒られたと聞いたけど、戻ってきたときには飄々としてて。
なぜか、それがすごく格好よく見えた。
* * *
ふと回想から立ち戻る。私は今、自分がルヴェル家の門の前に立っていることを思い出した。
足元の石畳が濡れている。冷たい風が襟元に入り込む。
でも、身体の奥は、少し熱を帯びていた。
(忘れてたわけじゃなかったんだ、私)
あれから10年も経ってるのに、あのときのことはちゃんと覚えていた。
誰も味方がいないと思っていた場面で、たったひとり手を差し伸べてくれたあの人のことを。
貴族の令嬢が庶民の子どもなんかのために泥を塗るなんて、普通じゃありえない。
でも彼女は、そうした。
──その彼女が、1年後、処刑されるかもしれない。
冗談じゃない。そんなの、馬鹿みたいだ。
ちょうどそのとき、門の向こうから誰かの姿が見えた。
白いマントに金髪。すっと伸びた背筋。
マグノリアだった。
付き添いの侍女に何か指示を出しながら、静かに庭を横切っていく。
侍女は見るからに委縮した様子で、彼女の怒りが飛んでくるのを怖れるように距離をとっている。
遠目でもわかる。あのお嬢様は変わっていない。いや、子どもの頃よりももっと孤独そうに見える。
(……私、何かできないかな)
恩を返したい。ちゃんと、あのときの「ありがとう」を、形にしたい。
たった一度のあれだけで、私は今まで何とか生きてこれた。
だったら今度は、私の番だ。