第5話 ディナー
俺がサクラに抱いた第一印象は、「誠実そうな女性」だった。
この女性が主導権を握る時代において、俺の知る活動的な女性たちと比べると、サクラはどちらかというと控えめなタイプだ。
言葉遣いも、服も、落ち着いていて、決して出しゃばらない。
笑う時には、ふと口元に手を添える仕草が印象的で――
まるで、今の価値観とは逆行するような、奥ゆかしさを感じさせたんだ。
その姿が、なぜだか強く心に残った。
そうした印象は、俺たちがまだ仮想空間でしか会っていなかった頃から、すでに形作られていた。
そして現実で顔を合わせたその瞬間、俺の中のイメージはさらに確かなものになった。
サクラの容姿は、アバターとほとんど変わらない。
いや、もしかすると――現実のほうが、いくぶんか美しく見えたのかもしれない。
どこか大正ロマンを思わせる装いに、背筋の伸びた立ち姿。
その一つ一つから、彼女の育ちの良さが自然と伝わってくる。
失礼だとは思いつつも、俺は心の中で、つい婚約者のカオルと比べてしまっていた。
艶やかな毒を持つ蛇がカオルなら、目の前のこの女性は、ひらひらと舞う鳳蝶のようだ。
サクラがそっと手を差し出して、微笑んだ。
「それでは、ご案内いたします。先輩」
「ああ、頼む」
差し伸べられた黒い手袋をはめたの手を、俺はそっと取る。
指先から感じた微かな熱が、妙に俺のテンションを高ぶらせた。
サクラの案内で、俺たちは繁華街の一角にある、雰囲気の良さそうな洋食レストランへと足を踏み入れた。
テーブルに着くと、俺とサクラは向かい合わせに座り、イマリは俺の斜め後ろに静かに立っていた。
ウェイターが俺たち二人のグラスにワインを注いでくれる。
「先輩が来てくれて、本当に嬉しいです。このお店、ずっと気になってたんです」
「そうか。美食レビューの取材も兼ねて、ってやつか?」
「はい、もちろんそれもあります。でも、最初は配信用の取材って感じでしたけど……今はどちらかというと、先輩に楽しい夜を過ごしてもらいたいって気持ちの方が強いです。だから、思い切ってお店まるごと貸し切っちゃったんです」
サクラはグラスを軽く持ち上げて、微笑む。
「今日は来てくれて、ありがとうございます。頑張って楽しませますね、先輩」
「そんな気を遣わなくていいさ。……そっちも、この夜を楽しめるといいな」
俺たちは軽くグラスを合わせ、俺は中の液体をひと口含んだ。
……うん。悪くない味だ。
「それで、先輩。最近はどうですか?せっかくの機会ですし、もっと先輩のことを知りたいなって思ってて」
「ん?ああ……特に変わったことはないよ。最近は、サクラも知ってる通り、社長の新人選びを手伝ったりしてる。あとは、『ウェディング・マーチ』の事件の情報をずっと追ってるくらいか。……悪いな、仕事ばかり。つまらない男かもしれないな、俺は」
「そんなことないです、先輩!」
サクラは少し慌てたように、両手を小さく振って否定した。
「何かに一途な男性って、とても素敵だと思います。……その、なんて言うか、すごく、かわいいです」
「……はは。ありがとな」
「先輩から見て、『ウェディング・マーチ』って、やっぱり興味深い人物なんですか?」
話の流れを変えるように、サクラは身体を少し乗り出し、目をきらきらと輝かせた。
「うーん、殺人犯に面白いって言うのもアレだけどな……でも、そうだな。興味深いかどうかで言えば、たしかに面白いタイプだ。昔追ってた連中の中には、退屈しのぎとか、くだらない理由で動くやつもいたけど――」
俺はこれまでに足を運んできた数々の犯罪現場を思い返す。
純白の衣装に身を包んだ少年たちの姿――そして、綿密に作り込まれたあの舞台のような空間が、脳裏に浮かんだ。
「あいつには『美学』がある。現場に足を踏み入れた瞬間に、それがはっきり伝わってくる。……妙な話だけど、あいつなりのこだわりが、空気からでも感じられるんだ」
「ふふっ。そうですね」
まるで俺の話に強く興味を持っているかのように、サクラは微笑みながら、こくりと頷いた。
気がつけば、俺はいつの間にか、途切れることなく言葉を重ねていた。
「選び抜かれた被害者、細部まで作り込まれた現場。残酷さの裏に、どこか哀れみすら感じさせる……『ウェディング・マーチ』は、矛盾に満ちた存在だけど、その矛盾から独自の世界観を昇華させた犯人だと思ってる。だからこそ危険なんだ。――まあ、俺から言わせれば、非日常の香りが濃く漂ってる、って感じかな」
「なるほど。先輩の分析、すごく鋭いですね」
「ありがとう。でも、ひとつだけどうしても引っかかる点があるんだ」
俺はグラスのワインをひと口含んで喉を潤し、無意識に顎に手を当てた。
「それは……薬指を奪う件についてだ」
「あ、先輩、配信でも言ってましたよね。すごく違和感があるって」
「ああ。たぶん、あれだけは同じ人物の手口じゃない。すべてが美しく整ってる中で、あそこだけが妙に浮いてるんだ」
「たしかに……作品が、壊されてしまった、ですね」
「そう。だから、もしかしたら共犯者がいるのかもしれない。あるいは、犯人の中に異なる二つの意志が存在しているのか……――あ、悪い。ついまた自分の世界に入り込んじまったな。配信でも語った内容だし、退屈だったろ?」
「そんなことありませんよ。好きなことを語るときの、先輩のきらきらした目を見るの、私……すごく好きです」
サクラはふわりと微笑む。
「ああいうところは警察すら気づけないのに、ちゃんと見抜いて。でも、『あれ』にはぜんぜん気づかない。そのギャップ、やっぱり先輩って最高です」
「はあ?なんだよ、急に」
「ふふっ。何でもないです。先輩は知らないと思いますけど――私、先輩に憧れて今の事務所に入ったんですよ」
「……お?そうだったのか?」
「はい。先輩の配信を見て……ちょっと生意気ですけど、私も配信してみたいって思ったんです。……正直言うと、有名になったら、先輩に近づけるんじゃないかって、 ちょっと下心もあったんですよ」
そう言って、サクラは照れくさそうに、小さく舌をぺろりと出した。
「はは。そう言うなら、サクラの目的はもう達成されたんじゃないか?」
「ええ。完璧に、ね」
ふたりで目を合わせて笑ったちょうどその時、ウェイターが再び料理を運んできた。
「おお、来たか。楽しみだな、この料理」
「ふふっ。ここからは、ちゃんと味わいたいですね。先輩」
俺たちは自然とナイフとフォークに手を伸ばした。
そのとき、俺の左手の指輪が照明の下できらりと光る。
それに気づいたのか、サクラの目がわずかに見開かれ、じっと俺の手元を見つめた。
「……あれ?先輩、その左手の薬指の指輪って……?」
「ん?ああ。別に大したものじゃない。イズモさんからもらったやつだよ」
「……イズモさん、ですか」
その瞬間、この会話の中で初めて、サクラから笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、どこか思案げな表情。
「――やっぱり。そうだったんですね」
「……サクラ?」
「前からちょっと変だなって思ってたんです。その態度……うん、なるほど。そういうことですか。納得、です。彼女なら……先輩を『汚す』くらい、いつやってもおかしくないですもんね。先に準備しておいて、本当によかった。練習も、十分にしたし」
「?」
「ま、ずっと盗られてばっかでイライラしてましたけど……もう二度とそんなことは起きませんし、どうでもいいです」
再び微笑みを浮かべたサクラが、澄んだ瞳で俺を見つめてくる。
「じゃあ、いただきますね、先輩」
――悪寒。
目の前の女性の無垢な笑顔を見た瞬間、背中にぞわりと電流が走った。
それはかつて、命の危機を感じたときに体験した、あの感覚。
「……っ」
立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。
まるで全身の筋肉が、急に自分のものではなくなったようだった。
「っ!シオンさま!」
「――ああ、うるさい人形は、ちょっと黙っててね?」
空気が震えた。
かつて廃教会で体験したものより遥かに強い何かが、イマリを襲った。
彼女の無事を確かめる暇もなく、テーブルに伏せた俺の視界がどんどん霞んでいく。
閉じゆくまぶたの隙間に見えたのは――
やはり、あの婉やかな、サクラの笑顔だった。
「それでは、綺麗な先輩。優しい先輩。美を理解できる先輩。そして、約束された未来を持ち、誰かの『もの』になるはずの先輩。どうぞ、私がご案内します。あなたの、一生一代のステージへ――」
◇
幼い頃のことだ。もうずいぶん昔の話になるけれど、俺はかつて、誘拐されたことがあるらしい。
まだ物心もついていなかった俺は、ただ知らない場所に連れて行かれたことだけを覚えている。
俺を連れて行ったのは、知っている人だった。
いつも優しくて、いい匂いがして、ふわふわで、よく笑う、あの人。
その人が俺の手を取って、こう言ったんだ。
――違う場所、きれいな場所に連れてってあげるね。
だから、俺はうなずいた。
何の疑いもなく、その人のあとをついていった。
……そして、気づいたんだ。何かが、足りないって。
――パートナーは?いない。……呼ばなきゃ。
けれど、その人はいつも通り微笑みながら、唇の前に指を立てた。
――そこは人形には見せちゃいけない、秘密の場所なの。だから、行くのは私たち二人だけ。
意味はわからなかったけど、俺はまた、こくんとうなずいた。
――シオンくんは、いい子だね。さあ、行こう。これで、私たちはずっと一緒にいられるよ。あなたを開いて、私のを入れて、私の中にもあなたを入れて……大切なものを交換しようね。
――こうかん?
――ええ、交換。そうすれば、私があなたを、もう一度産んであげられるの。
記憶は曖昧だけど……それが、俺が初めてパートナーではなく、本物の『人間』という存在を認識した瞬間だったと思う。
丸みを帯びた、くびれた体。
そして、その手には光る鋭いものが握られていた。
強く覚えているのは、激しく脈打つ自分の鼓動。
そして、背筋を這う電流のような痛み。
知らない感覚。でも強烈だった。
今ならわかる。それは、『恐怖』だったんだ。
そして、俺は助けられた。
いや、助けられたというよりは、俺ともう一度一つになろうとしたあの人が、殺された。
誰かが、あの人を殺した。
凛とした月の光の下で。
かつてのあの温かく柔らかかった人の胸に、長い刃が突き刺さっていた。
今の俺なら、それが『刀』だとわかる。古くて有名な冷兵器。
でも、当時の俺は、ただ呆然と立ち尽くし、命が抜けていく姿を見ていることしかできなかった。
視界の中、そこに立っていたのは見知らぬ『誰か』だった。
かつて神事に使われたような紅白の衣装に身を包み、血に染まった刀を手にしたその人は、そこにいた。
今思えば、きっとあの人もまだ幼かったんだろう。
でもあのときの俺にとっては、背の高いその人はもう『大人』だった。
――お姉ちゃん、誰?
俺は尋ねた。
でも、返事はなかった。
代わりに、その『誰か』は俺の頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。
あの人とは違う、乱暴な手つき。
それでも彼女は、笑った。
あの人のような優しい笑顔じゃない。
ぎこちなくて、無理に作ったような、それでいて、どこか狂気を孕んだ笑み。
――私は、正義の味方だよ。
そう言った『誰か』。
あんなふうに嘘をついて、俺からあの人を奪った、知らない人。
まだ幼かった彼女は、月の光を浴びて――とても、美しかった。
そして、俺は目を覚ました。
あの記憶の夢から。
「よく眠れましたか、先輩?」
――ああ。
まるで、あの夜の再現のようだった。
月明かりの下。
仰向けになった俺の視界に映るのは、微笑みながら帯を解いていく彼女の姿。
ひとつひとつの動作が、まるで何かの演目のように丁寧で――
そして、彼女はゆっくりと近づいてきた。
膝をベッドにつき、俺の身体のそばへ。
わずかに沈んだ感覚が、布団越しに伝わってくる。
「いい夜ですね、先輩」
彼女は婉やかな微笑みを浮かべ、まるで幼子を見るかのような優しい目で俺を見つめていた。
「……サクラ」
サクラはそっと俺の前髪に触れた。
その指は次に、こめかみに。
そして最後に、俺の唇へと辿り着いた。
細くしなやかな指先が、俺の唇の隙間をすべり込み、内側をかき混ぜる。
サクラはそのまま、唾液の糸を引いた指をゆっくりと引き抜いた。
月明かりの下でそれをじっと見つめた後、自分の口へと指を運ぶ。
そして、ぬるりと舌で唇を舐めた。
「ああ、やっとだね」
微笑み。
サクラは、あの柔らかな笑みを浮かべる。
――ねじれて、狂ったような笑みを。
「どうして、こんなことを」
俺がそう問うと、サクラは小さく首をかしげた。
「そんなの、先輩が一番わかってるんじゃないですか?」
そう言いながら、サクラは俺の上に跨る。
「なるほど。お前が『ウェディング・マーチ』か」
「はい」
衣服のボタンが、ひとつずつ外されていくのを感じる。
ひやりと冷たい指が、俺の胸元をなぞるように滑っていった。
「ずっと、探してたんです。私の『本命』を。何度も練習して……ようやく、やっと」
「そうか。だけど俺には、そんな価値があるとは思えない。一生一世の大作にするには、俺じゃ格が足りないだろう」
「先輩は、私のことちゃんと理解してるのに……女心だけ、わかってくれないんですね」
サクラは身体をそっと前に倒し、俺の耳元へと顔を寄せた。
熱を帯びた、少し湿った柔らかさが、俺の胸元に重なってくる。
吐息が、耳をくすぐった。
「やめてくれ。俺は、それに値しない」
「いいえ。先輩以上の相手なんて、どこにもいません」
「そうか」
「はい。先輩は気づいてないかもしれませんけど、私、配信で初めて先輩の声を聞いたときに、わかったんです。見つけたって。これが、本命だって。この退屈で、人形たちが作った汚らしい光と音に満ちた世界で――本物なのは、先輩だけなんです」
「そうか」
「はい。それに」
「それに?」
サクラの指先が、俺の胸元からゆっくりと下腹部へと滑っていく。
まるで何かを探すように、慎重に、執拗に、その場所を這うように。
「それに……先輩のほうこそ、ずっと私を追いかけてきたじゃないですか。あんなに情熱的に近づいて、情熱的に分析して、情熱的に語って……そんなふうに迫られて、心が動かない女なんて、いますか?」
「なるほど」
「ええ。だから――」
サクラの手が、目的の場所を見つけた。
「――始めましょうか」
次に何をされるのか、わかっていて、俺は思わず眉をひそめた。
歯を食いしばり、わずかに身体をこわばらせて抵抗の意思を示す。
だが、目の前の彼女は一切手を止める気配を見せなかった。
ただ執拗に、そして狙いすましたように、細い指先で同じ動作を繰り返す。
まるで急かすように。あるいは、責めるように。
「っ……やめろ。こんな状況で……反応なんて、するわけ、ないだろ」
「そうですか?」
「ああ、当たり、前だ」
「でも……ね?この子は、そうは言ってないよ。嬉しそうにしてる」
「お前はっ、こんなことのために、事件を起こして、練習してきたわけじゃ……ないだろっ。そんなので、自分の作品を、歪めて、いいのかっ」
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫。ちゃんと……先輩がわかる時が来ますから」
「……っ」
「私はね、大事に取っておいたんですよ。だって、大切なこれは……練習台になんて、使えませんから」
「そう、かっ。やっぱり、イズモさんの、言ってた通りだ」
サクラの動きが、一瞬だけ止まった。
そして――鋭い痛みが、俺を襲った。
「っ!」
「先輩、余裕ですね。こんな状況で、他の女の名前を出すなんて」
「……」
「ううん、違う。悪いのは私。先輩を、私の色に染めきれていなかった、私の失敗です」
サクラは顔を近づけてきて、そっとそれを握り――笑った。
「じゃあ、犯すね。あんなイヤな女のことなんて、すぐに忘れさせてあげますから」
「――シオンさまっ!」
「っ」
銃声。
男として大事な『何か』を失うその直前――
ねばついた夜を裂くように、その音が響いた。
俺の顔に、温かな何かが飛び散った。
俺の上に覆いかぶさろうとしていたサクラの頭が、何かに殴られたようにぐらりと揺れ、そして糸の切れた人形のように、そのまま倒れ込んだ。
「シオンさま!ご無事ですか!」
「イマリっ」
拳銃を手にし、体のあちこちから蒸気のような煙を立ち上らせながら、俺の生涯で最も頼れるパートナーが、いつものように駆けつけてくれた。
その顔は深刻で、傷を負っているのにも関わらず、まず俺の拘束を解き始める。
「すでに通報は済ませました。お怪我は?何かされたり……」
「いや、大丈夫だ。手がちょっと痛むくらいで、未遂だ」
俺の言葉に、イマリの表情が少しだけ和らぐ。
彼女は自分の上着を俺の肩にそっと掛けてくれた。
「よかった。ですが、今は一刻も早くここを離れましょう。すぐにでもシオンさまを安全な場所へ――」
「テメェ、やってくれたね、クソ人形がぁぁああッ!!」
普段なら、イマリはきっと避けられただろう。
だが今の彼女は、明らかに万全な状態じゃなかった。
そして、俺をかばうために動きが一瞬、遅れた。
閃く光。
イマリの胸元が裂け、空中に循環液が飛び散った。
「イマリ!」
「ぐっ……シオンさま、私の後ろから離れないでください!」
頭から血を流しながら、先ほど銃弾を食らったはずのサクラが、ふらつきながらも立ち上がる。
「サイボーグか」
さっき俺に触れていた、あの冷たい右手。
今は、まるで中身が露出したように歪み、変形している。
いや、隠されていた本当の形が現れたと言うべきか。
銀色に煌く刃が、腕から突き出て、月明かりの下で震えていた。
「高周波ブレード……戦後のミリタリーサープラスか」
俺は思わず口に出してしまい、眉をひそめる。
イマリに目を向けると、いつもは冷静な彼女の表情に、いまは明らかな余裕がなかった。
「気をつけろ、イマリ。あの刃、お前の装甲を直に貫通するぞ」
「承知しております。近接戦は非常に不利です。それに……私の弾丸では、彼女の装甲は抜けません」
「制限解除で一気に仕留められるか?」
「無理です。あの店のこともありますし」
「ああ。あいつ、EMPデバイスでも搭載してるかもしれないな。厄介だ」
サクラの、あの婉やかな微笑みはもうどこにもなかった。
今そこにいるのは――怒れる般若だ。
「クソ人形が……。EMP喰らってもまだ動ける理由は知らねぇけど、もうどうでもいいわ。本当は終わったあと、じっくり料理してやろうと思ってたのに……この宴をぶち壊した罰、今ここで払ってもらう」
パキン、と音を立てて、サクラの左手からも刃が飛び出した。
月の下に佇む、人とカマキリを合わせたような、異形のシルエット。
そんな姿にすら機能美を感じてしまう自分は、やっぱり、この世界にとって異物なんだろう。
「罰?それはこっちのセリフですよ、変態が」
俺のパートナーは一歩も退かない。
「シオンさまを汚そうとした穢れは――プロトコルに基づき、この場で潰します」
◇
砕けた巨大なドーム。
舞台と、並べられた客席。
――ここは、かつての時代に栄えた劇場の跡地らしい。
崩れ落ちた壁の隙間から、月光が差し込み、足元では名も知らぬ白い花が、ひっそりと咲いている。
もしも目の前で繰り広げられている戦いがなければ、俺はきっと、コーヒーでも淹れて、静かにこの光景を楽しんでいただろう。
十字に閃く光と、唸るような高周波音。
静かな夜を引き裂くように、刃が我がパートナーに迫る。
イマリは――その一撃を、紙一重でかわした。
人造繊維の長い髪が数本、切り裂かれ、宙を舞う。
無機質な光を反射しながら、ふわりと。
「死ねぇッ!邪魔!この人形がぁッ!」
サクラが舞う。
彼女を中心に、嵐のような剣舞が巻き起こる。
その一振りの重さ、殺意の濃さ――
遠く離れた俺ですら、身体を引き裂かれる錯覚に襲われた。
「ふっ!」
軽く身を傾け、縦斬りを紙一重で回避しながら、イマリは引き金を絞る。
パン、パン。乾いた発砲音。
空気中に火薬の匂いが漂い、弾丸がサクラの露出した肌に当たり、火花を散らした。
「無駄ッ!」
サクラが刃を振るう。
舞台に置かれた白いベッドが、一刀のもとに両断され、中から綿毛が舞い上がる。
「はああああああッ!」
「……っ!」
舞台すら踏み砕きそうな勢いで、サクラが突進する。
イマリは後退しながら、拳銃を撃ち、距離を取った。
遠くから見守る俺は――
思わず、肩にかけられたイマリの上着をぎゅっと握りしめた。
冷たい汗が頬を伝う。
心臓が早鐘を打つ。
俺は慎重に、浅く呼吸をした。
一言も発せず、ただ黙って。
声を出したらいけない。
応援の言葉すらも。
この、薄氷の上を歩くような均衡を、壊してしまわないように。
狂熱に陥ったサクラと、防戦一方のイマリ。
その死闘を、俺はただ、身を縮めて見つめるしかなかった。
――いつだって、そうだった。
俺はあまりにも無力だ。
旧時代の人間をはるかに超えた暴威を前に、ただの平凡な肉体しか持たない俺は、せいぜいエールを送り、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。
もしイマリがこの場で敗れたら、次に狙われるのは、間違いなく俺だろう。
あの時見た、白い衣装をまとった少年たちのように、俺もまた、並べられる側になる。
それでも。
それでもだ。
俺は、目をそらさなかった。
二人の戦いを、必死に、目に焼き付けた。
――美しい、と思った。
それは、意志と意志の衝突だった。
鋼と肉の軋み合いだった。
命と命のぶつかり合いだった。
目が離せない。
この夜、この一瞬、俺ははっきりと感じていた。
自らの命を賭け、運命という名のダイスを、テーブルの上に投げたことを。
頬が引きつる。
だが、わかっている。
俺は、笑っている。
――かの夜のように。
「……っ!ちょこまか逃げ回って、鬱陶しいッ!」
「――驚きました。大戦後、これほど義体化が進んだ個体がまだ存在するとは」
激しさを増す攻勢とは裏腹に、焦りを隠しきれないサクラの声。
それに対し、最初は防戦一方だったイマリは、いつの間にか冷静な表情を取り戻していた。
「おそらく半分……いや、四分の三以上の肉体組織が置き換えられているでしょう。この改造の程度、使用されている部品の規格……明らかに生体改造法違反」
再び繰り出された斬撃を軽く身を傾けてかわすと、イマリは拳銃を素早く振り、流れるような動きで新たなマガジンを装填する。
「腕だけじゃない、脚も、筋繊維の大半も人工筋肉に置換され、皮下には装甲……正直、あなたはもはや人間より、私たちに近い存在です」
「っ……!うるさいッ!」
サクラが怒りに任せた乱れた斬撃を振るう。
だがイマリは、それをまるで舞うように、軽やかにかわしていく。
「法律上は、脳組織と主要臓器が生体なら『自然人』と定義されていますので――プロトコルに基づき、あなたの命を奪うわけにはいきません。ですが……」
イマリは初めて、守勢から一歩踏み出した。
サクラの斬撃をぎりぎりでかわしながら、一気に間合いを詰める。
刹那の攻防の中で、イマリは拳銃の銃口を、サクラの無防備な足へ向けた。
「――両腕は軍規格でも、脚はただのブラックマーケット品のようですね」
「っ、まずい――!」
引き金が引かれる。
銃声と共に、サクラの体勢がわずかに崩れた。
イマリはその隙を逃さず、すぐさま銃を構え直し、今度はサクラの頭めがけてもう一発。
「っ!」
大きく仰け反ったサクラは、一瞬、バランスを失う。
イマリは迷いなく、軽やかに跳躍し、両脚でサクラの首を挟み込む。
そして、バネのように身体をひねった。
――カックン。
何かが砕ける、乾いた音。
その音だけが異様に大きく響いた。
「――――っ!」
「全身を強化しておきながら、首の骨までは強化していないとは」
イマリは、地面に転がったサクラを警戒しながら、銃口をしっかりと向けたまま立ち上がった。
「とはいえ、普通の人間なら即死でも、あなたほど改造されていれば……これくらいでは死なないでしょう。さすがに、完全に断ち切るのは、私でも難しいですから」
「こんな……ところでぇ!」
「動かないほうが賢明です。無理に暴れれば、今度こそ脳組織にダメージが及びますよ」
「……っ」
「――あなたの負けです」
サクラが動かないことを確認すると、イマリは拳銃をホルスターに収め、ゆっくりと俺の方へ向き直った。
しかし――
気を抜いた彼女は、まだ気づいていなかった。
地面に倒れたままのサクラが、憎悪に満ちた目を彼女に向ける。
裂けた顎。
歪んだ口腔から――
突き出してきたのは、まるで銃口のような機構だった。
「もう大丈夫です、シオンさま。あとは警察に任せて。さあ、戻りま――」
「――イマリ!」
気がついたときには、俺はすでにイマリへと飛びかかっていた。
短く鋭い銃声。
そして、熱い痛み。
「シオリさまっ!?くっ……!」
俺に押し倒されたイマリは倒れた体勢のまま、すぐに拳銃を構え直し、サクラの顎を撃ち抜いた。
我がパートナーは慌ただしく立ち上がり、俺の体を必死にチェックし始めた。
「ご無事ですか!?シオンさま!?血が……!まずい……!なぜこんな危険なことをなさったのですか!」
「はは……気づいたら、勝手に体が動いてた。たまには、俺もカッコつけてみたかったんだよ」
「何を言ってるんですか、もう!」
安心したせいか。あるいは、ただの疲労か。
俺の体から、一気に力が抜けた。
視界が、ぼんやりと霞んでいく。
「シオンさまっ!?しっかり……!」
俺の意識は、再び深い闇へと沈んでいった。