第4話 あなたのために
「俺の……ため?」
「ええ、そうよ」
カオル――美しい我が許嫁は、昏い瞳をこちらに向けた。
「美少年で、しかも婚約者持ち。……私の愛しいシオン、あなたは明らかにアイツの好みだ。あんなものにあなたが欲望の対象として見られたかもしれないなんて──考えただけで、腹が立つ」
カオルは俺の手をぎゅっと握りしめ、指を絡めてきた。
「アイツにとって、今までの男たちはただのつまみ食いよ。本命に手を出す勇気がなかったから、その代わりに他のもので空腹を紛らわせてただけ」
「……」
「みっともないわね、欲望すらコントロールできないなんて、純度が低すぎる」
「はあ」
「最近はちょっと調子に乗ってきたみたいね。私のシマに手を出していいとでも思ってるのかしら。そんな礼儀知らずなクズは、八つ裂きにされて当然よ。だから情報が入ったら、部下を使って囲みに行こうと思ってたの。まさかあなたがそこにいるなんて、思ってなかったけどね」
ミオは誰かに向かって呪いの言葉を吐き続けた。
その様子を見て、俺の中に疑念が湧いた。
「その言い方……犯人のこと知ってるのか?」
「どうかしら?」
ミオは肩をすくめて答えをはぐらかし、そして甘ったるい笑みを浮かべた。
「さっきも言ったでしょ。シオンは、自分が気持ちよくなることだけ考えてればいいの。あんなハエどもは、全部――私が処理しておくから、ね。もう二度と、子供の頃みたいな目には遭わせない」
少女は再び俺の体にぴったりと身を寄せてきた。俺は思わずため息をつく。
カオルの口から犯人の正体を直接聞き出すのは、どうやら無理そうだ。 昔からそうだった。この子は、隠したいことがある時、こうやってごまかして済ませようとする。
ふと、配信中にリスナーから届いたマシュマロを思い出した。
――シオンさまも、ああやって飾られてほしい。
ぞわりと全身に悪寒が走った。
甘くて危うい香り。死の気配。
これ以上にスリリングな状況が、他にあるだろうか。
でも――いったい誰なんだ?
思わず考え込んでいた俺の顎が、ぐいっと無理やりカオルの方へ向けられた。少女はぷくっと頬を膨らませ、不満げな顔をしている。
「むぅ。せっかく可愛い婚約者が目の前にいるのに、ほかの人のこと考えてるの?うちのシオン、悪い子になっちゃったね」
「ま、悪い子かいい子かって言われたら、そりゃ悪い子かな」
あの出来事があってから、俺はもう完全に『悪い子』だった。 でも、別にそれが悪いことだとは思ってない。 だって、悪い子ってけっこう楽しいんだよな。
もちろん、それはイマリの助けあっての話だけど。 パートナーである彼女がいてくれるからこそ、俺はこうして好き勝手に動き回れる。
心のどこかで、まるで自分の半身のようなイマリを気にかけながら、俺はカオルに話を振った。
「そういえば、カオル。最近はどう過ごしてた?」
「別に? ただ毎日、株を売ったり買ったり、相場の上下を見ながら演算通貨と業務の配分を調整して──それから、ずっとシオンのことを考えてた」
「……そうか」
「うん」
少女はぐいっと俺の首元に顔を寄せ、
そのまま深く息を吸い込んだ。
「シオンがいなくなってから、世界のすべてがつまらなくなった」
「……そうか。ごめんな」
「んん……わかってるよ。シオンにはシオンの考えがあって、やりたいことがあって、一人の女に縛られるような男じゃないってことくらい。でも──」
カオルはさらに強く俺を抱きしめた。
「この世界で、シオンを独り占めできたらいいのにって。そんなことばかり考えてる私は、きっと……悪い子だよね」
「そうか。じゃあ、カオルも俺と同じ、悪い子だな」
「ふふ、そうだね。おそろいだ」
昏い瞳を持つ少女は、そっと俺から身を離し、柔らかく微笑んだ。
──が、すぐに何かを思い出したかのように、眉をひそめた。
「でもさ、考えてみれば……私、毎日シオンに会えるわけじゃないのに、あの人形はずっとそばにいられるなんて――許せない」
「だからイマリを壊しかけたのか?パートナーに当たるなんて、カオルにしてはずいぶん子どもっぽいじゃないか」
「ごめんね。シオンの大事なものだってわかってたけど、どうしても我慢できなかった。あんなものが、私の見えないところでシオンの全部を支えてるって考えたら……頭がおかしくなりそうで」
カオルはピンと眉を立て、まっすぐ俺を睨んだ。
「それに──もし、そういう『欲求』も受け止める機能があるんでしょう?ズルいよ。シオン、あの人形と……した?」
「いやいやいや。なんで急にそういう話になるんだよ」
「相手は機械だし、浮気とも言えないのはわかってる。だけど……シオンの『はじめて』をあいつが受け取ったかもって思うと、私、どうしても──」
「ストップ、ストップ。落ち着け。たしかに統括AIが配給するパートナーには、そういう機能もあるけど……俺はしないよ」
だって、もし本当にそういうことをしたら、出たものは統括AIに回収されて、人工受精のために提供されるんだ。知らないところで、自分の子どもが生まれてるかもしれないなんて……正直、嫌すぎる。
それに、俺はイマリを、そんな対象として見たことなんて一度もない。
「カオル、考えすぎだよ。俺は一度もイマリとそんなことしてないし、他の誰ともしてない。俺って、そんなに軽い男に見えるか?」
「でも、どうしても心配になっちゃうの。だったら、今ここで、すぐに──私にちょうだい?そうすれば、少なくとも初めては確保できるし……」
「落ち着け。たとえ婚約者でも、頭の中そればっかりっていうのは、さすがにちょっと、な?」
「むぅ……」
「可愛いわがままでも、ダメ」
「じゃあ──」
「ちょっとでも、ダメ」
「ケチ」
ふくれっ面の婚約者を前に、俺は思わず苦笑した。
そっと彼女に顔を近づけ、少女の頬に軽くキスを落とす。
「これで……我慢してくれる?」
「……ずるいよ、シオン」
カオルの頬がほんのりと赤く染まり、ぎゅっと俺に抱きついてくる。
「こんなことされたら、全部許すしかないじゃない」
俺たちは、ただ静かに寄り添いながら、流れる時間に身を任せた。
カオルの懐かしい香りと体温が、知らず知らずのうちに俺の心をほぐしていく。
この子がいろいろと過激なところはあるけれど、それが全部、俺のためだってことは、ちゃんとわかってる。
だけど──
「で?イマリの様子はどうなんだ?今日も配信の予定があるし、そろそろ戻らないと。イマリのサポートがないと、いろいろ困るんだよな」
カオルは目を細めて、じっと俺を睨んだ。
「もう、会うたびにすぐ帰るって言うんだから。せっかくいい雰囲気だったのに。シオンって、すぐ仕事のこと考えちゃうんだから」
「悪い」
「……まあ、そんなところまで可愛いって思っちゃう私も、だいぶ重症だけどね」
カオルは小さくため息をついて、やや不満げな顔をしながらも、俺の体を解放してくれた。
「不特定多数の相手に向けてパフォーマンスしてるの、ちょっとだけ妬けるけど……まあ、それがシオンの好きなことなら、許してあげるわ。私、そんなに器の小さい女じゃないもの。そのくらいの譲歩なら、してあげてもいいわよ」
「そりゃあ、ありがたいね」
「ええ、たっぷり感謝しなさい。それから――私に溺れなさい、シオン。困ったことがあったら、私がなんでも引き受けてあげる。疲れたときは、迷わず私の胸に飛び込んでくればいいの。何でも、してあげるから、ね」
「ああ」
俺は、ふと思いついた疑問をカオルにぶつけた。
「なあ」
「ん?」
「さっき教会でさ、どうやってイマリを無力化したんだ?」
「ああ、それね。実は結構シンプルなんだよ」
カオルは肩をすくめながら答えた。
「ただ、大戦時代の軽量型EMP兵装を使っただけ」
「EMP兵装……?」
「ええ。簡単に言うと、電磁波で対象の電子機構を焼き切る武器だよ。まあ、現代の統括AIが配給してるパートナー機体は、基本的に電磁バリアを標準装備してるから、普通に撃ってもあんまり効かないんだけど──」
カオルは指を一本立てた。
「でもね、制限解除状態だと、電磁防御にスキができるんだ。そこを狙えば、EMP兵装でもちゃんと効果が出るってわけ。サイボーグや無人兵器を対象にした軍用規格なら、指向性エネルギーを使って、電磁防御を持つ兵器にもピンポイントで打撃を与えて、確実に機能停止させることができるわ」
「なるほど。よくそんな──本来なら規制対象っぽい代物を手に入れられたな」
「まあ、手段なんていくらでもあるからね。お金さえあれば、今でも普通に買えるよ。しかも、そんなに高くないし」
「マジか」
もしそれが本当なら、今俺が追っているあの犯人の手口にも、少しだけ見えてきたものがある。
「……なるほど。ありがとな、カオル」
「どういたしまして」
カオルはふっと微笑み、手をひらひらと振ってみせた。
「じゃあ、またね。あなたの人形はもう玄関に用意させてあるわ。配信、頑張って」
「おう」
俺が立ち上がり、扉の方へと歩き出した。
そして、俺の拡張現実視界に着信の通知が現れた。
発信者は――サクラだ。
「先輩、今どこにいるですか?無事ですか?」
「サクラ?ああ、大丈夫、こっちは平気だよ。どうかした?」
「すみません。なんだか急に嫌な予感がして……先輩に何かあったんじゃないかって、心配になっちゃって」
「はは。急だな。大丈夫だよ、俺は。ちょっと、ある人に会いに行ってただけだ」
「……そうですか」
数秒の沈黙のあと、何かを考え込むようにして、サクラは再び口を開いた。
「その……先輩。この前お話しした情報の続なんですけど、興味ありますか?もしよかったら――」
通話の向こうで、サクラが小さく息を吸い込む音がした。
「オフコラボ、しませんか?」
◇
「はぁ?そんなの、ダメに決まってるでしょ。うちのシオンを、どこの馬の骨とオフコラボさせるなんて、絶対ムリ」
「いやいやいや、イズモさん?相手はサクラだよ?うちの大事なタレントだよ?そんな言い方、いくらなんでもひどくない?」
サクラとのオフコラボについて提案した直後、返ってきたのはこの一言だった。
目の前にいるイズモは、相変わらずの気だるげな表情で、安っぽいタバコをふかしている。
その頽廃的な佇まいのまま、何事もなかったように、俺の提案をばっさりと切り捨てた。
「ねえ、イズモさん──」
「ダメ」
「まだ最後まで言ってないって」
「ダメッ」
「……はぁ」
ここまで言われては──俺も奥の手を出すしかない。
「理由をちゃんと説明してくれないと、俺……イズモさんのこと、嫌いになりそう」
「ぐっ」
「はぁ……少しは憧れてたのになあ、イズモ社長。まさかそんな器の小さい人だったなんて」
「ぐぐっ……」
「そうか、そうか。じゃあもういい。今日は帰る。せっかく、イズモ社長に会いたくなって立ち寄ったってのに」
「……こら。待って」
イズモはそっと俺の服の裾をつかんだ。
俺は半目で振り返りながら、彼女の耳がうっすら赤く染まっているのに気づいた。
「それで?ちゃんと説明してくれる?」
「……もちろん。理由は──嫉妬、かな。だって、私ですらシオン君と出かけたことないのに、サクラに先を越されるなんて」
「おい」
「……っていうのは冗談。本当はね、シオンくんの安全のため。それだけだよ」
「いやいやいや、なんかサクラが危ない人みたいな言い方してない?あの子、ずっと真面目そうだったじゃん?」
「はあ……時々思うんですけど、シオンくんってちょっと鈍いね。もうちょっと女を見る目を養ったほうがいいよ。サクラの配信内容、ちゃんと知ってる?」
「ん?まあ、ちょっとだけは。いろんなお店を回って、レポートする企画だよね?」
「……何にも分かってないんだね。いい? よく聞いて」
イズモは俺の肩をがしっと掴んだ。
視界の端で、イマリの眉がピクリと動いたのが見えた。
「サクラが行ってるお店ってね、『そういう系』のも、あるんだから」
「そういう系?」
「えっと……エ、エッチなサービスを行う店のこと、かな」
「へえ」
イズモが珍しく言葉を選んで口ごもる。
その横で、イマリはうっすらと目を細め、『てめぇ、うちのご主人さまに何吹き込んでんだ』って顔でイズモを睨んでいた。
……とはいえ、正直、なんで二人がそんなに過敏に反応してるのかはよくわからなかった。
「まあ、別にそれを否定するつもりはないし。人類最古の娯楽産業だって考えれば、特にどうとも思わないけど」
「……そ、そう。シオンくんが気にしないなら、それで……って、いやいやいや、よく考えたら全然よくない」
まるで心底から疲れているかのように、イズモは深いため息を吐いた。
「シオンくん、忘れてる?サクラが言ってたあのお店って、本当に『ウェディング・マーチ』が出没する可能性がある場所なんだよ?どう考えても危険すぎるでしょ?」
「だからこそ、なんだよ。犯人が現れるかもしれない場所なら、実際に空気を感じておきたいと思ってさ。イズモさんだって、本来そういうの……興味あるんじゃない?犯罪マニアとして」
「……興味あるってところは否定しない。けど……やっぱり、心配なんだよ」
「まったくもう、イズモさんって過保護だよな」
「それは大人の責任感って言ってほしいね」
「へぇ、イズモさんにもまともな感性が残ってたんだ。意外。まあでも、忠告はありがたく受け取っておくよ。ちゃんと気をつける」
「……じゃあ、せめてこれを持っていって」
そう言って、イズモは机の引き出しをごそごそと探り、小さなリングを取り出した。シンプルな銀の指輪。その中央には、小さな青い宝石が埋め込まれている。
「これって?」
「発信機兼トラッカー。指輪型のやつだよ」
イズモは指輪の中央、青い宝石を指で示した。
「ここを押すと、救難信号を出せる。もし万が一ってときは、私がなんとか駆けつけるから」
「イマリがいるから、別に──」
「パートナーがいても無力化された前例があるでしょう?シオンくんは男の子なんだから、保険は多いほうがいいよ」
イズモはちらりとイマリに視線を向けた。イマリは苦い顔をしながらも、何も言わずそれを受け止めていた。
俺はその指輪を、特に意識もせず左手の薬指にはめた。
すると、イズモがわずかに目を見開き、耳がさらに赤く染まるのが見えた。
「……こほん。シオンくんって、そういうところが誤解を招くんだから」
「え?」
「ま、まあそれは置いといてっ! とにかく!オフコラボ内容は絶対に生配信しちゃダメ、いい?全部終わって、安全が確認されてからアーカイブ形式で投稿。それから、自分の身はちゃんと守ること!サクラの差し入れドリンクは飲まない、イマリ抜きで勝手にどこか行かない、個人情報も絶対言わないで!それから──」
「はいはい、イズモさん、そのへんはもう大丈夫。イマリも一緒だし、しっかり気をつけるから」
長々と続くイズモの心配を軽く遮って、俺は苦笑を浮かべる。
ちょうどそのとき、AR拡張現実端末に通信が入った。
発信者は──サクラだ。
『サクラ? どうした?』
『あっ、先輩。イズモさんの許可、取れましたか?』
『ああ、一応な』
『よかった。それでは、約束の場所でお会いしましょう。私が案内しますね』
『了解。じゃあ、後で』
『はい。お待ちしてます』
通話を終え、俺はイズモのほうへ向き直る。
「じゃあ、行ってくる。今回の取材、楽しみにしてて、イズモさん」
「……わかったわ。気をつけてね」
イズモに別れを告げたあと、俺はイマリの護衛のもと、事務所の前に停まっていた車に乗り込んだ。
ふかふかのシートに体を沈め、深く息を吐く。
「はぁ……なんか、まだ始まってもいないのに疲れた気がする。まったく、今回のイズモさんのお小言、多すぎだよ」
「ですが、イズモ社長の心配はもっともかと。むしろ、私も今回のオフコラボには少々不安を感じています」
「ん?イマリも心配してるのか?」
「はい。過去にもオフコラボの経験はありましたが、相手はすべて男性でした。今回のように女性が相手というのは初めてですし、イズモ社長が慎重になるのも無理はありません」
「まあ、そう言われると、そうかもな。でも、サクラだし、大丈夫だろう?お前もいるし、何とかなるさ」
「……シオンさまがそうお考えなら、私はそれに従います」
「おう。頼むぞ」
車は思っていたよりも早く目的地に到着した。
都市の繁華街を抜けて少し走った先、自動ナビに従って、車は指定された場所で静かに停まる。
そして──彼女は、そこにいた。
俺が車から降りるのを見て、彼女は一瞬、目を見開く。
すぐに表情を引き締め、姿勢を正して、丁寧に一礼した。
「はじめまして。あなたが、シオン先輩……ですよね?」
「ああ、俺だよ。待たせたなら悪かったな、サクラ」
「いえ。私も、今来たところです」
仮想空間で見慣れた姿と、ほとんど変わらない。
穏やかな笑みを浮かべたサクラの頬は、ほんのりと赤らんでいた。