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あべこべ世界でVtuber探偵ごっこ  作者: 浜彦
ウェディング・マーチ
5/5

第5話 ディナー

 俺がサクラに抱いた第一印象は、「誠実そうな女性」だった。


 この女性が主導権を握る時代において、俺の知る活動的な女性たちと比べると、サクラはどちらかというと控えめなタイプだ。


 言葉遣いも、服も、落ち着いていて、決して出しゃばらない。

 笑う時には、ふと口元に手を添える仕草が印象的で――

 まるで、今の価値観とは逆行するような、奥ゆかしさを感じさせたんだ。

 その姿が、なぜだか強く心に残った。


 そうした印象は、俺たちがまだ仮想空間でしか会っていなかった頃から、すでに形作られていた。

 そして現実で顔を合わせたその瞬間、俺の中のイメージはさらに確かなものになった。


 サクラの容姿は、アバターとほとんど変わらない。

 いや、もしかすると――現実のほうが、いくぶんか美しく見えたのかもしれない。


 どこか大正ロマンを思わせる装いに、背筋の伸びた立ち姿。

 その一つ一つから、彼女の育ちの良さが自然と伝わってくる。


 失礼だとは思いつつも、俺は心の中で、つい婚約者のカオルと比べてしまっていた。

 艶やかな毒を持つ蛇がカオルなら、目の前のこの女性は、ひらひらと舞う鳳蝶ほうちょうのようだ。


 サクラがそっと手を差し出して、微笑んだ。


「それでは、ご案内いたします。先輩」


「ああ、頼む」


 差し伸べられた黒い手袋をはめたの手を、俺はそっと取る。

 指先から感じた微かな熱が、妙に俺のテンションを高ぶらせた。


 サクラの案内で、俺たちは繁華街の一角にある、雰囲気の良さそうな洋食レストランへと足を踏み入れた。

 テーブルに着くと、俺とサクラは向かい合わせに座り、イマリは俺の斜め後ろに静かに立っていた。


 ウェイターが俺たち二人のグラスにワインを注いでくれる。


「先輩が来てくれて、本当に嬉しいです。このお店、ずっと気になってたんです」


「そうか。美食レビューの取材も兼ねて、ってやつか?」


「はい、もちろんそれもあります。でも、最初は配信用の取材って感じでしたけど……今はどちらかというと、先輩に楽しい夜を過ごしてもらいたいって気持ちの方が強いです。だから、思い切ってお店まるごと貸し切っちゃったんです」


 サクラはグラスを軽く持ち上げて、微笑む。


「今日は来てくれて、ありがとうございます。頑張って楽しませますね、先輩」


「そんな気を遣わなくていいさ。……そっちも、この夜を楽しめるといいな」


 俺たちは軽くグラスを合わせ、俺は中の液体をひと口含んだ。


 ……うん。悪くない味だ。


「それで、先輩。最近はどうですか?せっかくの機会ですし、もっと先輩のことを知りたいなって思ってて」


「ん?ああ……特に変わったことはないよ。最近は、サクラも知ってる通り、社長の新人選びを手伝ったりしてる。あとは、『ウェディング・マーチ』の事件の情報をずっと追ってるくらいか。……悪いな、仕事ばかり。つまらない男かもしれないな、俺は」


「そんなことないです、先輩!」


 サクラは少し慌てたように、両手を小さく振って否定した。


「何かに一途な男性って、とても素敵だと思います。……その、なんて言うか、すごく、かわいいです」


「……はは。ありがとな」


「先輩から見て、『ウェディング・マーチ』って、やっぱり興味深い人物なんですか?」


 話の流れを変えるように、サクラは身体を少し乗り出し、目をきらきらと輝かせた。


「うーん、殺人犯に面白いって言うのもアレだけどな……でも、そうだな。興味深いかどうかで言えば、たしかに面白いタイプだ。昔追ってた連中の中には、退屈しのぎとか、くだらない理由で動くやつもいたけど――」


 俺はこれまでに足を運んできた数々の犯罪現場を思い返す。

 純白の衣装に身を包んだ少年たちの姿――そして、綿密に作り込まれたあの舞台のような空間が、脳裏に浮かんだ。


「あいつには『美学』がある。現場に足を踏み入れた瞬間に、それがはっきり伝わってくる。……妙な話だけど、あいつなりのこだわりが、空気からでも感じられるんだ」


「ふふっ。そうですね」


 まるで俺の話に強く興味を持っているかのように、サクラは微笑みながら、こくりと頷いた。

 気がつけば、俺はいつの間にか、途切れることなく言葉を重ねていた。


「選び抜かれた被害者、細部まで作り込まれた現場。残酷さの裏に、どこか哀れみすら感じさせる……『ウェディング・マーチ』は、矛盾に満ちた存在だけど、その矛盾から独自の世界観を昇華させた犯人だと思ってる。だからこそ危険なんだ。――まあ、俺から言わせれば、非日常の香りが濃く漂ってる、って感じかな」


「なるほど。先輩の分析、すごく鋭いですね」


「ありがとう。でも、ひとつだけどうしても引っかかる点があるんだ」


 俺はグラスのワインをひと口含んで喉を潤し、無意識に顎に手を当てた。


「それは……薬指を奪う件についてだ」


「あ、先輩、配信でも言ってましたよね。すごく違和感があるって」


「ああ。たぶん、あれだけは同じ人物の手口じゃない。すべてが美しく整ってる中で、あそこだけが妙に浮いてるんだ」


「たしかに……作品が、壊されてしまった、ですね」


「そう。だから、もしかしたら共犯者がいるのかもしれない。あるいは、犯人の中に異なる二つの意志が存在しているのか……――あ、悪い。ついまた自分の世界に入り込んじまったな。配信でも語った内容だし、退屈だったろ?」


「そんなことありませんよ。好きなことを語るときの、先輩のきらきらした目を見るの、私……すごく好きです」


 サクラはふわりと微笑む。


「ああいうところは警察すら気づけないのに、ちゃんと見抜いて。でも、『あれ』にはぜんぜん気づかない。そのギャップ、やっぱり先輩って最高です」


「はあ?なんだよ、急に」


「ふふっ。何でもないです。先輩は知らないと思いますけど――私、先輩に憧れて今の事務所に入ったんですよ」


「……お?そうだったのか?」


「はい。先輩の配信を見て……ちょっと生意気ですけど、私も配信してみたいって思ったんです。……正直言うと、有名になったら、先輩に近づけるんじゃないかって、 ちょっと下心もあったんですよ」


 そう言って、サクラは照れくさそうに、小さく舌をぺろりと出した。


「はは。そう言うなら、サクラの目的はもう達成されたんじゃないか?」


「ええ。完璧に、ね」


 ふたりで目を合わせて笑ったちょうどその時、ウェイターが再び料理を運んできた。


「おお、来たか。楽しみだな、この料理」


「ふふっ。ここからは、ちゃんと味わいたいですね。先輩」


 俺たちは自然とナイフとフォークに手を伸ばした。

 そのとき、俺の左手の指輪が照明の下できらりと光る。

 それに気づいたのか、サクラの目がわずかに見開かれ、じっと俺の手元を見つめた。


「……あれ?先輩、その左手の薬指の指輪って……?」


「ん?ああ。別に大したものじゃない。イズモさんからもらったやつだよ」


「……イズモさん、ですか」


 その瞬間、この会話の中で初めて、サクラから笑みが消えた。

 代わりに浮かんだのは、どこか思案げな表情。


「――やっぱり。そうだったんですね」


「……サクラ?」


「前からちょっと変だなって思ってたんです。その態度……うん、なるほど。そういうことですか。納得、です。彼女なら……先輩を『汚す』くらい、いつやってもおかしくないですもんね。先に準備しておいて、本当によかった。練習も、十分にしたし」


「?」


「ま、ずっと盗られてばっかでイライラしてましたけど……もう二度とそんなことは起きませんし、どうでもいいです」


 再び微笑みを浮かべたサクラが、澄んだ瞳で俺を見つめてくる。






「じゃあ、いただきますね、先輩」






 ――悪寒。


 目の前の女性の無垢な笑顔を見た瞬間、背中にぞわりと電流が走った。

 それはかつて、命の危機を感じたときに体験した、あの感覚。


「……っ」


 立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。

 まるで全身の筋肉が、急に自分のものではなくなったようだった。


「っ!シオンさま!」


「――ああ、うるさい人形は、ちょっと黙っててね?」


 空気が震えた。

 かつて廃教会で体験したものより遥かに強い何かが、イマリを襲った。

 彼女の無事を確かめる暇もなく、テーブルに伏せた俺の視界がどんどん霞んでいく。


 閉じゆくまぶたの隙間に見えたのは――

 やはり、あのたおやかな、サクラの笑顔だった。


「それでは、綺麗な先輩。優しい先輩。美を理解できる先輩。そして、約束された未来を持ち、誰かの『もの』になるはずの先輩。どうぞ、私がご案内します。あなたの、一生一代のステージへ――」



 ◇


 幼い頃のことだ。もうずいぶん昔の話になるけれど、俺はかつて、誘拐されたことがあるらしい。


 まだ物心もついていなかった俺は、ただ知らない場所に連れて行かれたことだけを覚えている。


 俺を連れて行ったのは、知っている人だった。

 いつも優しくて、いい匂いがして、ふわふわで、よく笑う、あの人。

 その人が俺の手を取って、こう言ったんだ。





 ――違う場所、きれいな場所に連れてってあげるね。





 だから、俺はうなずいた。

 何の疑いもなく、その人のあとをついていった。

 ……そして、気づいたんだ。何かが、足りないって。





 ――パートナーは?いない。……呼ばなきゃ。





 けれど、その人はいつも通り微笑みながら、唇の前に指を立てた。





 ――そこは人形には見せちゃいけない、秘密の場所なの。だから、行くのは私たち二人だけ。





 意味はわからなかったけど、俺はまた、こくんとうなずいた。





 ――シオンくんは、いい子だね。さあ、行こう。これで、私たちはずっと一緒にいられるよ。あなたを開いて、私のを入れて、私の中にもあなたを入れて……大切なものを交換しようね。





 ――こうかん?





 ――ええ、交換。そうすれば、私があなたを、もう一度産んであげられるの。





 記憶は曖昧だけど……それが、俺が初めてパートナーではなく、本物の『人間』という存在を認識した瞬間だったと思う。


 丸みを帯びた、くびれた体。

 そして、その手には光る鋭いものが握られていた。


 強く覚えているのは、激しく脈打つ自分の鼓動。

 そして、背筋を這う電流のような痛み。

 知らない感覚。でも強烈だった。


 今ならわかる。それは、『恐怖』だったんだ。


 そして、俺は助けられた。


 いや、助けられたというよりは、俺ともう一度一つになろうとしたあの人が、殺された。


 誰かが、あの人を殺した。


 凛とした月の光の下で。

 かつてのあの温かく柔らかかった人の胸に、長い刃が突き刺さっていた。


 今の俺なら、それが『刀』だとわかる。古くて有名な冷兵器。

 でも、当時の俺は、ただ呆然と立ち尽くし、命が抜けていく姿を見ていることしかできなかった。


 視界の中、そこに立っていたのは見知らぬ『誰か』だった。

 かつて神事に使われたような紅白の衣装に身を包み、血に染まった刀を手にしたその人は、そこにいた。


 今思えば、きっとあの人もまだ幼かったんだろう。

 でもあのときの俺にとっては、背の高いその人はもう『大人』だった。





 ――お姉ちゃん、誰?





 俺は尋ねた。

 でも、返事はなかった。

 代わりに、その『誰か』は俺の頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。


 あの人とは違う、乱暴な手つき。

 それでも彼女は、笑った。


 あの人のような優しい笑顔じゃない。

 ぎこちなくて、無理に作ったような、それでいて、どこか狂気を孕んだ笑み。





 ――私は、正義の味方だよ。





 そう言った『誰か』。

 あんなふうに嘘をついて、俺からあの人を奪った、知らない人。

 まだ幼かった彼女は、月の光を浴びて――とても、美しかった。


 そして、俺は目を覚ました。

 あの記憶の夢から。





「よく眠れましたか、先輩?」





 ――ああ。

 まるで、あの夜の再現のようだった。


 月明かりの下。

 仰向けになった俺の視界に映るのは、微笑みながら帯を解いていく彼女の姿。

 ひとつひとつの動作が、まるで何かの演目のように丁寧で――


 そして、彼女はゆっくりと近づいてきた。

 膝をベッドにつき、俺の身体のそばへ。

 わずかに沈んだ感覚が、布団越しに伝わってくる。


「いい夜ですね、先輩」


 彼女はたおやかな微笑みを浮かべ、まるで幼子を見るかのような優しい目で俺を見つめていた。


「……サクラ」


 サクラはそっと俺の前髪に触れた。

 その指は次に、こめかみに。

 そして最後に、俺の唇へと辿り着いた。


 細くしなやかな指先が、俺の唇の隙間をすべり込み、内側をかき混ぜる。

 サクラはそのまま、唾液の糸を引いた指をゆっくりと引き抜いた。

 月明かりの下でそれをじっと見つめた後、自分の口へと指を運ぶ。

 そして、ぬるりと舌で唇を舐めた。


「ああ、やっとだね」


 微笑み。

 サクラは、あの柔らかな笑みを浮かべる。

 ――ねじれて、狂ったような笑みを。


「どうして、こんなことを」


 俺がそう問うと、サクラは小さく首をかしげた。


「そんなの、先輩が一番わかってるんじゃないですか?」


 そう言いながら、サクラは俺の上にまたがる。


「なるほど。お前が『ウェディング・マーチ』か」


「はい」


 衣服のボタンが、ひとつずつ外されていくのを感じる。

 ひやりと冷たい指が、俺の胸元をなぞるように滑っていった。


「ずっと、探してたんです。私の『本命』を。何度も練習して……ようやく、やっと」


「そうか。だけど俺には、そんな価値があるとは思えない。一生一世の大作にするには、俺じゃ格が足りないだろう」


「先輩は、私のことちゃんと理解してるのに……女心だけ、わかってくれないんですね」


 サクラは身体をそっと前に倒し、俺の耳元へと顔を寄せた。

 熱を帯びた、少し湿った柔らかさが、俺の胸元に重なってくる。

 吐息が、耳をくすぐった。


「やめてくれ。俺は、それに値しない」


「いいえ。先輩以上の相手なんて、どこにもいません」


「そうか」


「はい。先輩は気づいてないかもしれませんけど、私、配信で初めて先輩の声を聞いたときに、わかったんです。見つけたって。これが、本命だって。この退屈で、人形たちが作った汚らしい光と音に満ちた世界で――本物なのは、先輩だけなんです」


「そうか」


「はい。それに」


「それに?」


 サクラの指先が、俺の胸元からゆっくりと下腹部へと滑っていく。

 まるで何かを探すように、慎重に、執拗に、その場所を這うように。


「それに……先輩のほうこそ、ずっと私を追いかけてきたじゃないですか。あんなに情熱的に近づいて、情熱的に分析して、情熱的に語って……そんなふうに迫られて、心が動かない女なんて、いますか?」


「なるほど」


「ええ。だから――」


 サクラの手が、目的の場所を見つけた。


「――始めましょうか」


 次に何をされるのか、わかっていて、俺は思わず眉をひそめた。

 歯を食いしばり、わずかに身体をこわばらせて抵抗の意思を示す。

 だが、目の前の彼女は一切手を止める気配を見せなかった。


 ただ執拗に、そして狙いすましたように、細い指先で同じ動作を繰り返す。

 まるで急かすように。あるいは、責めるように。


「っ……やめろ。こんな状況で……反応なんて、するわけ、ないだろ」


「そうですか?」


「ああ、当たり、前だ」


「でも……ね?この子は、そうは言ってないよ。嬉しそうにしてる」


「お前はっ、こんなことのために、事件を起こして、練習してきたわけじゃ……ないだろっ。そんなので、自分の作品を、歪めて、いいのかっ」


「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫。ちゃんと……先輩がわかる時が来ますから」


「……っ」


「私はね、大事に取っておいたんですよ。だって、大切なこれは……練習台になんて、使えませんから」


「そう、かっ。やっぱり、イズモさんの、言ってた通りだ」


 サクラの動きが、一瞬だけ止まった。


 そして――鋭い痛みが、俺を襲った。


「っ!」


「先輩、余裕ですね。こんな状況で、他の女の名前を出すなんて」


「……」


「ううん、違う。悪いのは私。先輩を、私の色に染めきれていなかった、私の失敗です」


 サクラは顔を近づけてきて、そっとそれを握り――笑った。


「じゃあ、犯すね。あんなイヤな女のことなんて、すぐに忘れさせてあげますから」









「――シオンさまっ!」











「っ」


 銃声。

 男として大事な『何か』を失うその直前――

 ねばついた夜を裂くように、その音が響いた。


 俺の顔に、温かな何かが飛び散った。


 俺の上に覆いかぶさろうとしていたサクラの頭が、何かに殴られたようにぐらりと揺れ、そして糸の切れた人形のように、そのまま倒れ込んだ。


「シオンさま!ご無事ですか!」


「イマリっ」


 拳銃を手にし、体のあちこちから蒸気のような煙を立ち上らせながら、俺の生涯で最も頼れるパートナーが、いつものように駆けつけてくれた。

 その顔は深刻で、傷を負っているのにも関わらず、まず俺の拘束を解き始める。


「すでに通報は済ませました。お怪我は?何かされたり……」


「いや、大丈夫だ。手がちょっと痛むくらいで、未遂だ」


 俺の言葉に、イマリの表情が少しだけ和らぐ。

 彼女は自分の上着を俺の肩にそっと掛けてくれた。


「よかった。ですが、今は一刻も早くここを離れましょう。すぐにでもシオンさまを安全な場所へ――」





「テメェ、やってくれたね、クソ人形がぁぁああッ!!」





 普段なら、イマリはきっと避けられただろう。

 だが今の彼女は、明らかに万全な状態じゃなかった。

 そして、俺をかばうために動きが一瞬、遅れた。


 閃く光。

 イマリの胸元が裂け、空中に循環液が飛び散った。


「イマリ!」


「ぐっ……シオンさま、私の後ろから離れないでください!」


 頭から血を流しながら、先ほど銃弾を食らったはずのサクラが、ふらつきながらも立ち上がる。


「サイボーグか」


 さっき俺に触れていた、あの冷たい右手。

 今は、まるで中身が露出したように歪み、変形している。

 いや、隠されていた本当の形が現れたと言うべきか。


 銀色に煌く刃が、腕から突き出て、月明かりの下で震えていた。


「高周波ブレード……戦後のミリタリーサープラスか」


 俺は思わず口に出してしまい、眉をひそめる。

 イマリに目を向けると、いつもは冷静な彼女の表情に、いまは明らかな余裕がなかった。


「気をつけろ、イマリ。あの刃、お前の装甲を直に貫通するぞ」


「承知しております。近接戦は非常に不利です。それに……私の弾丸では、彼女の装甲は抜けません」


「制限解除で一気に仕留められるか?」


「無理です。あの店のこともありますし」


「ああ。あいつ、EMPデバイスでも搭載してるかもしれないな。厄介だ」


 サクラの、あのたおやかな微笑みはもうどこにもなかった。

 今そこにいるのは――怒れる般若だ。


「クソ人形が……。EMP喰らってもまだ動ける理由は知らねぇけど、もうどうでもいいわ。本当は終わったあと、じっくり料理してやろうと思ってたのに……この宴をぶち壊した罰、今ここで払ってもらう」


 パキン、と音を立てて、サクラの左手からも刃が飛び出した。


 月の下に佇む、人とカマキリを合わせたような、異形のシルエット。


 そんな姿にすら機能美を感じてしまう自分は、やっぱり、この世界にとって異物なんだろう。


「罰?それはこっちのセリフですよ、変態が」


 俺のパートナーは一歩も退かない。


「シオンさまを汚そうとした穢れは――プロトコルに基づき、この場で潰します」



 ◇


 砕けた巨大なドーム。

 舞台と、並べられた客席。

 ――ここは、かつての時代に栄えた劇場の跡地らしい。


 崩れ落ちた壁の隙間から、月光が差し込み、足元では名も知らぬ白い花が、ひっそりと咲いている。


 もしも目の前で繰り広げられている戦いがなければ、俺はきっと、コーヒーでも淹れて、静かにこの光景を楽しんでいただろう。


 十字に閃く光と、唸るような高周波音。

 静かな夜を引き裂くように、刃が我がパートナーに迫る。


 イマリは――その一撃を、紙一重でかわした。

 人造繊維じんぞうせんいの長い髪が数本、切り裂かれ、宙を舞う。

 無機質な光を反射しながら、ふわりと。


「死ねぇッ!邪魔!この人形がぁッ!」


 サクラが舞う。

 彼女を中心に、嵐のような剣舞が巻き起こる。


 その一振りの重さ、殺意の濃さ――

 遠く離れた俺ですら、身体を引き裂かれる錯覚に襲われた。


「ふっ!」


 軽く身を傾け、縦斬りを紙一重で回避しながら、イマリは引き金を絞る。

 パン、パン。乾いた発砲音。

 空気中に火薬の匂いが漂い、弾丸がサクラの露出した肌に当たり、火花を散らした。


「無駄ッ!」


 サクラが刃を振るう。

 舞台に置かれた白いベッドが、一刀のもとに両断され、中から綿毛が舞い上がる。


「はああああああッ!」


「……っ!」


 舞台すら踏み砕きそうな勢いで、サクラが突進する。

 イマリは後退しながら、拳銃を撃ち、距離を取った。


 遠くから見守る俺は――

 思わず、肩にかけられたイマリの上着をぎゅっと握りしめた。


 冷たい汗が頬を伝う。

 心臓が早鐘を打つ。


 俺は慎重に、浅く呼吸をした。

 一言も発せず、ただ黙って。

 声を出したらいけない。

 応援の言葉すらも。


 この、薄氷の上を歩くような均衡を、壊してしまわないように。


 狂熱に陥ったサクラと、防戦一方のイマリ。

 その死闘を、俺はただ、身を縮めて見つめるしかなかった。


 ――いつだって、そうだった。


 俺はあまりにも無力だ。

 旧時代の人間をはるかに超えた暴威を前に、ただの平凡な肉体しか持たない俺は、せいぜいエールを送り、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。


 もしイマリがこの場で敗れたら、次に狙われるのは、間違いなく俺だろう。

 あの時見た、白い衣装をまとった少年たちのように、俺もまた、並べられる側になる。


 それでも。

 それでもだ。

 俺は、目をそらさなかった。

 二人の戦いを、必死に、目に焼き付けた。


 ――美しい、と思った。


 それは、意志と意志の衝突だった。

 鋼と肉の軋み合いだった。

 命と命のぶつかり合いだった。


 目が離せない。


 この夜、この一瞬、俺ははっきりと感じていた。

 自らの命を賭け、運命という名のダイスを、テーブルの上に投げたことを。


 頬が引きつる。

 だが、わかっている。

 俺は、笑っている。


 ――かの夜のように。


「……っ!ちょこまか逃げ回って、鬱陶しいッ!」


「――驚きました。大戦後、これほど義体化が進んだ個体がまだ存在するとは」


 激しさを増す攻勢とは裏腹に、焦りを隠しきれないサクラの声。

 それに対し、最初は防戦一方だったイマリは、いつの間にか冷静な表情を取り戻していた。


「おそらく半分……いや、四分の三以上の肉体組織が置き換えられているでしょう。この改造の程度、使用されている部品の規格……明らかに生体改造法違反」


 再び繰り出された斬撃を軽く身を傾けてかわすと、イマリは拳銃を素早く振り、流れるような動きで新たなマガジンを装填する。


「腕だけじゃない、脚も、筋繊維の大半も人工筋肉に置換され、皮下には装甲……正直、あなたはもはや人間より、私たちに近い存在です」


「っ……!うるさいッ!」


 サクラが怒りに任せた乱れた斬撃を振るう。

 だがイマリは、それをまるで舞うように、軽やかにかわしていく。


「法律上は、脳組織と主要臓器が生体なら『自然人』と定義されていますので――プロトコルに基づき、あなたの命を奪うわけにはいきません。ですが……」


 イマリは初めて、守勢から一歩踏み出した。

 サクラの斬撃をぎりぎりでかわしながら、一気に間合いを詰める。

 刹那の攻防の中で、イマリは拳銃の銃口を、サクラの無防備な足へ向けた。


「――両腕は軍規格でも、脚はただのブラックマーケット品のようですね」


「っ、まずい――!」


 引き金が引かれる。

 銃声と共に、サクラの体勢がわずかに崩れた。


 イマリはその隙を逃さず、すぐさま銃を構え直し、今度はサクラの頭めがけてもう一発。


「っ!」


 大きく仰け反ったサクラは、一瞬、バランスを失う。


 イマリは迷いなく、軽やかに跳躍し、両脚でサクラの首を挟み込む。

 そして、バネのように身体をひねった。


 ――カックン。


 何かが砕ける、乾いた音。

 その音だけが異様に大きく響いた。


「――――っ!」


「全身を強化しておきながら、首の骨までは強化していないとは」


 イマリは、地面に転がったサクラを警戒しながら、銃口をしっかりと向けたまま立ち上がった。


「とはいえ、普通の人間なら即死でも、あなたほど改造されていれば……これくらいでは死なないでしょう。さすがに、完全に断ち切るのは、私でも難しいですから」


「こんな……ところでぇ!」


「動かないほうが賢明です。無理に暴れれば、今度こそ脳組織にダメージが及びますよ」


「……っ」


「――あなたの負けです」


 サクラが動かないことを確認すると、イマリは拳銃をホルスターに収め、ゆっくりと俺の方へ向き直った。


 しかし――

 気を抜いた彼女は、まだ気づいていなかった。

 地面に倒れたままのサクラが、憎悪に満ちた目を彼女に向ける。


 裂けた顎。

 歪んだ口腔から――

 突き出してきたのは、まるで銃口のような機構だった。


「もう大丈夫です、シオンさま。あとは警察に任せて。さあ、戻りま――」


「――イマリ!」


 気がついたときには、俺はすでにイマリへと飛びかかっていた。


 短く鋭い銃声。

 そして、熱い痛み。


「シオリさまっ!?くっ……!」


 俺に押し倒されたイマリは倒れた体勢のまま、すぐに拳銃を構え直し、サクラの顎を撃ち抜いた。

 我がパートナーは慌ただしく立ち上がり、俺の体を必死にチェックし始めた。


「ご無事ですか!?シオンさま!?血が……!まずい……!なぜこんな危険なことをなさったのですか!」


「はは……気づいたら、勝手に体が動いてた。たまには、俺もカッコつけてみたかったんだよ」


「何を言ってるんですか、もう!」


 安心したせいか。あるいは、ただの疲労か。

 俺の体から、一気に力が抜けた。


 視界が、ぼんやりと霞んでいく。


「シオンさまっ!?しっかり……!」


 俺の意識は、再び深い闇へと沈んでいった。

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